Ⅱ 私を赦してください
――北の果ての国ルテニア。
かの地は神が作り忘れた、あるいは絶望を封じ込めるために凍土としたような、美しくも残酷な牢獄であった。
今世紀の初頭、ルテニアを襲った未曽有の大寒波は、もはや天災という言葉では言い表せない、万物を無に帰そうとする「白き意志」の顕現であった。
エジュの記憶にある故郷の風景は、色彩という概念を剥ぎ取られた銀世界の凍れる静寂に支配されていた。
寒波による飢えは、まず両親の命を奪った。
残り少ない薪が炉でくすぶり、わずかな黒パンも石のように凍りついた朝、二人は寄り添ったままベッドの中で息絶えていた。
エジュは父母の手に触れ、あまりの冷たさに死とは温度を失うことなのだと理解した。
「エジュ、南へ行くぞ。南のパラディアには雪は降らない。あそこには太陽がある」
白髪を振り乱し、枯れ木のような手でエジュの肩を抱いたのは祖父だった。祖父の背中には、幼い妹がありったけの衣類にくるまれて括り付けられていた。
三人はわずかな食料や燃料を持ち、死の匂いが充満する村を出た。
南へ続く街道を目指して、雪原へと踏み出した。
空は何日も荒れ狂い、彼らに一筋の光さえ与えなかった。
狂おしく舞う雪は、エジュたちの視界を、道筋を、暴風と共に塗り潰していった。
五日目。
彼らは吹雪から逃れるため、街道沿いにあった崩れかけの廃屋へ入った。埃っぽく、常時冷たい風が吹き抜けたが、屋根があるだけありがたかった。
火を起こすと、凍った黒パンをこすって溶かし、ざらついた塩の味しかしない干し肉を炙った。
エジュは革のように固い干し肉を噛み千切り、口の中で柔らかくしたものを妹のアシャに与えた。
アシャは眠そうな目をしながらもよく食べた。
「兄ちゃん、もっと頂戴」
と言うので、エジュは自分の分の肉も与えた。噛み砕いては与え、与えては噛み砕き、アシャは兄の愛情を口に含むたび、んふと無邪気な声をあげて笑った。
悲劇は雪がやんだ夜半に起きた。
地鳴りのような轟音が、眠りかけていたエジュの心臓を跳ね上がらせた。
「――っ!」
かき消える熾火。ばらばらと落ちてくる石と氷の塊。
屋根に降り積もった膨大な雪が、老朽化した梁を潰したのだった。
視界が暗転する。埃と冷気が肺に突き刺さり、エジュは激しく咳き込みながら、必死に手を伸ばした。
「おじいちゃん! アシャ!」
何度も呼びかけたが、呻き声すら聞こえない。
ようやく這い出したエジュの目に飛び込んできたのは、月の光を浴びて青白く輝く、雪の山。
その中から、ほんの僅かに小さな妹の手が突き出されていた。手の下に、染み出してゆく赤いもの。まだ、温かい。
エジュは、狂ったように妹の名を叫んだ。
雪を掻き分けようとしても、指先はすぐに感覚を失った。妹の血もすぐに凍りついた。
エジュは、とうとうその場に突っ伏した。あまりにも寒くて、冷たくて、涙すら出なかった。
天涯孤独の身となったエジュは、這うようにして国境を越え、南の国パラディアへ辿り着いた。
パラディアの王都。華やかな喧騒。
街は昼も夜も明るく、極彩色の万華鏡のようだった。
ボロ布を纏い、泥にまみれたエジュにとって、都会の輝きは己の惨めさを際立たせる、刺すような光でしかなかった。
頼れる人も当ても家もなく、路上で暮らすしかない日々。
南の言葉も話せず、途方に暮れた。
パラディア語は、ルテニア語と方言程度の違いしかないのだが、気づくまでそれなりの時間を要した。
エジュは毎日、人通りが多い大路に出て、物乞いをした。
大抵は邪険に扱われ、運が悪いと殴られた。
「……汚ねえガキだ、あっちへ行け」
怒声が飛び、馬車の車輪が跳ね上げた泥水が、エジュを汚す。
夜、路地裏に蹲っていると、別の価値を見出された。
襲ってくる者の大半はエジュが男であると知ると、舌打ちし足蹴にして去っていった。身を押しひしぐ災厄に揉まれるうちに、エジュは知った。人間は、肌や髪や瞳の色で価値や値段が違うことを。
夜は重く、長く、彼は過ぎゆく嵐をじっと耐えた。
すべてを奪った白の暴威に比べれば、彼に触れてくるものは、まだ人間らしい粗暴な熱があった。
嵐が去ると重い身体を起こし、投げ与えられた小銭をかき集める。カビの生えたパンを買い、むしゃぶりつきながら、妹はあの時、祖父と一緒に死んで本当によかったと思った。
アシャはエジュよりも薄い白金の髪と菫色の瞳を持っていた。南では「白金人」と呼ばれる希少な人種で、高値で取引される。
しかも貴重な女である。生きてパラディアに来れたところで、あっという間に拐かされるか、金のために好事家に売ることになっただろう。
アシャはこの世の苦しみを知ることなく、降ったばかりの新雪のように清らかなままで逝った。エジュにとってはそれが唯一の救いに思われた。
エジュはいつも一人でいた。
同じ物乞いや浮浪児たちと交流することもなかった。
元々寡黙で引っ込み思案な性格だったし、誰かとつるんだところで、新たな搾取が大口を開けて待っているような気がして怖かった。自分も早く死にたいと思った。
通りに座って、うらぶれていたある日。
石畳を叩く、小気味よい軍靴の音がエジュの前で止まった。
顔を上げると、燦然たる陽光を背負った一人の青年が立っていた。
目の覚めるような紺青の軍服に、なびく黄金の飾緒。腰に帯びた銀のサーベルが光を反射している。
青年――シャーリは、多くのパラディア人がそうであるように、浅黒い肌と癖のある黒髪を持っていた。
「君は北の人間か」
問いかけに、エジュは黙って頷いた。
シャーリはその場に膝をつくと、エジュと視線を合わせた。
「私にも八分の一、北の血が入っているんだ。もっとも今は薄れてしまって、この眼くらいだが」
シャーリは深い蒼の瞳を指差し、少し残念そうに言った。
それから、革手袋を嵌めた指先でエジュの顎を掬った。
「君は死にたいか。それとも、生きたいか」
エジュは、絶望と希死に濁った瞳で彼を見つめ返した。
シャーリから放たれ、伝わってくる体温。
それは、かつて故郷で失った熱を激しく濃密にした……命の拍動そのものに思えた。
「……生きたい」
搾り出した声に、シャーリは微笑んだ。
「今は死んでいるが、芯には消えない火が灯っている。私と共に来るといい」
泥で汚れたエジュの手を、彼は力強く握りしめた。
シャーリの屋敷へと連れていかれたエジュは、温かいスープと、清潔な寝床を与えられた。
彼の邸宅は、重厚なマホガニーの家具であふれ、南国の甘い香料が微かに漂っていた。
エジュは、シャーリの使用人となった。
白亜のシャツを糊付けし、銀の食器を磨き、そして何よりも、シャーリという名の「神」の機嫌を呼吸一つで読み取る術を学んだ。
泥濘の中から拾い上げられた小石が、磨き抜かれた宝石となるまで、そう時間はかからなかった。
シャーリの屋敷で過ごす時間は、エジュの凍りついた魂を少しずつ解きほぐしていった。
「エジュ、こちらへ」
夕闇が室内を淡い琥珀色に染める頃、シャーリはエジュを書斎に呼んだ。
仕事の合間に、読み書きや歴史を教えた。
彼の大きな手がエジュの手を包みこみ、一緒にペンを動かす。
指先から伝わってくる体温は、エジュにとって聖遺物に触れるかのような戦慄を伴う悦びだった。
シャーリからは、上品な白檀の芳香、高級な紙巻煙草、そして微かな硝煙の匂いがした。エジュは彼の香りに、心が安らぐのを感じた。
「君は覚えがいいし、手先も器用だ。まだ磨けば輝く牙を隠し持っていそうだね」
射るような蒼の双眸に見つめられる。
エジュの胸の奥に、名もなき熱病が産声を上げた。
それは思春期特有の憧憬を越えた、魂の渇望――すなわち、狂おしいまでの……。
ある日、屋敷の裏手に広がる練兵場で、エジュの運命を決定づけることが起きた。
シャーリは、エジュに一挺の拳銃を与えた。
銀の唐草模様が施された重い装飾銃。
戦功で得たという、芸術品のような殺戮の道具だった。
シャーリは、三階建ての屋根、破風の先端についた装飾を指さした。下からだと小さな点にしか見えない。
「撃ってみろ。的は、あの石造りの小鳥だ。掠れば上出来だ」
エジュは、震える手で重い銃を構えた。
かつて、妹を助けようと必死に雪を掻いた指が、冷たい金属の感触を確かめるように引き金にかかる。
エジュの周囲の雑音が消えた。
集中、そして放出。
浮かび上がる鳥の輪郭、伸びる直線。つながる点と点。
――乾いた銃声。
弾丸は正確に石の小鳥を砕き、粉々に散らした。
シャーリは目を見開き、感嘆した。
パンパンと大袈裟なくらい、何度も手を叩いた。
「ああ、すごい。本当に素晴らしい。これは天性の才能だ。エジュ、君は小間使いで終わる器ではないね」
エジュは、シャーリの拍手を浴びた。
「よくやった、エジュ」
頭を撫でる大きな手。惜しみない賞賛の言葉。空から降ってくる満足げな声。
エジュの心臓は歓喜に震え、激しく拍動した。
白い悪魔にすべてを奪われたあの日、自分の命は終わったと思っていた。けれど、今、彼は自分を必要としてくれる。
以来、エジュは厳しい訓練に身を投じた。
寝る間も惜しんで射撃の腕を磨き、あらゆる距離、あらゆる状況で対応できる技術を習得した。
国軍に所属することはなかった。
彼はあくまでもシャーリの私兵、護衛の扱いだった。
エジュの手は、次第に柔らかさを失い、硝煙と油の匂いが染み付いていった。
数ヶ月後。
シャーリは、弾丸がぎっしり詰まった弾薬盒をエジュに差し出した。
世間話でもするように気軽に言った。
「エジュ、撃ってくれるね?」
彼の指が指し示した標的は、地図上ではただの×印だったが、エジュと同じ生きた人間だった。
エジュが黙っていると、シャーリは念を押した。
「撃ってくれるね、私のために」
その瞬間、エジュは理解した。
なぜ自分がここへ来たのかを。
生身の人間に鉛の弾を打ち込むために、連れてこられたのだと。
考えてみれば当たり前のことだった。
何の打算もなしに、北から来た難民の孤児を拾って飼育するわけがない。
思い返せば、屋敷にはエジュの他にも何人か孤児らしき少年が連れてこられていていた。……彼らはいつの間にか姿を消した。
シャーリは終始、穏やかに微笑んでいた。
エジュが拒否するとは微塵も考えてないようだった。
エジュは命令に従った。
夜の街を走り、標的の邸宅に忍び込むと、居間にいた男を撃った。
弾は、標的の眉間に食い込んだ。即死だった。
銃声を聞きつけたのか、エジュとさして歳の変わらない少年と少女が部屋に飛び込んできた。
――目撃者も生かすな。
命令通りに、エジュは撃った。二人とも動かなくなった。
エジュは彼らから染みだし、絨毯に広がってゆくものを眺めた。
他者に踏みにじられることはあっても、自分が踏みにじる側に回るとは思わなかった。誰のことも傷つけずに生きてゆきたかったのに……。
シャーリの元に戻ると、彼は手を叩き、エジュを褒めちぎった。
「エジュ、でかした。よくやった」
エジュは、胸に積もる悲しみと葛藤を押し殺した。
シャーリの影に潜み、彼が歩む権力の階段を、その血塗られた足元を支えることを誓ったのだった。
パラディアには四季があり、冬があった。
この地では、雪はめったに降らない。
数年に一度、寒波が入り込み、雪の予報が出るとシャーリはいつも嬉しそうに空を見上げた。
「エジュ、雪が降りそうだ。あれはまさに純潔の塊だな。心が洗い清められる気がする」
浮かれきった声に、エジュは少し呆れた。
あれの、何がそんなにいいのだろうか。
長い冬。乾燥しきった空気。陰鬱な曇り空。
積もった雪を降ろさなくては、家ごと潰れてしまうのに。
氷の嵐に閉じ込められれば、やがて飢えに苦しむ。燃料が尽きれば凍死してしまうのに。
きっと南の人間には、永遠に理解できないだろう。
北国に生まれ育った者の、狂暴な自然に対する畏怖と崇拝、なすすべもなく押し潰されて、光も音もない奈落に落ちてゆくような静かな諦念を……。
沈黙するエジュに、シャーリは苦笑した。
「君は好きじゃなさそうだな」
エジュは仕方なく答えた。
「私にとって、あれは命を脅かすものでしかありません」
「そうか。だが、悪いことばかりでもない。北の暴威は、美しい人間を創る」
シャーリはエジュの白く端正な顔立ちを、無謬的な確信を持って見つめた。
「どれほど暗闘に身をやつしても、君は気高く美しい。氷雪から切り出された女王のようだ」
エジュは、雪とは違う諦念に包まれる。
「……私は男です」
「そうだったな。すまない、侮辱するつもりはなかった」
シャーリも、思い出したようにため息をついた。
月日が流れ、エジュは十九歳の青年へと成長した。
雪と氷に怯える影はなく、容貌は物憂くも鋭利な刃物のような美しさを湛えていた。
シャーリは軍の中枢へ食い込み、権力の階段を強引に駆け上がっていった。
パラディアの権力闘争は、常に鮮血によって荒々しく磨かれる。彼は、理想に燃える清冽な騎士ではなかった。権謀術数を駆使し、政敵を冷酷に葬っていった。
夜、シャーリの寝室の前でエジュは銃を抱いて立つ。
部屋の中から聞こえてくるのは、暗号交じりの不穏な密談や、彼の出世を助けるための貴婦人たちとの甘い囁き。
エジュの胸は、苦く憂鬱な毒にじりじりと焼かれた。
シャーリは三十の半ばにさしかかっても独身だった。
彼は、自分を一番高く売る機会をじっと伺っていた。
新しい年を迎えて数日が経った頃、エジュを書斎に呼んだ。
彼は背を向けたままで言った。
「エジュ、君に大事な話がある」
「お伺いします」
「私は今度、内務大臣の娘ドゥルシエと結婚することになった」
エジュの視界の端で、暖炉の火が爆ぜた。
激しい火花が、己の心臓を焼き切ったかのような錯覚を覚えた。
華やいだ噂は耳にしていた。
とうとう、その時が、来てしまった。
「おめでとうございます」
「めでたいか。確かにな。それに伴い、というか当然の取引で私は昇進する。君も正式に軍属になる。これまでの働きを鑑みて、将校の地位を約束しよう。君は、君に付き従う部下のためにも頑張りたまえ」
「はい。でも、そうなったら私は旦那さまのお傍を離れてしまうのでしょうか」
「勿論これからも力になってもらう。が、まずは地方へ行かされるだろうな。誰もが通る道だ」
シャーリは振り返り、エジュをじっと見つめた。
「あまり嬉しそうじゃないな」
「そんなことは」
「本当か?」
「はい」
「エジュ」
「はい」
「君には……浮いた噂一つないが、結婚はしないのか?」
エジュはしばし逡巡し、答えを探した。
「私は、妻を娶るなら同胞がいいのです。ですが、この街に暮らしていては難しく」
「北の女、か」
「はい」
「南の女ではだめなのか?」
「はい」
どうでもいい、とエジュは思った。
肌も髪も瞳の色も、同じ血を持つ白金人も、そんなものはどうだっていい。
シャーリは嘆息した。
彼の眼に野心とは異なる、隠しきれない苦悩が滲んだ。
「私にも北の血が入っている。曽祖父は、傍系ではあるが王族の端くれだった。だが、北の女にのぼせて貴賤結婚をしたために、すべての特権を失った。おかげで祖父と父は大変な苦労をした。私は幼な心に、曽祖父のような過ちはけしてすまいと誓ったものだ」
「……そうですか」
「でも今は、君の気持ちがわかるような気がする。もし君に姉か妹がいたならば……何もかもかなぐり捨てて妻にしたかもしれない」
「もし妹が生きていたら、旦那さまに喜んで差し上げました」
アシャ。
エジュは、声なき声で喪われた名を呼んだ。
しみじみと思った。妹は、あの時死んで本当によかったと。
もし美しく成長してシャーリに見初められ、彼に嫁ぐ日が来たならば、自分はどうしただろうか。
たった一人の妹の幸福を願い、せいいっぱい祝福し、ひしと抱きしめて……それから、彼女の細い首を渾身の力で絞めたかもしれなかった。
二人の間に重い沈黙が降りた。
破ったのは、シャーリだった。
「挙式は春だ。君とはその前にお別れだな」
「はい。ですが、旦那さま、私はどこに行っても必ずやあなたの期待にお応えします」
「そうか」
「私の、前々からの願いがこれで叶います」
「そうか、それならよかった」
「はい」
エジュの声は、深い安堵に満ちていた。




