アルセ
あの怪しいと思っていた黒猫が、こちらを見ている。しかも、なぜか怒っているようだった。一方、グローリアはぼんやりしたようにクーを見つめていた。
こんなグローリアを見たのはコリスは始めてだった。それに、なぜ黒猫が怒っているのかも分からない。
コリスが戸惑っていると、エリアスが
「どうしたんですか?ギルゼルト様」と言った。
ギルゼルトと呼ばれた黒猫は、鋭い金の瞳を細くさせてクーをにらんでいた。クーはそんなギルゼルトを見ておびえたように体を縮めた。
すると、それを見たのか何を思ったのかわからないが、突然ギルゼルトは顔を背けると、何も言わずに店を出て行ってしまった。出て行くときに、コリスはギルゼルトの尻尾が二又に分かれているのを見て驚いた。
あの猫も二又の猫だったんだ・・・。
コリスはギルゼルトに対してちょっと怖い猫という印象を持ったのだった。
すると、ギルゼルトと行き違いに男性がパブに入ってきた。その男はこちらを見ると、とつぜん大声を上げた。
「クー!!!」
すさまじい怒りの形相でやってきた男は無造作に伸びた灰色のボサボサの髪をしており、口には無精ヒゲを生やしている。あまり清潔そうに見えないその男は驚いているクーを見て、次にコリスたちを見た。
いきなり現れた男にびっくりしているコリスたちをにらみつけると「なぜ私の弟子がここにいる!?」と怒鳴った。
そのあまりの怒りようにコリスがびびっていると、テヴォルトが「ああん?!」と挑むようにうなった。
すると、ボサボサ髪のその男はギロリとテヴォルトをにらんで
「お前が私の弟子を家から出したのか!? ああ、そうなのか!!?」
「バルバート!!」クーが叫ぶ。
「バルバート!?」コリスがびっくりして目を見開いた。あの男はクーの師匠だったのだ。
「誰がクーをここに連れてきたんだ!! 誰が―――!」
「バルバートさん、一体なんだというんです?」エリアスが眉をひそめていった。
すると、
「バルバート、落ち着いて。僕が自分の意思でここに来たんだよ。だれも僕を家から連れてきた訳じゃないんだよ」
と、クーが静かにいった。
「―――!!?」バルバートは驚愕してクーを見た。
コリスはじっとクーを見た。テヴォルトもだ。クーがどういう気持ちで師匠の言いつけを破り、一緒に外へ出たのか聞きたいと思ったからだった。
「なぜだ・・・? なぜ・・・」バルバートが聞く。
「バルバート、僕は外が見たかったんだ。それに、友達もほしかった・・・。でも、バルバートは僕の話をちゃんと聞いてくれなかったし、僕のために疲れているバルバートに申し訳なくて、僕も言えなかったんだよ」
バルバートは大きく目を見開いた。
「だから、コリスやテオには怒らないで。それに、僕はどこにも行かないから―――」
バルバートはクーを抱きしめた。そのせいで、クーは続きが言えなかった。
「そうか・・・、そうだったんだな・・・。すまない・・・すまなかったなクー・・・」
バルバートは涙を流していた。
バルバートは怖かったのだ。もう一度、愛しい者を失うことが・・・。昔、バルバートは弟子を亡くしたことがあった。敵に殺されたのだ。
まだ弟子が幼かったことと、初めての弟子を失った悲しみにバルバートは大きなショックを受け、塞ぎこんでしまった。とてもすぐには、次の弟子を持つことはできない精神状態だった。すると不思議なことに、バルバートにはそれから20年もの間、次の弟子の夢を見ることはなかった。
二又の猫は、子猫が生まれる夢を見る。そして、そのとき見た子猫を弟子にし、立派な部族の一員として育てるのだ。
そして、バルバートがようやく弟子が持てるまでに回復すると、クーが生まれる夢を見たのだった。つまり、クーはバルバートにとって二人目の弟子なのだ。
だがようやく持てたその弟子が呪われていると知り、バルバートはひどく動揺した。クーを外に出さないようにし、身体がボロボロになるまで背中の印について調べ続けたのも、異常なほど過保護だったのも、敵に弟子を殺されたことがあったからだった。
そのときはバルバートの弟子だけではなく、他にも何匹か殺されてしまった。悲しいことに、その殺された弟子の中にグローリアの弟子がいた。
抵抗できない幼い子猫を狙われたことに猫の部族は怒り、敵を探したが見つけることはできなかった。その敵が、どの部族の者なのかも分からない。
当時、その悲惨な事件は『子猫狩り』と言われ、しばらく猫の部族は他の部族との交流を断った。そんな時期があった。
「・・・あの、グローリア。さっきのって・・・」
コリスがクーたちを気にしながら聞いた。こんなにも騒いでいるのに、グローリアはずっとぼんやりしたままだった。だが、コリスに心配そうに覗き込まれてグローリアははっとした。
「あ、ああ・・・。なんだ?」グローリアが少し戸惑ったようすで聞き返した。
「アルセって誰なんですか?」コリスはまだ心配そうにしながら聞いた。
グローリアは息を吐いた。
「バルバート、あと、お前はクーだったか?」グローリアはクーを見た。
抱かれていたクーはこくんと頷いた。ようやく落ち着いたバルバートはグローリアを見ると目を見開いた。そして、
「・・・さっきは取り乱してすまなかった」と申し訳なさそうにつぶやいた。
「・・・全くだよ」テヴォルトがそうつぶやくと、エリアスが咎めるように見た。
「実はな、クーお前に言っておかないといけないことがあるんだ。バルバートは知らないと思うが・・・・私はお前と同じように背中に印を持つ猫を知っている。」
グローリアはクーを見て言った。クーはそれを聞くとぱあっと顔を輝かせた。「それじゃあ、やっぱり僕以外にもいたんですね?」
バルバートは驚いた。もちろん、以前にクーと同じ呪いを持った猫がいたことは知っているが、まさかそれがグローリアの知り合いにいたとは知らなかったのだ。
「80年もの前の話だ。その猫の名前はアルセ・・・歴史学者だった」
グローリアはつぶやいた。その目は遠くを見るように虚ろで、悲しみに満ちていた。まるで、ひどく親しかった者が亡くなったような・・・そんな目だった。
「あの・・・、その猫は・・・」もしかしてと思い、コリスが口ごもった。
すると、グローリアはその赤い瞳を伏せた。
「ああ、80年前に亡くなってしまった。アルセは魔者ではなかったからな・・・。もう80年も経つのに・・・無くしたときの痛みは、いつまで経っても消えることがない」
悲しそうに言うグローリアの手に、エリアスがそっと手を重ねる。
「そういうものですよ・・・グローリア。あなただけではありません」エリアスはいたわるように言った。
その青色の瞳は、無くしたものの痛みを知っている瞳だった。
エリアスも、誰かを亡くしたことがあるのかな?コリスはそう心の中でつぶやいた。
テヴォルトも目を伏せていた。
「私は今でも覚えている。アルセが次に生まれるだろう自分と同じ印を持つ猫のために、身を削ってまで歴史を調べていたのを。ギルゼルト、あいつもそれを知っていた・・・。だからあえて私に任せたのだろう」
コリスは傾げた。
「どういうことですか?」
「あいつはアルセとあまり関わりがなかったからな。私から話すほうがいいと思ったんだろう・・・」
「じゃあ、グローリアは仲がよかったんですか? そのアルセって猫と」コリスは聞いた。
「まあな。恋人になれと言われたこともある」
「ええっ!?」
みんなびっくりした。まさかそんな関係だったとは・・・。と、エリアスやバルバートは心の中で思った。
「それでどうしたんですか?」コリスが目を瞬いて聞いた。
「断った。そのとき私はもうそういうことに興味がなかったんだ。それに、あいつは他にも何匹か恋人がいたんでな」
「珍しい人がいたんですねえ」エリアスが関心したような呆れたような顔で言った。
猫の部族は恋愛感情が薄いたちなので、「恋人がたくさんいた」というのはかなり珍しいのだろう。よほど女好きだったのかもしれない。
「ああ、あいつは女ったらしだった・・・」懐かしそうにしみじみ言うグローリアを、みんなかなり複雑な表情で見たのだった。




