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瀬名さん、頑張ります

「よー、気根」

「ああ、おはよう」


僕と同じ二年生で同じ学科の作田が珍しく一限目から学校に来ていた。


「なに。作田は単位落としそうなの?」

「うん。そうじゃなきゃこんな朝っぱらから来ないよ」


2人で大講堂に入り、「倫理学」の講義の出席ノートにはんこを押す。

口髭を生やした若い准教授が教壇に立った。


「皆さん、課題の本は読んできましたか」


僕を含め、学生たちは無言で頷く。作田は頷かない。


・・・・・・

先月最後の講義の時、准教授が僕たちに課題図書を提示した。

文庫本を手にとって作者の肖像が書かれた表紙をかざしながら彼は僕たちにその名前を告げた。


「皆さん、ドストエフスキーはご存知でしょう」


その時も無言で頷く学生がほとんどだった。


「課題図書は『カラマーゾフの兄弟』です。とてもボリュームのある本ですから来月終わりの講義までに読んできてください」


さすがにみんな一応20歳前後のまあ、大人だ。えー、とか言う声は上がらなかった。


僕は生協に入荷されていたカラマーゾフの兄弟を上・中・下巻購入し、瀬名さん御用達の御茶ノ水の老舗ホテルへと向かった。


ロビーの喫茶で瀬名さんを待つ間、3冊の表紙ばかり眺めていた。本を開けるのが怖いぐらいのボリュームにためらってしまっていた。


「あら、気根くん。『倫理学』取ったんだ」

「え、もしかして」

「うん。わたしも去年読んだよ、それ」


渡りに船だ。

僕は瀬名さんにこの小説の概要を教えてくれないかとお願いした。


「ダメ。それはダメだよ、気根くん」

「え」

「だって、わたしがいくら気根くんの彼女だからといって、あなたの心の奥底まで入り込む権利はないわ。それはあなたとドストエフスキーのふたりでやる作業」

「え、どういうことですか?」

「いい、気根くん」


そう言って瀬名さんは僕にこんこんと語ってくれた。


「わたしはマンガも読むけど小説も読むわ。どちらも人間にとって必要不可欠なもの。たとえばわたしは女の子が読まないようなマンガからも女性としての生き方を学んだわ」

「ええ。僕も瀬名さんが貸してくれたマンガに少なからず影響受けてます」

「マンガも小説もとても素晴らしい。でもね、気根くん。小説はある意味異様なメディアなのよ」

「異様?」

「ええ。マンガは美しく魂のこもった絵を読者に具体化して見せる。音楽は明確に音を伝える。でも、小説にはそれがない。あるのは作者と読者の思考回路の激突なのよ」

「瀬名さん。今日は饒舌ですね」

「だって、気根くんに頑張ってほしいから」

「・・・」

「わたしはあなたの感性がとても好き。こんなわたしを大切にしてくれる博愛主義者のような感性が」

「そんな。僕は純粋に瀬名さんがいいと思ってるだけで」

「謙遜する必要はないわ。だからあなたにはせっかくのこの機会を逃して欲しくないの。ドストエフスキーと人間として対等に渡り合って。頑張って、読破してみて」

「・・・はい。頑張ります」


・・・・・・・・・


こういう経緯があり今日の講義を迎えたのだ。


准教授が学生たちに向かって言う。


「どなたか、感想を言っていただける方」


なんとなく僕は彼に視線を向けた。

准教授がにこっ、と微笑む。


「目が合いましたね。あなた、どうですか?」


手のひらで僕を指し示しながら立つように促す。


「せっかくですからこちらへいらしてマイクで皆さんに」


作田が瞬きしながら僕を見上げる。


「おいおい、気根。大丈夫かよ」

「うん。大丈夫」


ゆっくりと教室のスロープを下り、准教授の隣へ。マイクを受け取ってonを確認する。そして、座席のまばらな、けれども優に100人はいるだろう彼女・彼らに向かって僕は語った。


「『なんで?』というのが人間の苦しみだと感じました」


しん、として教室後方のスピーカーから流れる僕の声を聞く学生たち。


「僕はこの大学に入ってから色んな人たちと出会いました。先生方や皆さん、それから先輩方やバイト先の社員さんたち。そして、全員、それぞれの事情や境遇を生きています」


僕は間を取りながら教室全体を見回し、ゆっくりと喋る。


「僕のごく親しい人が、客観的に見て一番、『なんで?』という疑問を発するべき境遇だと思うんですが、彼女はそれを言いません」


あ、彼女、って性別限定してしまった。まあ、いいか。


「彼女と同じようにやり切れない疑問を持つ人が世に大勢います。『なぜあの人は裏切ったんだろう?』『なぜわたしが病気になるんだろう?』『どうして災害に遭ったんだろう?』『どうして戦争に巻き込まれたんだろう?』・・・」


僕は心の中で指を折りながらひと息に言った。


「ある人や本や世の風潮はこう言います。『受け入れなさい』と。でも、そうじゃない。受け入れるも何も、その人は既にその苦しみに向き合っています。事実として苦しみと同居して生きている。僕はそういう人の『どうして?』っていう切実な呟きまで奪うべきじゃないと思う」


僕は心の中で、瀬名さん、と一言呟いてからスピーチの締めくくりを述べる。


「できれば僕は、その疑問に応えられる人間になりたいと思います」


拍手があった。


自席に戻ると作田がうんうんと頷きながら、お疲れ、と言ってくれた。

准教授がマイクで短くコメントする。


「私も、あなたたちの疑問に応えられる人間になりたい」


瀬名さん。

僕は頑張りたい。


あなたの声なき、『どうして?』に寄り添いたい。


そしていつの日か、心の奥底であなたと触れ合いたいんです。


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