3:雲隠れ
里穂さんは、紅白ママンと雛里ちゃんのパパン
その日も、雨が降っていた。
暗い暗い、部屋。
外では強い雨が降り続き、部屋に太陽の光が差し込むことはない。
上質な、美しい調度に囲まれたその部屋は、美しいながらも、どこも人の温かみが感じられない部屋だった。
部屋の中にいるのは、一組の男女。
部屋の上座で脇息にもたれかかる美しい紅い髪の女と、
彼女の目の前でなぜか腰を下ろそうとしないこれまた目を引く、美しい漆黒の髪の男。
女はどこか熱の籠った・・・だけど歪な色を宿す瞳で男を見やり、そんな女を暗く沈んだ瞳をした男は見ようともしない。
「・・・ひとつ、提案がありますの。」
女が囁くような声で、男に話かける。
それはじわじわ、体内に沈みこむ蜜のように甘く。
だけど男にとって、大切なものを奪い去る毒でしかなかった。
「・・・・・何を。」
最低限の言葉で帰ってきた男の返事に、女は紅色の唇でゆっくりと弧を描く。
紅い、紅い色。
人の体内から流れ出る、あの紅い色に女の纏うアカはとてもよく似ていた。
「貴方様がわたくしの願いを聞き届けくださるなら、わたくしはもう二度と真昼に手を出しませんわ。
貴方様だって、それをやめろと言いにわざわざ大嫌いなわたくしの元にいらっしゃったんでしょう?」
ゆらり、近づく女の動きに合わせて、紅い髪がその華奢な肩から滑り落ちる。
畳の上を滑るように女は移動し、男の目の前で蠱惑的な笑みを浮かべる。
すぐ互いに触れられるその距離で、女は男に微笑みかけ、男は女を睨みつける。
「・・・・・・用件は。」
その言葉に女は笑みを深くし、男の滑らかな頬に手を添えて口付けを落とした。
大きく見開かれた漆黒の瞳に自分が映るのを満足そうに見やり、再びその紅い唇を開いたのだ。
「わたくしの望みは、貴方様の子を産むことですわ。
それだけでわたくしは、あの憎い本条空の娘への暴力をやめるのだから、安いものでしょう?
さぁ、わたくしと貴方の子供を作りましょう?わたくしの愛しい愛しい・・・アキ姫様。」
真昼には、妹がいる。
だけどその妹である紅姫は真昼と同じ年齢・・・いわゆる双子の妹であり、赤子にこんなに近くで接したことなど、真昼にはなかった。
「ちっちゃい・・・。」
「なんか、ほっぺぷくぷくしてるっ。」
一心不乱に生まれて間もない弟――ミメを見やる真昼と紅姫を、暁は面白そうに見つめる。
自分たちだって十分小さいし、頬だってぷくぷくしているのに。
その微笑ましい光景を暁が飽きることなく見ていた時、部屋の襖が小さな音を立てて開き、暁は視線を鋭くしてそちらを見やる。
だけど入ってきた人物は暁が予想しなかった人で、彼の姿に暁は目を丸くする。
「珍しい。離れになんてめったに来ないくせに。」
ふてくされた顔をして立っていたのは雛里で。
幼い頃から自分の家の離れには極力立ち入ろうとしない雛里がやってきたことに、暁はからかうように笑う。
「お前が来てるって聞いたからな。姉様は?」
「里穂様に呼ばれて、今席をはずしてる。」
ふぅんと小さな声で言って、雛里は揺り籠を覗き込む真昼と紅姫を見やる。
二人の幼い少女の向こう側に、揺り籠に揺られ眠る漆黒の髪の赤子が見える。
今はまぶたに隠された瞳の色は、深紅。
「あれが暁と紅白姉様の子供・・・か。」
「そう、可愛いでしょう?」
悪戯っ子のような笑みを向ける暁に、雛里はこれ見よがしにため息をつく。
ゆらり、雛里の視界の端で何かが動いたと思ったら、暁は雛里のそばを離れ、赤子を覗き込む二人の娘に話しかけていた。
「真昼、紅姫。俺は少し雛里と話すことがあるから、ミメの様子見ていてね。」
暁の言葉に笑顔で頷いた真昼と紅姫の頭を撫ぜて、暁は雛里の前に戻ってくる。
そしていつもの少しばかり人の悪い笑みを浮かべ、言ったのだ。
「ほら、雛里。いこう?この間うちに来たときの問いを教えてあげるよ。」
遠い昔、平安と呼ばれた都に一人の姫がいた。
幼い背に流れる髪は美しい漆黒で、端正なその花のかんばせは人目につかないようその高貴な家の奥深くに隠されていた。
姫君は、隠されるもの。
だけどその姫君は、隠すために姫君と偽られた存在だった。
漆黒の髪と漆黒の瞳。
その色を持つものしかいなかった日の本の国で、あまりにも彼は異端だった。
平時にはは漆黒であるその瞳、だけど彼は感情の高ぶりと共に瞳が紅く染まった。
血のように紅いその瞳は人を脅えさせ、鬼子と呼ばれ奥深くに隠される原因となった。
『薄氷の家には、世にも稀に見るほどに美しい姫君がいる。』
真実を知らぬ人はそう噂し、鬼子と呼ばれた彼は深窓の姫君となった。
アキ姫。
その鬼姫はそう呼ばれていた。
鬼姫は大人になり、それと同時に姫君の殻を脱ぎ去り男に戻った。
依然漆黒の髪は美しく、平時には瞳も同じ色を映している。
幼き頃、鬼姫・・・アキ姫と呼ばれた彼は目の前を歩く幼馴染でもあり親友でもある男を見下ろす。
どちらかといえば背の高い彼とは違い、義弟となったこの親友は幼い頃からずっと平均より少しばかり小さい。
「それで、何が条件だったんだ?」
くるり、紅い髪を翻し、雛里は暁のほうに向き直る。
強い意志を持ってキッと見上げてくるその瞳は姉である紅白と同じ色で、だけど雛里の瞳は幼い頃から紅白のように濁ることなんて一度もなかった。
いつでも自分に正直で、愚かなほどに真っ直ぐな雛里がいつだって暁は羨ましかった。
暁は、嘘つきだから。
「子供を作り、それが無事生まれたら真昼への虐待をやめる。それが条件だよ。
現に紅白はミメが生まれてから一度も真昼に手を出してない。」
薄っぺらい笑みを浮かべて、暁は雛里の問いに答える。
暁は真昼の父親なのに、こんな風にしか真昼を守れない。
真昼が、自分は紅白の娘だと信じているから。
「真昼に、空ちゃんのこと話さないのか?」
「・・・真昼がもう少し、大きくなったらかな。」
そう言って暁が見上げた空は青くって、からりと晴れた夏の空は暁が好きだった彼女に似ていた。
逃げている、それに気づいていても未だ向き合うには暁は未熟で幼かった。
あまりにも、真昼が空に似てるから。
ゆらり、意識の奥底で記憶が揺れる。
あぁ、これは夢だ。
幼いながらもそれを理解し、目の前の現状を真昼はぼうっと見やる。
白銀の長い髪の女性が、腕の中にいる同じ髪色の赤子に笑いかける。
だけど、なぜか彼女の顔だけもやがかかっていて、それでも彼女が赤子に笑いかけたことだけは不思議とわかった。
長い黒髪の男が彼女の隣に座り、彼女と同じように赤子に笑いかける。
少年と青年のその中間ほどの年齢であろう彼を、真昼はよく知っていた。
「・・・・・・あーちゃん?」
おそらく夢の中だからだろうか。
暁に真昼の声は届くことなく、暁は真昼が見たことがないような幸せを凝縮した笑みで笑っている。
よく知ったはずの自分の父親が、自分の知らない顔で自分の見知らぬ女性に笑いかける。
だけどその見知らぬはずの女性をなぜか真昼は知っている気がして。
既視感・・・とでもいうのだろうか?
混乱したままの頭で、真昼はただただ目の前の光景を見つめる。
真昼が知るよりいくらか幼い暁が女性の腕の中の赤子の頬をつつき、幸せそうに笑う。
「ねぇ、空。すごく可愛いね・・・真昼。」
若い男と若い女、腕に抱かれる赤子の姿はまるで家族を絵に描いたような光景で。
自分の父が、自分と同じ名前の赤子を抱いた見知らぬはずの女に笑いかける。
まるで時が止まったかのような感覚を味わったその瞬間、真昼は夢から覚めた。
大きな、泣き声がする。
いつの間にか眠っていた真昼は、その声に首をかしげながらも体を起こす。
部屋に眠る前は一緒にいたはずの紅姫の姿はなく、代わりにミメの眠る揺り籠のそばに紅白の姿が見える。
きっと紅姫は、母屋からの迎えが来て向こうに行ってしまったのだろう。
泣き声の主は予想通りミメであり、だけど泣き続けるミメのそばで彼をあやすことなく紅白はぼうっと突っ立ったままだ。
「お母様・・・?」
寝起きのだるさの残った身体を動かし、真昼は紅白に近づく。
真昼の呼びかけにぴくりとも反応を返さない紅白のそばで、依然ミメは泣き続ける。
おなかでもすいたのだろうか?
そう思って揺り籠を覗き込んで、真昼は唖然とした。
泣き続けるミメのふくふくとした頬は、叩かれたのだろう・・・紅くなっていた。
「何で・・・。」
驚く真昼の隣で、紅白が地を這うような低い声で呟く。
あまり光のささぬこの薄暗い部屋では、明かりの燈されていない今、紅白の表情をうかがうことは真昼にはできない。
「何でっ・・・。」
今まで顔を伏せていた紅白が顔を上げる。
それによって長い髪の陰に隠されていたその顔が露になる。
そう、紅白の顔は鬼のような恐ろしげな形相に歪んでいた。
「何で・・・どうして、暁様はわたくしを見てくださらないの?
あの女と同じように・・・わたくしだって暁様の子供を産んだのに!」
まるでそのセリフは、生まれたばかりのミメだけが紅白と暁の子供であるようで・・・。
あの女・・・紅白がそう呼んだ女が以前、暁との子供を生んだ・・・・・・?
わけのわからないことに、真昼は視界がぐるぐると回る感覚を覚える。
「わたくしのほうが・・・あの女よりも暁様のことを愛しているのに!」
紅白が力任せに調度を殴る。
大きな音が響き、それに驚いたミメの泣き声が大きくなる。
それに気づいた真昼は揺り籠からミメを抱き上げて、慌てて紅白から距離をとる。
「何でなの・・・例えどんな経緯があったって、わたくしが暁様の妻なのに!
わたくしは暁様を手に入れたのにっ・・・!」
倒れた調度がガタンと大きな音を立て、真昼は幼い身体をちぢこませ、
腕の中のミメを落とさぬよう抱きなおす。
その間にも紅白は怒りを撒き散らすかのように部屋の調度に当たり続ける。
それは以前紅白から虐待を受けた真昼にとってあまりにも恐ろしいもので、真昼はそのあまりにも凄まじい怒りがおさまるのを部屋の片隅でミメを抱きしめじっと待つことしかできない。
「お母様・・・?」
その恐る恐る発した小さな声に紅白はぴくりと反応し、鬼の形相を真昼に向ける。
先ほどよりもずっとずっと恐ろしい、まるで親の敵でも見るかのような顔に真昼は身をこわばらせる。
「なんて憎らしい子・・・!
暁様の顔と本条空の色を持った、この世で一番罪深い、憎らしい子供・・・!」
「お前なんていなければ・・・
お前の母さえいなければ、暁様の心はわたくしのものだったのに!」
真昼のすぐそばにあった調度が殴られ、真昼はまたしてもその身をちぢこませる。
あまりにも恐ろしい現状、そして真実の数々に真昼はその場にいられなくなり、華瑠街の屋敷を飛び出した。
聞きたくない、知りたくないことから逃げたいという一心で、真昼はミメを抱いたまま走り続ける。
だけどいくら逃げても逃れられる気なんてしなくて、それ余計に真昼の不安をあおる。
混乱した思考の中、幼い子供である真昼にとって、ミメを抱いたまま走り続けることは困難であり、回りに気を使うことなんてできず、人にぶつかってしまう。
「真昼っ?」
思い切りぶつかってきた真昼の腕を引いて転ぶのを防いでくれたのは、長い白銀の髪と青の瞳をもつ真昼の”祖父”だった。
本条家の一番奥の部屋。
一人の女性の写真が、飾られた・・・ガランとした部屋。
目立った調度も家具もない、何もない部屋。
父はその部屋でぼうっと座っていることがあり、そのときの父はなんだかひどく悲しそう。
「ねぇおじいちゃん、あの女の人・・・だぁれ?」
父には聞くに聞けず、”祖父”に尋ねたことがある。
自分の知らない・・・あの祖父と自分と同じ色合いの女性は誰なのか・・・と。
少しだけ悲しそうな顔をして、”祖父”は教えてくれた。
彼女は・・・”祖父”の娘なのだと。
「おじいちゃん・・・っ」
「ミメ抱いたままそんなに急いでどうしたんだ?」
真昼の腕の中のミメを見やり、祖父は真昼の頭を撫で笑う。
祖父。
本条ミソカは、紛うことなき真昼の祖父にあったのだ。
「あれ・・・?紅嬢?」
振り返ってみると紅白が鬼のような形相で何かを探しながら走ってくる。
あまり屋敷から出ることのない紅白の尋常じゃない様子にミソカは彼女を訝しげに見やる。
「わたくしの子供を・・・暁様を帰してちょうだい!
暁様はわたくしのものなんだから!」
恐ろしい剣幕で叫ぶ紅白は真昼に掴みかかり、がくがくと大きく揺さぶられた真昼は落とさないよう必死で腕の中のミメを抱きしめる。
「紅嬢!そんな風にしたら危ないだろう、もしミメや真昼に何かあったらどうするんだ!」
ミソカは慌てて、真昼の腕を背後から支える。
そんなミソカに構うことなく、紅白は鬼のような形相で真昼に詰め寄る。
とてつもなく恐ろしい顔で自分を見やる母を見上げ、真昼は呆然と呟いた。
「お母様は・・・真昼のお母様じゃないの?」
「そんなはずがないでしょう!貴方のような歪な色の子供!
アンタは・・・わたくしから暁様を奪った、本条 空の娘よっ!!」
「紅嬢!別に空はあんたから暁を奪ったわけじゃないだろう!
暁は誰のものでもなく、暁のものだ。
そして暁は空のことが好きだったんだぞ!」
長い白銀の髪、腕の中の赤子を覗き込みさらりと揺れる。
綺麗な青の瞳が細められ、端正な顔立ちが優しい笑みを形どる。
彼女は赤子の頬を指先で少し撫で、隣に座る暁に微笑みかける。
『幸せなの』
口には出さなくても伝わる想いに暁は笑みを返し、彼女もまた微笑んだ。
夢の中で見た彼女は・・・・・・本条家の奥の部屋の、写真の人。
暁が愛してやまなかった、真昼の本当の母。
ぐらり、視界が揺れる。
祖父と”母であった人”が言い争う声が遠くに聞こえる。
鈍器で殴られたような感覚がして、真昼はそれに耐え切れずミメを抱いたまま思わず走り出した。
「わたくしの子供っ!暁様を返してちょうだい!」
紅白も真昼を追って走り出す。
だけど夕刻の人が多くなった通りでは、小さな真昼のように紅白にはうまく人の間をすり抜けることができない。
そんな時――――
「紅嬢、危ないっ!」
驚いたような祖父の声に思わず足を止め振り返れば・・・・・・・・・
ガラガラと・・・ぶつかったのだろう、崩れ落ちる荷車に乗せられた重たげな荷物
真昼を追っていたときの鬼のような形相のままそれを見上げる紅白は
ちょうどそれの真下にいて
周りにいた通行人が悲鳴を上げる
大きな音を立てて荷物が地面に落ち、
その下から広がる紅い血と血に染まった紅白が着ていた着物の袖が見える
先ほどよりもずっと強い頭を殴られた感覚に、足が竦んで動けない
『あの人は確かに、私の母ではなかった・・・』
『それでも私は、今までの短いながらの人生をあの人を母と慕い生きてきた』
「ぁ・・・あぁ・・・いやああああああああ」
通りに幼子の声が響く。
突如叫びだした姉に、自分の母が死んだことなど知らぬミメも泣き始める。
恐ろしい目の前の光景に、見たくもないのに目をそらすことができない。
祖父は人だかりの向こうにいて、到底こちらに来ることなどできそうにもない。
「ぁあ・・・あああ・・・」
母が、死んでしまった。
自分がミメを抱いたまま私が走り出したから。
私のせいで、お母様が・・・・・・。
「見なくていい。」
ふわり、後ろから抱きしめられて視界を大きな手に塞がれる。
視界が完全に埋め尽くされる直前に見えたのは、よく見知った漆黒の色で。
「真昼のせいじゃないから。」
優しい声が、降り注ぐ。
視界を塞がれたまま抱きしめられ、知らないうちに涙が零れる。
「・・・あーちゃん。」
「大丈夫だから、真昼は見なくていい。
これは真昼たち子供の問題じゃなく、俺たち親の問題だから。」
ただ、愛していただけ。
紅白は暁を、暁は空を。
そして空も・・・暁を愛していただけ。
第一部 完
紅白→暁⇔空