10 その誤解は止まることを知らない
とてとてとて
まるでひな鳥のように大柄な男の後ろを付いて歩く少女。
小さな白い手は、男が身につけているシャツの後ろを控え目にきゅっと握っていて、見る者の保護欲を容赦なく刺激する。
「ミティリア、ちょっと部屋に書類を取りに行くだけだ」
言葉だけ聞くと、まるで聞き分けのない幼い子どもを嗜めているようだが、いつもは険しく鋭い眼光が愛しげに緩んでいるのだから、少女の行動を喜んでいることは明白。
その証拠に、ソファから立ち上がったかと思えば、少女に引き留められてすぐにまたもとの場所に座りなおしている。
「ダニエル…………あれは、私の息子なのか?」
思わず隣にいた執事のダニエルに問いかけてしまったディートハルト・アイゼンバーグ侯爵に罪はないだろう。
「正真正銘、ライオネル様でございます」
懇切丁寧に返ってきた、分かり切った答えを飲み込むには少し時間が必要だった。
ディートハルト・アイゼンバーグ侯爵といえば、軍事帝国エルディーダにおいて、軍部の頂点である元帥にまで上り詰めた傑物として帝国内でも非常に有名な人物である。
前皇帝が退位した際に、権力にしがみつくことなく主と定めた前皇帝と共に引退を決めた潔さには、当時誰もが驚いたという。
爵位の継承こそまだ行っていないものの、元帥引退に伴い領地経営を跡取りである長男のシーザーへと譲っているため、現在は隠居状態と言える。
隠居状態とはいえ、普段から鍛錬を怠らない体躯は衰えを知らず、歳を重ねるごとに増す威厳。
現役時代よりも威圧感があるとは彼の過去の部下であり、現在の元帥である男の談である。
そんな国政から離れて久しいディートハルトに、恐れ多くも現皇帝陛下から書簡が届いたのは、つい先ほどのこと。
隣国の少女の保護をアイゼンバーグ侯爵家に命じるという何とも奇妙な内容に少しの不審を抱きつつ、陛下のご命令とあれば従う他ないだろうと飲み込んだ。
息子がその少女を連れて帰宅したとの報告を執事から受けたため、少女に与えられた客間へ顔を合わせにきたのだが、そこで自らの目を疑う光景を目撃することとなった。
ソファに腰掛けた息子にぴたりと身を寄せる少女は大変見目麗しく、齢50を超えるディートハルトをしても、お目にかかったことのないほどの極上品だ。
己の息子を決して悪く言う訳ではないのだが、並んで座っている二人の姿は、控え目に言って極悪非道の誘拐犯と人質にしか見えなかった。
ディートハルトが現役であれば、即座に捕縛案件だ。
再び用事があると立ち上がる息子に、どこか必死な様子まで滲ませながら、後を追い離れようとしない少女。
「ああやって、ライオネルに付いて回っているのか?あのライオネルに?」
俄かには信じがたい。
なぜなら、ライオネルはディートハルトのコネや根回し無しに実力で師団長の座をもぎ取った猛者ではあるものの、これまで一向に女性にモテた試しがないのだ。
自分だってアリーシャと結婚するまでは浮いた話などほとんど無かったが、それでも侯爵家の跡継ぎということもあり、それなりにお誘いや秋波を送られることは少なくなかった。
長男でライオネルの兄でもあるシーザーに至っては、現在の妻と結婚するまでに散々浮名を流している。
決して顔が醜い訳ではない。
それどころか野性的だと称されるディートハルトと違い、社交界の華と呼ばれた妻に良く似た、整った造りだといえる。
しかし、その造形など意味を為さない程、どうしようもなく悪人面なのだ。
食事中でさえ張りつめている険しいその顔に、お前はスープを飲みながら何を企んでいるんだと父親ながら疑問に感じていた。
どこで育て方を間違ったのか。
厳しく育てすぎたせいなのか。
長男であるシーザーと同じように育てたはずなのに。
いや、よくよく考えると、ライオネルは生まれた時から、ちょっと親でもびっくりするくらい怖い顔だった。
「あれはライオネル様が用も無いのにわざとうろうろしていますね。はい。お嬢様がひな鳥のようにぴったりひっついてくるのが嬉しくて、行かないでと服を控え目に握って欲しくて、帰宅から現在におけるまで何度も何度も何かと理由をつけては傍を離れようとしています」
「……そうか」
息子の成人男性の行動としてそれはどうなのかという報告を信頼する執事からされた父親は、他に何と言えば良かったのか。
なんとか絞り出した返事はたった3文字の大して意味のない相槌になってしまった。
「あなた、ライオネルにくっついてるあの子がミティリアちゃんよ可愛いでしょう?」
妻であるアリーシャの言葉にその少女の名前がミティリアということを知る。
衝撃の光景に目を奪われていた為、ディートハルトの視界に入ってはいなかったが、どうやらアリーシャは客間の椅子に座って息子達の様子を嬉しそうに眺めていたらしい。
アリーシャがディートハルトに声をかけたことで、やっとこちらの存在に気付いたのだろう。
ライオネルとミティリアと呼ばれた少女がディートハルトの方へと視線を向けた。
いや、曲がりなりにも軍人であるライオネルは気配でとっくに父親の存在に気付いていたはずだ。
まず間違いなく自らの幸せを優先して、こちらをずっと無視していたのだろう。
やはり育て方を間違えたか。
ライオネル以上に体格の良い、厳めしい人物の登場に、ミティリアはライオネルのシャツを握り込んだまま固まっている。
(……ゴリラ?え、金髪のゴリラ?すげー珍しい。めっちゃこっち見てくるけど、物投げてきたりしないよな?あ、でもゴリラにしてはちょっと人間臭いな……ゴリラに似た魔物とか?今まで一度も魔物って見たことなかったけど、こんな感じなのかな。襲って来ないし、見た目に反して大人しいとか?女王様のペットかなんかかな……服着てる二足歩行のゴリラの魔物が闊歩してるなんて、ファンタジー。さすが魔王城だ!)
ディートハルトがじっと見つめると、ぴゃっと息子の大きな体の後ろに隠れてしまった少女。
それでもこちらが気になるのか、少しだけ顔を出して観察するようにちらちらと視線を向けてくる。
その手はしっかりと息子の服の端を握っており、決して離れたくないといわんばかりの態度は、この少女が心の底から息子を慕い、頼っていることが如実に伝わってくる。
こんな健気で美しくも可愛い少女を、無理矢理引き離せる者などいるはずがない。
普通であれば。
「身元ははっきりしているのか?」
そんないたいけな少女に対して容赦なく厳しい言葉をかけるのは、さすが元帥まで上り詰めた男ということか。
見た目に惑わされること無く、冷静に現状を把握しようとする姿勢は、軍部や国政においては大変好ましく歓迎されるものだ。
だが、この場でそんな態度を歓迎する者は一人もいなかった。
皇帝からの書簡では軽い事情しか記されていなかったため、侯爵家で預かる以上当然の疑問を投げかけたにも関わらず、四方八方から飛んでくる殺気に似た敵意の数々。
おかしい。
一体我が家はいつから敵地になったのか。
殺気の方向に視線を向けても、長年勤めてくれる忠実な使用人達と、自らの妻と息子しかいない。
まさかな。
彼らがディートハルトに殺気を向けるなんてそんなことあるはずがない。
いつまでも若いつもりでいたが、自分もついに耄碌したか。
思わぬ老いの気配にドギマギした気持ちを抱いていると、ライオネルが口を開く。
「ミティリアは、サロメ王国の辺境の町アリアードにおいて、領主館の地下に物心がつく前から監禁されていたということしか分かっていません」
「監禁だと……そんな訳ありな娘をお前は連れ帰ってきたのか?」
またまた至極当然の言葉を口にしたにも関わらず、今度ははっきりと知覚できるほどの殺気を感じた。
気のせいではなかった。
自分はまだまだ現役だと若干得意気にその出所を探ると、複数の場所から発せられており、そのうちの一つはまさかの愛する妻アリーシャだった。
結婚から早30数年。見合いによる政略結婚とはいえ、美しい妻をディートハルトは愛している。
少し他の夫人達より自由な面はあるものの、軍人として家庭を顧みることが出来なかったディートハルトを文句も言わずに陰日向と支えてくれる出来た妻だった。
そんな愛する妻が。
まるで親の敵のように鋭い視線を送ってくるではないか。
「アリーシャ?どうしたんだお前」
「いいえ、別に」
ひやりとした冷たい声は、初めて耳にするものだ。
……いや、そういえば同じような声を結婚10年目に巻き起こったディートハルト無断外泊アンド浮気疑惑事件の際に聞いたか。
つまりは、アリーシャはあの時と同じくらい怒っているということだ。
(ゴリラが喋った。さすが魔界だな。じゃあうさぎさんみたいな動物とかも喋れるのかなあ?いいなー俺うさぎさんとかワンちゃんとか、かわいいモフモフした動物と話すの夢だったんだよ。ゴリラが会話できるくらいだから、この世界の生き物は喋れるんだろうな。あー、もっとまじめに言葉を覚えとくべきだった……言葉分かんないとモフモフとも話せないじゃん。やっぱ異世界は言語スキル必須なんだ。あ、言葉が分かったらきっと魔法も使えるようになるだろうし、すごい魔法を使う真の勇者として覚醒さえすれば、こんな風に女王様に怯えてりゃい様にくっつく必要なくなるじゃん!ナイス、ゴリラさん!)
アイゼンバーグ侯爵夫妻の間に吹くブリザードなど気付きもせず、デッドオアデッドの現状を打破する糸口となったゴリラ……ではなくディートハルトに感謝の笑顔を送る。
浮気疑惑の誤解が解けるまでの悪夢の1週間を思い出し、どうにかして妻を宥めなければとうろたえていたディートハルトは、突然のミティリアの笑顔に瞠目する。
「あいあとー」
つたない言葉。
それでも一生懸命感謝の気持ちを伝えようという健気な気持ちだけは、充分すぎるほど伝わってくる。
物心つく前から監禁されていたと先程ライオネルから聞いたばかりだが、この様子では満足に話せないようだ。
監禁と言う不穏な言葉は気になっていたが、ミティリアのふわふわした雰囲気からそう酷い扱いは受けず、軟禁程度だと勝手に想像していた。
それが、まさか言葉まで奪われる程凄惨なものだったとは。
「……ミティリアは言葉さえ教えてもらえず、長い間暗く湿った地下に閉じ込めらていました。会える人間は食事を運ぶメイド一人だけ。普通の人間であれば間違いなく狂う。しかし、ミティリアはそのような過酷な環境にいたにも関わらず、自分を閉じ込めた側のメイドに、お礼を言ってしまえるような美しい心の持ち主なんです。ミティリアを監禁していたのは、サロメ王国の中枢にいる人間だと推察されるため、引き渡しなどしようものなら、あの過酷な環境に再び置かれることは明白です。何があろうと俺が全ての責任を負います。どうか父上、我が家でミティリアを保護させて下さい」
(言葉を覚えてー、そんでもってバンバン魔法覚えてー、女王様とりゃい様倒したら、あのいつものおばちゃんしかやってこない安心安全で夢のような部屋に戻ってやる!)
悲しいほどに二人は噛み合っていなかった。
ミティリアはライオネル曰くの過酷な環境に戻る気満々だ。
「あいあとー」
(ゴリラさん、ありがとね。俺言語スキル習得頑張るから。応援してね!)
つたなくも、心のこもった感謝の言葉は、だからこそより相手に気持ちが伝わる。
言葉は分からずとも、ディートハルト達がミティリアを保護する立場であることには気付いているのだろう。
心からの感謝の言葉を述べて、綺麗な笑顔を浮かべた後、恥ずかしそうに再びライオネルの背後に戻る少女。
少女の様子を穏やかな満ち足りた表情で見守る息子。
親でありながら、こんな息子の表情は初めて見た気がした。
そんな二人を満足そうに、そして微笑ましげに見つめる妻。
そこには陽だまりのような幸せしかなかった。
「…………ダニエル、料理長に夕食を一人分増やす様に伝えてくれ」
巨大な軍事帝国において、軍部におけるトップにまで上り詰め、幾多の修羅場を潜り抜けてきた男の慧眼が確信した。
不器用な息子に幸せを運んでくれるであろうこの少女は、間違いなく善良で心優しい娘だと。
どうやらディートハルトの慧眼は全くあてにならないようだった。
「陛下、再びアリアードへ向かわせた一団から連絡が入りました。いつも野営地に使っている湖の水位が、先日アイゼンバーグ師団長の一団が使用した時と比較して明らかに上昇しているとのことです。あそこは年々、水量が減少の一途を辿っていたはずの場所です」
「…………どういうことだ」
事態は密やかに、だが急激に変化を遂げようとしていた。




