The shadows on the moonlight(月に墜ちた不可触民ズ:utb 3rd)
halさんから、イラスト頂きました
左がシナガワ君、右が飽浦君です
ありがとうございますっ!!!
halさんのページはこちらですっ!
http://mypage.syosetu.com/130938/
あっ、この話はhalさんの作品、兎は月を墜とすのコラボです
http://ncode.syosetu.com/n7030bf/
「Who are you ?」(お前ら、誰だ?)
彼は男にそう言ったそうだ。そして、その男は言い返したらしい。
「Questa è la mia linea.」(俺のセリフだ)
精神科医は常に心を平静に保たなくてはならない。
僕の部屋。つまり、診察室にはとても気を払っているつもりだ。
僕の席の向かいには、大きな絵がかけられている。豪華な額縁は金のフレームで、中には有名な絵画が飾られている。
部屋に置かれた観葉植物はみずみずしく、緑の茎を精一杯伸ばしている。見ていて微笑ましい。窓辺には小さな鉢植え。僕の椅子の隣には蔓植物を置いている。
本棚には僕の蔵書が並んでいる。美麗な表紙の中に収まっている文字は知識の泉。古びた茶色のページをめくると、インクの匂いが漂ってくるかのようだ。
ニーチェ、キルケゴール、ハイデガーにフロイド。並べられた背表紙を見ているだけで知的になった気がする。
読んでも意味はわからなかったけれど。
ああ、ハエトリソウが口を閉じた。どうやら何か捕まえたらしい。覗くと閉じられた二枚貝の隙間から蛙の足が見えている。ビック・ファイトになりそうだ。
僕の席の隣にはウツボカズラ。消化液の中で季節外れの蚊がもがいている。シンクロナイトのように、真っ直ぐ足を突き出していた。
ともかく、食虫植物達は今日もご機嫌のようだ。
僕の正面に飾られた絵はルーヴェンスの「我が子を食らうサトゥルヌス」。シナガワが嬉しそうに持ってきた。巨人が悪魔のような形相をして子供の胸肉を食いちぎっている。嫌がらせにしても酷過ぎる。かなり最低だ。
よくは知らないけれど、ニーチェはこう言ったのだそうだ。
「神は死んだ」
多分、神が死んだのは精神科医の診察所だと思う。
何だか逃げ出したくなってきた。
自由を求めて僕の魂は空気中をさまよう。
シナガワがドアを蹴破った。
大きな仕事終えて、戻ってきた彼は絶好調なようだ。
ドアのネジは外れ、粉砕されたドアの破片が室内で跳ね回った。ゴルフクラブで殴ったとしてもこうはいかない。ナイスショット。そう言えば良いのだろうか?
「大変な事になったぞ。飽浦。精神科医の飽浦先生様よ」
「ドアの方が大変だよ。どうして君はドアを蹴破ったりするんだ?」
「大変だと言っているだろう?」
シナガワは僕の言葉に答えない。会話が全く成立していない。彼との会話はキャッチボールというよりデッドボール。彼の言葉は道具というより、むしろ兵器だ。
つり上がった眉の下に強情そうな瞳。薄い唇は引き結ばれている。相も変わらず不機嫌そうだ。
彼のダメージド・ジーンズは布地が大きく裂け、まるで口を開いているかのようだ。不平不満が聞こえてきそう。
仕方がない。ここは大人になった方が良さそうだ。
「何なんだい、シナガワ? 今度は一体どうしたって言うんだ?」
シナガワはアンダーグラウンドに身を置く稼業。彼の日常はトラブルだらけ。東欧からこの国に来た時には色々世話になったものだ。
嫌そうな表情を作るのに精一杯の努力をしてみせる。できれば、やりたくない。
だけど、シナガワには関係ないようだった。
「そう言うな。お客様を連れてきたんだよ」
言われてみれば彼の後ろに二つの人影が立っていた。
一人は男。長身でやや長めの黒髪はクセ毛らしく軽くカールをしている。彫りの深い顔立ちに炯々とした目が据わっていた。鼻筋は真っ直ぐで、フェイスラインもスッキリ。野性味の中にどこか高貴な感じが隠されているかのようだ。
黒いシャツはスリムラインらしく見た目は細め。しかし、奥に強靭な力が感じられる。細身のパンツはすっきりと伸びていて、均整がとれて揺らぎが無い。
む。中々の美男子。
だけど、僕には遠く及ばない。美の女神までが屈服するであろう僕の美しさ。天使の輝きを想起させる金の髪。珊瑚の海を思わせる深いブルーの瞳。高い鼻梁にかけられた眼鏡は、美しさを引き立てるアクセントとなって絶妙なバランスを作り出している。思わず失笑してしまった。彼は身の程を知るべきだ。
おや? 隣に女の子が居るようだ。
伏せられたまつげの間から、遠慮しがちにこちらを探るように見る彼女。その頭には兎の耳が生えていた。
可愛いな。頭の中で百人ほどの小さな僕がスタンディング・オベーションを始める。口笛を鳴らす奴までいるようだ。大変な騒ぎになっている。
透き通る白い髪は清流のようにしなやか。青い瞳は山奥にある湖面のように静かだ。おとがいは細く、そこから流れる曲線は豊か。自然の恵みを感じさせる。春の訪れ。神々の祝福が生んだ至福の芸術品。
ただ、緊張の為か彼女の兎耳は天井目指して真っ直ぐに伸びていた。耳の裏側にある真綿のような毛も、心無しか逆立っているようだ。
「シナガワ。何、この人達?」
僕の言葉に怯えたのか、兎耳の女性は黒シャツの後ろに隠れた。何故だか舌打ちしたい気分になった。
「なあ、ご両人。こいつは飽浦。精神科医だ。自己紹介をしてやれよ?」
シナガワがいきなりイタリア語に切り替えた。野暮ったさの残る発音だが、聞き取れない事はない。
「俺はヘクター。そして、こちらはダリア。元の世界に戻りたいんだ」
鋭い視線。冷たい瞳は空気の流れでさえ捕えられるだろう。絹の糸ほどの油断も許されなさそう。明らかに殺気を放っていた。
できれば、その殺気はシナガワに向けてもらいたい。多分、僕と彼は握手ができるはず。
ヘクターの話を聞くと、彼らは別の世界に居たらしい。物語として並行して存在している世界。彼らはそこの住人なのだそうだ。
二人は恋人同士だろうか? ちょっと複雑な関係のようだった。
月で数えて六十四夜と五夜の狭間にできた空間。そこでダリアが能力を開放してしまったらしい。何が起こったのかと訊いてみると、ダリアは恥ずかしそうに俯いた。ここは深追いするべきではなさそうだ。レディーに恥をかかせるものではない。
彼らが自分の世界に戻る為には、闇の滴と無の滴が必要なのだそうだ。
昔あった事件を思い出し、僕は少しウンザリした。
シナガワが口を開く。
「俺に協力すれば考えてやらないでもない」
「元の世界に戻す方法を知っているんじゃなかったのかよっ!」
責め寄るヘクターを涼しい顔で受け流すシナガワ。可哀想にダリアは怯え、肩を竦めて目を閉じている。細い指先がヘクターのシャツに皺を作っていた。
「まあな。だが、タダでとは言っていないぜ?」
「クソ野郎!」
「ありがとう。耳障りが心地良い。曇った心も晴れるかのようだ」
肘に縋り付くダリアに視線を向けた。彼の弱みは彼女らしい。シナガワはそれにつけ込んだ。見ていられない程の嫌らしさ。
ダリアの手を握り、ヘクターは渋々尋ねる。食いしばられた歯が目に痛々しい。
「で、何をすれば良いんだ? 言ってみろっ!」
それを聞いて、顎を下げたシナガワ。目の窪みに影が落ち、酷薄な笑いを薄く見せている。蛍光灯が明かりを点滅させ、それはいっそう陰惨さを帯びた。
「南米マフィアのボスが来日する。一緒に来日する娘を攫うんだ」
「何だって?」
僕とヘクターの声が重なった。
その声に驚いたのか、ダリアの兎耳は天井を突き破るかのように伸びた。
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僕達は通りを歩いている。そこは若者が多く、聞こえてくる声もどこか華やいでいた。目に飛び込んでくる色も派手さはなく、少し気どった感じが気持ち良い。
片側三車線の通りは広い。道を挟んだ中央と両側の歩道には街路樹が植えられていた。夜になるとイルミネーションが灯されるのだろう。考えただけで心が浮き立つかのようだ。
それほど高い建物が無い為か、空が大きく感じられる。歩道を歩いてると、靴の音が弾んで聞こえた。落ち葉がまとわりついてきても、それさえも楽しく感じる。
ダリアはヘクターの腕にしがみつきながら、珍しそうに視線を動かしている。何か新しいものを見つける度に、ヘクターの腕を揺すって尋ねているようだ。彼は面倒くさがる事もなく、笑いながらダリアの指差す方向に頭を向ける。優しい視線が彼女を包むかのようだ。
僕達はその後をついてゆく。隣にはシナガワ。何だか楽しくなくなった。
結局、シナガワの提案は保留となった。ダリアを戻すとは言え、犯罪行為に手を貸すのは御免だと言う事だそうだ。それはそうだろう。僕だって大反対。ヘクターとは協定が結べそう。
「飽浦、女の魅力を計る方法を知っているか?」
シナガワがそう言ったので、適当に言葉を返す事にする。
「何? どうするの?」
「女が通り過ぎた時、振り返る頭の数を数えれば良い」
なるほど。言われてみれば、ダリアを追いかけ、振り返る頭がいくつかありそうだ。無邪気に歓声をあげる彼女の周りに、朝日を浴びた新雪のような輝きが見える。それでなくとも彼女の兎耳は注目に値する。
「それにしても、これからどうするんだい?」
「とりあえず休憩するか」
シナガワはそう言うと、ヘクターに声をかけた。周りの人目もあるのに、それを全く気にしていない。ただでさえ注目を集めやすい僕達に、好奇の視線が降り注ぐ。
「ヘイ、ヘクター。ガソリンを補給する」
「何だ? どういう意味だ?」
ヘクターが怪訝そうな顔をする。ダリアがヘクターに身を寄せ、目を不安で曇らせた。
小さな彼女の体がヘクターに押しつけられている。それを見た僕は何故だか黒い感情が湧き出てきた。
「飲まなきゃやってられない」
これには僕も同意した。頷いてみせる。
「昼間から酒か?」
「心にもガソリンが要るんだよ」
ビルに入り、三階まで上がる。手すりの向こう側は吹き抜けになっていて、覗くとまばらに人が歩いているのが見えた。
黒い枠のような酒店の入り口を通り抜けると、店内は思ったよりもスタイリッシュだった。天井は高く、格子の向こう側にある窓からは、柔らかな光が入ってくる。
僕達四人はカウンターにつく事にする。木のカウンターは磨かれており、木目が気分を落ち着かせた。
目の前の置かれたグラス。ダリアは臭いを嗅いでいた。目が好奇心で輝いている。ヘクターはそんな彼女を守るべく、周囲を注意深げに見回していた。危険が無いか注意を払っているようだ。探る目つきが険しさを含んでいた。
「ヘクター。落ち着け。誰も毒を注いだりしない」
「そういうお前が一番怪しい」
お互いの言葉が剣技のように火花を散らす。僕は他人のふりを決め込んだ。
グラスに注がれた酒を飲む事にする。喉を通る日本酒はフルーティー。僕は思わず声をあげてしまった。
「美味しい!」
「シナガワ、お前が先に飲め」
「やれやれ、疑い深いものだ」
シナガワが薄笑いを浮かべながら、グラスを傾ける。視線はヘクターへ向けたままだ。緊張感が周りの空気を凍らせてゆく。
昼間の酒は背徳感もあって、余計に美味しく感じられる。胃の中で広がる仄かな暖かみ。僕は次の日本酒を頼む事にする。
もう、彼らの事はどうでも良い。
スパークリング日本酒も悪くないものだ。喉越しが楽しげで、次は何を飲もうかと考えた。
「ママも飲んでみたら? 美味しいよ?」
やや潤みを見せながらもダリアの目は輝いている。兎耳が忙しく店内の空気を掻き回していた。その暢気の動き。張りつめていた空気もやわらぎを帯びてきたみたいだ。
「お前も飲めよ、ヘクター。それともお前は下戸なのか?」
「安い挑発だな」
口に少量の酒を含み、毒が無いか探っているようだ。シナガワが呆れたように片手を上げ、カウンターの方へと向き直る。
「ひどく疑われたものだ」
シナガワの喉仏の向こう側にグラスを傾けたヘクターが見えた。
アルコールの入ったダリアは口数も増えたようだ。無垢な笑顔を浮かべて、シナガワに話かけた。
「ねえ、シナガワさん。娘さんを攫ってどうするつもりなんですか?」
いきなりの直球。僕とヘクターは固まった。シナガワまでもが呆気に取られていた。多弁な彼が言葉を失っている。
折角、忘れかけていたのに。
この場を満たす沈黙はそういう意味だと思う。酔いがいっぺんに吹き飛んでしまった。
「あ、ああ。依頼があってね。金になるんだ」
「どうしてですか? 悪い事なんでしょう?」
ダリアの視線を避けるようにして、あらぬ方角を見つめるシナガワ。珍しい事に咳払いをしていた。
「それを悪いかどうか判断するのは俺だ」
誘拐ビジネスだろう。この国以外では随分と物騒になっているのだそうだ。
日本は安全だと思っていたが、そうでもなくなっていくのだろう。声高に言われないものの、地味に犯罪が増えてきている。五年後にはどうなっているんだろう?
ため息をついてカウンターに肘を付こうとすると、隣にいた女性のポーチに手がぶつかった。
「すいませんっ」
遠慮深げに謝罪する彼女は栗色の髪の毛。少しウェービーな髪は肩より少しばかり長い。薄目に引かれたルージュが可愛らしかった。僕はすっかり気に入った。
「こちらこそ」
彼女から見ると僕は外国人。
緊張をしているのだろう。意識して視線を逸らしているのが、アルコールの香りに混じって伝わってくる。
この国で金髪を見る事も多くなったが、あれはジャンク・ブロンド。僕のようなプラチナ・ブロンドはほとんど見ない。その上、磨き上げられたこの美貌。この栗色の髪の女性は少なからず僕を意識しているハズだ。
日本酒が残っているグラスを倒す事にした。
「きゃっ!」
小さな悲鳴。栗色の彼女は自分の声に驚いたのか、口に手を当てていた。まるでリスが両手を口に当てているかのようだ。
溢れた酒は彼女のテーブルまで伸びている。まるで僕の好奇心のよう。
「これは大変」
ハンカチを出し、テーブルを拭く事にする。少し動転している彼女は居所を無くしてしまっているようだ。さあ、心の落ち着け場所を設けよう。
「袖が汚したかも知れませんね。少し見せてくれますか?」
ためらいを見せる前に、女性の手を取る。細い手首が不審で震えているようだ。少々、強引だったかもしれない。
でも、出会いを作るにはこれぐらいはしないと。
「細い手だね。こんにちは。僕は飽浦。君の名前は?」
女性は答えようか迷っているようだ。
僕はとびきりの笑顔をしてみせた。
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僕達はエステティック・サロンから出る事にした。まだまだ時間がかかるらしい。残してきたダリアは、まだ酒が残っているようだった。刺すような警戒感は解いてしまっているようだ。兎耳が頭の上で昼寝をしていた。
ヘクターは心配そうにしていたが、ダリアはそうでもないらしい。
「大丈夫なんだろうか?」
「ヘクター。君は心配しすぎだよ」
「そうだ。ダリアは綺麗になるんだ。それを喜ばなくてどうする?」
待っている時間ももったいない。ヘクターを刀剣店へと案内する。異国の空の下で、何も獲物がないのは不安があるのだそうだ。
刀剣店に入ると、店内は赤系統の照明。敷き詰められたマットレスの為か、音は床に吸収されている。柔らかい光で満ちた空間は、どこか暖かみがあって、ふんわりした気分にさせてくれた。
棚には百本を超える日本刀が並んでいた。年代物もありそうだ。伸びた鞘に時代を感じさせる色が浮かんでいた。
店長が出てきて嬉しそうに刀の紹介を始める。白い手袋をして刀身を見せてくれるが、彼の表情に浮かぶ笑みは、どこか肌寒いものを感じさせた。
「コレ見て下さい。綺麗でしょ? 吸い込まれるようでしょ? 多分、何でも斬れますよ」
切れ味は確かなようだ。店長の中の何かがキレている。僕はそんな事を思った。
ヘクターが手袋をして刀の重さを計っている。子供を抱き上げるようにして、手を上下に動かしていた。頭の中でイメージトレーニングをしているらしい。
「レイピアとは勝手が違うな。これでもないし、あれでもない」
シナガワはウンザリしたような表情をしている。ローテーブルの周りに設置されている椅子に座り、腕組みをしていた。本当にどうでも良さそうだった。
「シナガワ、彼に刃物を持たせちゃダメなんじゃ?」
「まあ、どうにもでなる」
いつかどうにもならない日が来るかもしれない。
そんな事を思っていると、ヘクターが嬉しそうな声をあげた。
「これだ!」
中身はやっぱり男の子という事らしい。彼が会心の笑顔を見せたのはこれが初めてだ。
僕達は仕立てシャツの店に行く。シナガワが言うには早縫いを売りにしている店なのだそうだ。顧客も紹介だけしか取っていないらしい。木の香りがする店内には、客は一人もいない。店に入ると毛の深い絨毯に足が沈む。
白いヒゲを生やした店主が、新聞をテーブルに置いた。彼の口にはパイプがある。種火はもう消えているみたい。口さみしくて咥えているだけのようだ。
「じいさん、急ぎだ。三着頼む」
「シナガワ? 久しぶりだな」
店主はそう言いながら、引き出しからメジャーを取り出した。さすがの手際。無駄の無い動きに意匠を感じた。
「急げ。時間が無い。レディーを待たせたくはない」
「お前はいつもそうだな。セミ・オーダーで良いんだな?」
「構わない。俺はデュエボットーニ。飽浦もそれで良いな? ヘクター、お前はどうする?」
「俺はいらない」
「馬鹿を言え。ダリアに掴まれ肘に皺がある。勘定は俺持ちだから好きなのを選べ」
一方的なシナガワの物言い。一気に畳み掛けるかのようだ。店長が曲がった腰を伸ばした。
「シルエットはイタリアン。ダーツは入れろ。カフスはダブル」
店内に火が付いたみたいだ。店主に背筋を伸ばさせられ、メジャーが当てられた。背中に感じられる彼の手は固く、年季が伝わってくるようだ。
「久しぶりに来たと思ったら、この慌ただしさ。何たる事。お前はもっと時間を楽しむべきだ、シナガワ」
「いいか、爺さん。俺はビジネスマンだ。忙しくない男はビジネスを名乗る資格は無い」
「どれだけ時間をくれる?」
「三時間」
マシンガンのような会話。店主が鼻に皺を寄せた。
「また無茶を」
「この店では侮りを売っているのか? それを買うつもりは無い」
店主は肩を竦める。額の皺が深くなった。抗議しているかのようだ。
「馬鹿な事を」
そして、言葉を続けた。
「儂の店は誇りを売っている。見ていろ」
新調したシャツは着心地が良かった。生地が良いらしく、肌触りも良い。身体が自由に動かせる。フル・オーダーならどうなるかな? 考えると楽しくなってきた。
エステティック・サロンに入る。
どういう事? ダリアの姿が見えないようだ。
「おい、シナガワ。これはどういう事なんだ?」
血相を変えて、ヘクターがシナガワに突っかかる。受付で訊く所によると、ダリアは待合室で僕達を待っていたらしい。そして、誰かに連れ去られたのだそうだ。
シナガワが不敵な笑顔を浮かべている。
「南米マフィアに、お前の命を狙っている連中が居ると連絡してやった。兎耳女がその一味。シャツの採寸をしている間に、電話でそう言ったのさ」
「貴様っ!」
裂帛の気合い。日本刀を抜き放ち、刀身をシナガワの首筋に当てる。目が本気だ。
「さあ、どうする? こちらに南米マフィアと交渉するカードは無い」
「ダリアに何かあったらただじゃおかないっ!」
「恐ろしい事を言うものだ」
「指先を一つ一つ落としていっても構わないんだぞ?」
刃先がシナガワの顎をなぞり、それに合わせてシナガワが上を向く。
「その南米マフィアの一人娘とやらは、このエステに来ている。ダリアを攫って、丁度手薄になっているはずだ。ほら、出てきたようだ」
振り返れば、黒服を着た護衛達に囲まれて、やや色黒の女性が目を丸くしていた。
「折角、シャツを新調したんだ。胸を張れ」
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セニョリータの扱いは難しい。
人質というにも関わらず、彼女の要求は随分なものだった。
巻き込まれてしまった僕もヘクターも、彼女は丁重に扱うべきだと主張した。せめてもの、良心のライン。これを踏み越える訳にはいかない。
だけど、セニョリータにテーマパークに連れて行けと言われた時、僕ばかりか、ヘクターまでが嫌な顔をした。
誘拐犯。そんな言葉が僕の頭を悩ませる。メリーゴーラウンドに乗っていながらも、僕の胸は重かった。罪悪感。この遠心力に任せて、月の彼方へ飛ばして欲しい。
木馬に乗ったセニョリータの楽しそうな笑顔を見ていると、まあ良いかという気分になってきた。何と言うのか、無邪気なものだ。
彼女の豊かな髪の毛は風の中で、嬉しそうに踊っていた。可憐な唇の間から見える白い歯は、まるで真珠のようだった。
もちろん、彼女に不埒な事をしようとは思わない。それをする事など、僕のプライドが許さない。多分、ヘクターもそうだろう。シナガワだけがワイルドカード。何を考えているのか分からない。元々、彼は突拍子もない所がある。
シナガワの携帯が鳴り出した。どうやらマフィアと交渉しているらしい。破裂音が強い彼のスペイン語の発音。まるで、殴り合いの喧嘩をしているかのようだ。巡る木馬の渦の中、電波を通じて戦争を繰り広げていた。
「この馬は歩みが遅過ぎる」
ヘクターが呟いた。木馬を挟んだ太腿に力が入っている。膝が馬の腹部を強く押していた。本当に乗馬をしているかのようだ。
「アレに乗ろう!」
セニョリータははしゃいだ声で言う。僕達は不承不承頷いた。
水上を滑ってゆくコースター。空に向かって昇ってゆく状況を見ている限り、何か良からぬ予感がした。
「ヘイ、飽浦。ヘクター。両手を上げろ」
シナガワがそう言うと、コースターはいきなり急降下を始めた。ヘクターは不満そうな顔をしていたが、下りはじめると尋常でない緊張を体に滲ませた。反射的に戦士としての肉体が緊急事態を察知したようだ。コースターから飛び降りようとしているのを、何とか押さえ付ける。
「心臓が飛び出るかと思った」
文句を行っているのは僕だけのようだ。こんなアミューズメントなど初めてだろうに、ヘクターは涼しい顔をしている。何だか悔しい気分になった。
外に出ようとしていると、画面に映像が並んでいる。
「何、コレ?」
見つめてみると、どうやら急降下した時に撮影された写真らしい。大きく口を開けている僕がいた。
「コレ注文するのは、どうすれば良いの?」
セニョリータの言葉に僕は小さく悲鳴をあげた。
トルコ料理は素晴らしい。並んだ皿に盛りつけられた料理。西洋と東洋の恵みの結晶。オリープオイルは良い物を使っているらしい。鼻の中に滑り込んできて、僕を夢心地にしてくれた。
前菜のサラダはビネガーとオリーブオイルだけ。だけど、ビネガーは良質なワインから作られたようだ。口に含むと爽やかな香りが口腔を満たす。ピクルスも良くつけられているようだ。刺激的だけど歯触りは損なわれていない。次の料理を期待させてくれる。
シナガワが席を立つ。どうやら電話に着信があったようだ。少しだけ興が削がれたような気分になる。彼は手で食事を続けてくれとサインを送り、ドアの向こう側に消えて行った。ドアが閉められるまで、彼のスペイン語が部屋の雰囲気を悪くした。
でも、それも次の料理が出されるまでだった。カジキのソテーに、エルメッキと呼ばれる手作りパンが出て来た。パンはまだ熱くて、つまんだ指が思わずパンを退けた。
ベリーダンスのサービスがあったらしいが、それは遠慮しておく事にする。既に美しいセニョリータはテーブルに居る。これ以上の装飾は過剰というものだ。
ワインを飲むと大地の豊穣さに心が震える。とても楽しくなってきた。
誘拐も悪い事じゃないかもしれない。
予約したホテルに入ってドアを開く。そうすると、シナガワの電話がまた鳴りだした。
会話に続く会話。既に彼が何を喋っているのか、聞き取るのは止める事にした。それでなくても、頭の中の言葉を切り替えるのは疲れる。
「アディオス、アミーゴ。お前が要求していた写真は送信した。確認しろ。そいつで人質の無事が確認できる」
シナガワは言葉を続ける。よくも舌が回るものだ。先ほど食べたトルコ料理で潤滑油が補給されたのかも知れない。
「彼女には何もしていない。そちらもダリアに手を出したりしていないだろうな? 何かあったらただじゃ置かない」
ようやく電話が終った。ヘクターは目の下に隈を作っている。落ち着きのない時間が通り過ぎるばかりで、精神的にもクタクタだろう。よく倒れないものだ。時折、黒い感情を覗かせてくるのは、苛立ちの為だろう。爆発を抑え込んでいるのが、気配から感じられる。
「ダリアと人質を交換しろ、今直ぐにっ!」
「冗談だろ?」
「俺は生き物を殺生するのに罪の意識は感じる。だがな、悪魔の場合はその限りじゃない」
剥き出しにした刃物のようなヘクター。触れれば斬れてしまいそうだ。
「その気迫は後にとっておけ。人質は丁重に扱う。彼女はゲストだ」
「はいはい」
僕は人質の面倒を見させられている。彼女が呼ぶので何だと思えば、髪を結ってくれ言ってきた。男三人の環境で大したものだ。動揺すらしていない。大物になりそうだ。彼女をゴッドマザーと呼ぶ日がいつか来るかもしれない。
見れば伸ばされた後ろ髪に枝毛があるようだ。枝毛鋏で丁寧に切った後、ブラシで髪を解いた。良く手入れされている。櫛の通りがとても良かった。
「それにしても、シナガワ。電話の電源を切ってくれないかな? 夜ぐらいはぐっすり眠りたい」
僕はせめてもの環境改善を要求する。このままじゃ肌が荒れてしまう。僕の美しさがくすんでしまえば、悲しむ人達も出てくるはずだ。おそらく、誰もが悲嘆に暮れるに違いない。それは良くない。ハッピーエンドを目指すべきだ。
「あいつらがひっきりなしに電話してくる事から考えて、キッドナップ・ネゴシエイターが出てきたんだろうな」
「何、それ?」
「保険会社から派遣されてくるんだよ。誘拐事件の際に交渉を担当する」
「そうなんだ」
「そうだ。彼らは心理学、行動科学に基づいて、俺との間に信頼関係を構築してくる。会話の中身を取り出して、俺のプロファイリングをしているはずだ」
ヘクターは舌打ちをした。腕組みをしながら忌々しそうにしている。気持ちはわからないでもない。僕だってこんな事に巻き込まれて、泣きたいぐらいだ。
「そこに誤った情報を混ぜてやる。彼らは俺の間違った人物像を構築し、それに基づいて行動を行う。そこを狙う」
「どうするんだ?」
シナガワが笑った。長年彼と付き合っているが、どうしようもなく人の悪い笑顔だった。
「彼らは俺を臆病で優柔不断と思っているだろう。何度電話しても、生返事ばかり。アクションを起こすのを決心しかねている。そう考えているはずだ」
嫌な予感がした。そして、それは的中していたようだ。
「セニョリータが無事だと確認させる為に写真を送った。そいつにはGPS情報が添付されている。ココへと人員を送ってくるはずだ。今から手薄になった住処に強襲をかけて、ダリアを取り返す」
ヘクターが顔を上げた。
「ヘクター、刀を持て。お前の力を見せてみろ」
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「もう大丈夫」
泣きついてくるダリアをヘクターはしっかりと抱きとめた。多分、彼は二度と彼女を遠くにする事は無いだろう。少なくともシナガワが居る前では。
「ママ、会えなくて寂しかったよ」
「ごめん。早く助けに来たかったんだ。もう離さないから」
泣きべそをかく、ダリアの涙を掬い、ヘクターはもう一度、ダリアを強く抱きしめた。まるで自分の中に隠そうとしているかのようだ。
「さて、これで一件落着だ。ところでセニョリータ」
シナガワの声でセニョリータが何だという顔をした。どこか傲慢さが見え隠れする瞳はつぶらだが、鋭い眉は鋼のような意志を現している。
「どうしたの?」
「お前の依頼は聞き届けた。この国で自由な時間が欲しい。お前はそう言ったな?」
「そうね。とても楽しませてもらったわ。でも、他の人は緊張していたから、少し不満が残る所ね」
シナガワが鼻を鳴らす。
「どちらにしても最期は最期。何をしたいか選べ、俺は忙しい」
「そうね。ダンスなんてどうかしら?」
頬に指を当てる彼女はとてもチャーミングだった。少し褐色の頬に置かれた指は、まるで小鳥の足のようだ。
「タンゴで良いか?」
「良いわね」
僕は考えた。
ヘクターとダリア。シナガワとセニョリータ。
それは良い。でも、一人女性が足りない。僕のペアが居ないじゃないか。ダンスはペアで踊るもの。どうにかならないものか?
「ああ」
僕は電話する事にする。
酒店で会った女の子が居たじゃないか。
栗色の髪の毛をした女の子は精一杯のドレスアップをしてくれたようだ。ふられた香水もかぐわしく、ショールを外した彼女の肩はとても魅力的だった。
バンドが後ろに控えている。彼女の腰に手を当てると、驚いたのか僕の顔を覗いてきた。
本来なら、もう少し抱くようにして手を回さなくてはならない。けれど、警戒感を深める訳にはいかない。軽く手を当てるだけにする。もう一方の手は彼女の手を軽く掴む。少し汗ばんでいるようだ。親指で軽くなぞって、拭き取る事にした。
音楽が始まる。セニョリータの要望に応じて、アルゼンチン・タンゴにする事にした。小さなアコーディオンのようなバンドネオンは演奏者が少ない。ここはバイオリンで代用だ。
高く引き絞ったバイオリンの音は、細いながらも長く、生糸のようにしなやかだ。音符の間がゆるやかに繋がり、それは絶妙なメロディーを奏でる。やや物悲しさを含んだ旋律は心を琴線を撫でるよう。相手をリラックスさせるように、軽く足を踏み出す事にした。
栗色の彼女は動きがやや固い。リードで軽く後ろ足を回転させるように振らせてみせた。
ヘクターとダリアはワルツのようだ。鴨の夫婦のように睦まじく、踊る姿は見ていて幸せな気分にしてくれる。ヘクターとダリアの熱い視線に割り込むと、きっとヘクターの刀刃で刻まれてしまう事だろう。甘い時間を共有する二人を邪魔するというのは無粋。視線をシナガワに移す事にする。
ひどくシャープな動きだった。相手も動きを心得ているのだろう。シナガワの強引なリードに良く付いていっている。跳ね上げられたセニョリータの足は、鞭のようにしなり、シナガワの足に巻き付いたかと思うと、次の瞬間には宙を舞っていた。
床を踏み鳴らして前へと進み、腰を抱いて更に大きなアクションへと移る。シナガワもヒートアップしているようだ。額に汗が浮かんでいた。
アクロバティックな動きに相手もよく応じている。セニョリータの身体が軽く浮遊をし、シナガワがそれをキャッチした。
よくやるものだ。
視線を栗色の女性に戻すと、いくらか落ち着きが戻って来たようだ。動きの中に余裕がでてきたみたいに見える。彼女の上体を後ろの反らせ、わずかばかりのポーズを決めてみた。
「落ち着いてきた?」
「ええ」
答える彼女の声は小鳥のようだった。もう少し慣れてきたら、派手なアクションにチャレンジしてみよう。多分、彼女はできるはず。
栗色の彼女にショールをかけ、タクシーを呼び止めた。運転手に言いつけ、家まで送ってもらう事にする。少しばかり向けられた彼女の微笑みに、僕は誇らしい気持ちになった。ネクタイが曲がっていなかったか、ちょっとだけ気になったけど、意識を逸らす訳にはいかない。手を振って彼女を見送る。
楽しい時間を過ごしてくれただろうか?
テールランプが見えなくなった頃、僕はシナガワの方に向き直る。
「セニョリータの父親は、娘の為に全ての物を買い与えてやるのだそうだ。だが、自由ばかりは与えなかった。俺はそのオーダーに応じたまでだ」
「始めからそう言えば、協力したのに」
ヘクターが呆れたように言った。眉間にそれほどの悪意は含まれていない。和解と見て良さそうだ。
「言ってしまうと、緊張感が無くなる。緊張は楽しむものだ」
「言ってくれる。しかし、どうして俺を巻き込んだ?」
「飽浦は暢気な所がある。彼は盾になっても剣にはならない。そう思ったからだ」
ヘクターは手を差し出した。シナガワは片眉を上げて、それに応じた。
「俺が憎しみの的になる事で、南米マフィアは日本進出より、注意を俺に逸らすはず。俺が海外に飛んでしまえば、しばらくはこの国も安全になるだろう」
ヘクターは笑い出した。
「馬鹿だよ、お前」
「光栄だ、ヘクター」
握られた手はより一層固くなったようだった。
そろそろ別れの時間が来たらしい。
闇の滴。
無の滴。
僕とシナガワは指を切り、滴り落ちる血を、二人の舌の上に置いてゆく。
「楽しかったぜ、お二人さん。今度来た時は、楽しくやりたいものだ」
「ヘクター、ダリアちゃん。何だか、忙しかったね。今度はゆっくりしたい所だね」
「じゃあな。無理はするなよ」
「バイバイ。何か大変だったけど、面白かったかも」
二人は自分達の世界に帰って行った。彼らは僕達の事を忘れるのだろうが、それは言っても仕方が無い事だ。そもそも僕達は別々の世界に生きている存在。
シナガワが空港へと向かう。また、この地を離れてどこかに行ってしまうらしい。彼はその方が楽しいのだろう。横顔には陰りは見えない。
「今度はドアを蹴破らないで欲しいんだけど?」
「さあな。その時次第だ。じゃあな、飽浦」
シナガワはシナガワの世界に帰って行った。また、どこかで会うだろうけど、できればお手柔らかにして欲しいものだ。
風に吹かれて並木の影が揺れ、僕の身体を覆う。
僕は僕の世界に帰らなくては。影の中へと消える事にした。
栗色の髪の女性をふと思い出す。
彼女は元気にしているだろうか?
他愛も無い事だ。彼女の安寧と心の平静を祈りつつ僕は姿を消してゆく。
闇は闇にあるべきだ。
僕は僕の世界に戻る事にする。
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アルゼンチン・タンゴ動画
http://www.youtube.com/watch?v=-owa25JhB6Y
【おまけ:多分、この人達セッションするとこんな感じ】
ヘッドホン推奨
Alto Sax:シナガワ
Guitar:ヘクター
Bass:ブルーノ
Drums:飽浦
Keyboards:ダリア
http://www.youtube.com/watch?v=33Nra5og4IE