最愛の生け贄
ティアナは愛されていた。
父も母も優しく、屋敷は穏やかで、食卓にはいつも温かい料理が並んでいた。侯爵家としての体面もありながら、家庭の中では柔らかな空気が流れている。何不自由なく育ったと、そう言っていいはずだった。
婚約者との関係も良好だった。
彼は穏やかな性格で、声を荒げることはなく、ティアナの話をよく聞いてくれた。庭を歩きながら他愛もない話をし、帰り際に必ず言う。
「結婚したら、君をこの家から連れ出すよ」
その言葉を聞くたび、胸の奥が少しだけ軽くなった。
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父は国教――国土正教の信徒だと周囲には語っていた。
だが実際には、別のものに傾倒していた。
人目につかない、小さな教団。屋敷から離れた場所にある石造りの建物で、外から見ればただの古びた教会にしか見えない。
その教団は“当てる”。
季節の天候、作物の出来、船が戻るかどうか。
教祖が神託として告げる言葉は外れない。
その結果、家は富を得た。倉庫には穀物が溢れ、商船は損失なく戻り、帳簿の数字は年々増えていった。
父はそれを「神の導きだ」と言った。
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やがてティアナも連れて行かれるようになった。
夜、屋敷を抜け、馬車に乗り、灯りの少ない道を進む。教会の中は静かで、外の世界とは切り離されたような空気があった。
その日、初めて教祖と目が合った。
ぞくり、と背中を撫でられたような感覚が走った。
教祖は笑っていた。
穏やかな顔。信徒たちは皆、敬意を込めて頭を下げている。
だが、その目だけが違った。
視線が、止まらない。
顔から首元へ、ゆっくりと滑り落ちていく。
値踏みするように。
一人の下賎な男の視線になっていた。
隠そうともしない、粘ついた欲望がそこにあった。
ティアナは思わず目を逸らした。
心臓が速く打つ。息が浅くなる。
怖かった。
その日の帰り、すぐに父に訴えた。
「あの方は、そんな目で私を見ていました」
父は少し驚いた顔をした後、すぐに笑った。
「教祖様はそのような方ではない」
軽く、流された。
それ以上言えなかった。
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ティアナの救いは一つだけになった。
結婚して、この家を出ること。
婚約者と共に、ここから離れること。
それだけだった。
だが、その希望も突然断ち切られた。
婚約者は死んだ。
学院で出会った少女と、心中した。
残された言葉は短いものだった。
「今世で結ばれないなら、来世で」
理解できなかった。
何が起きたのか。
なぜ自分ではなかったのか。
「嘘よ」
喉が震える。
「私を連れ出してくれるって言ったじゃない」
何も返ってこない。
その瞬間、ティアナは気付いた。
逃げ場が、なくなったと。
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教祖が父に言った。
「ティアナは、こちらに連れてくるべきです」
父の表情が固まる。
「……何を言っている」
「我が神に捧げるのです。最もふさわしい形で」
空気が重くなる。
「あの子には何の罪もない」
父の声は弱かった。
「だからこそです」
教祖はゆっくりと微笑んだ。
「罪なき者ほど、価値がある。無垢で清らかであるほど、神は喜ばれる」
一歩、距離を詰める。
「あなたは神の恩恵を受けてきた。富も、成功も、すべて神の導きです」
静かに、言葉を重ねる。
「今こそ、返す時です」
父は黙った。
目を伏せ、何かを計算するように指先を動かす。
やがて、その手が止まる。
ティアナは見ていた。
父が“選ぶ”瞬間を。
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数日後、ティアナは教会にいた。
石の壁は冷たく、空気は湿っている。かすかに香の匂いが漂い、甘さと腐臭が混ざったような不快な空気が肺に入り込む。
足元は裸足のまま、冷たい床に触れている。逃げようと思えば逃げられたはずなのに、もう体は動かなかった。
視線を感じる。
見上げる。
高い位置に、教祖が立っていた。
ゆっくりと階段を下りてくる。
一段ずつ。
音が響く。
視線は逸らされない。
顔をなぞるように動き、首元へ、胸元へ、さらに下へと落ちていく。
あの時と同じ目だった。
ただの男が女を嫌らしく見る視線。
「ようやく手に入れた」
低く、満足した声。
「ティアナ」
名前を呼ばれる。
その響きに、逃げ場がないことを理解する。
「長かった」
距離が詰まる。
すぐ目の前まで来る。
「今日からは、仲良くやろうじゃないか」
ティアナは声を出そうとした。
喉が締め付けられる。
「……いや……」
かすれた音が漏れるだけだった。
足は動かない。
視線も逸らせない。
逃げられない。
涙だけが、頬を伝った。
教祖はそれを見て、ゆっくりと頷いた。
まるで、それが正しい反応であるかのように。
すべてが、最初から決まっていたかのように。
最も愛されていたティアナは生け贄にされた。
この短編は、乙女ゲームのバッドエンド絵師、ゲーム世界に転生する 〜バッドエンドしかない世界で、運命を捨てる〜の中に出てくるゲームの内容です。




