第5話 痛みを背負う価値! 2回目の研修
その翌日。
窓の外では、体育の授業を受ける生徒たちの快活な声が響いている。
五限目の現代文。チョークが黒板を叩く乾いた音だけが、教室の静寂を維持していた。
「……あの、先生」
茉昼が控えめに手を挙げると、教壇にいた年配の教師は、まるで壊れ物を扱うような手つきで眼鏡を直した。
「どうしたの、赤木さん。どこか具合が悪い?」
「……少し、頭が痛くて。保健室に行ってもいいですか」
「ああ、もちろん! すぐに行きなさい。……誰か、付き添いは必要かな?」
「大丈夫です。一人で行けます」
この頭痛は本物で、出動の連絡があったわけではなかった。ただ昨日、作業員の傷を移したときから、じわじわと感じ始めたものだった。外傷は本部の治癒室で治せても、神経が覚えた痛みの記憶までは消しきれないらしい。
教室中の視線が、一斉に茉昼に集まる。
それは同情でも心配でもなかった。触れてはいけないものを見る、遠巻きな疎外感。昨日の今日で、茉昼はクラスの中で「アンタッチャブルな存在」へと格上げされていた。
「……お大事にね、茉昼」
隣の席で、親友のレナが小さく声をかけてくれた。
そのとき、ふと、茉昼は心臓を掴まれるような気がした。
今までよく見ていなかった彼女のペンケースには、M4の第1位――「星襾」と書かれたシールが貼られていた。
さらに視線を下げると、レナの耳元で、小さな白い飾りがきらりと揺れた。星を模した、よくあるファングッズのイヤリングだった。
目を逸らすように、茉昼は教室を後にした。
数時間後、頭痛がマシになった茉昼は、教室の戸を開けた。
ちょうど休み時間のようだったが、視線を合わせてくれるのはレナだけだった。彼女は茉昼の机の横に来ると、屈託のない笑顔を向ける。
「ねえ茉昼、大丈夫? 最近ちょっと顔色悪くない? 何かあったらさ、ちゃんと相談しなよ?」
「……うん。ありがとう」
それ以上踏み込まれる前に、茉昼は視線を逸らした。
机の端に貼られた、きらきらしたステッカーが目に入る。
「そういえばさ」
声の調子を、わざと軽くする。
「そのステッカー……魔法少女の?」
「そうそう! 星襾さまだよ! もしかして興味ある感じ?」
「あー、その、最近ちょっとね」
「いいねいいね! じゃあさ、放課後、星襾さまの新作コラボアクスタ、一緒に見に……あっでも、体調良くなってからにしよっか。友達に無理させるのは、『女神さま』も嬉しくないだろうし」
レナの無邪気な言葉が、茉昼の胸の奥にある黒い気持ちを、ゆっくりとかき混ぜる。「女神さま」。あの時、両親の亡骸の前で微笑んでいた、あの白いドレスの影。
「……ごめんね、レナ。また今度」
茉昼は逃げるように教室を出た。
廊下に出た瞬間、ポケットの中でスマホが、心臓の鼓動を模したような不快なリズムで震えた。
【怪人警報:エリアB2】
【危険度:ランクD】
【出動要請:赤木茉昼】
事務的な文字。そこには「体調」を気遣う言葉など一つもない。
だが、その冷たさに、不思議と救われるような心地がしていた。
――錆びついた鉄の匂いと、腐った油の臭い。
立ち入り禁止のテープを潜り抜けた先で、アヤメは既に「仕事」を始めていた。
「ノワ、左! 追い込んで!」
「合点だッ!」
黒いカラスが影となって怪人を翻弄し、アヤメの巨大な裁ちばさみがその隙を逃さず叩き込まれる。茉昼は物陰から、その鮮やかな「暴力」に見惚れていた。
アヤメの戦いには無駄がない。その手慣れたルーチンワークからは、血の滲むような鍛錬がうかがえた。
しかし、怪人が最期に放った悪あがきが、現場に火花を散らした。爆発したドラム缶の破片が、防壁がわりの裁ちばさみをすり抜け、彼女の左腕をかすめる。
「……っ、チッ」
怪人は消滅したが、アヤメは苦々しい顔で自分の腕を押さえた。
白い衣装の袖が焼け焦げる。
そこから覗く肌は、赤黒く腫れていた。
「アヤメさん!」
茉昼が駆け寄る。
「……ランクD相手にケガするとか、新人の前で見せたくなかったんだけど」
強がるアヤメの額には、痛みに耐える汗が浮いている。
「見せてください、その傷」
「いいって。これくらい、本部の治癒班に行けば五分で治るし……」
「……今、治せます」
茉昼の声には、有無を言わせぬ響きがあった。
彼女はアヤメの制止を無視し、その火傷の跡に、躊躇なく両手で触れた。
アヤメの腕から、熱と痛みが急速に引いていく。
代わりに、茉昼の白い腕に、全く同じ形の火傷が浮き上がり、ジュッという嫌な音が空気に溶けた。
「……ぁ、ぐっ……」
激痛に脳が焼かれそうになる。
だが、それと同時に。
胸の奥にある淀みが、ふっと軽くなる感覚があった。
「……は? アンタ、何してんの……?」
痛みが消えたはずのアヤメが、信じられないものを見るような目で、茉昼を見つめていた。感謝の言葉はない。そこにあるのは「恐れ」に近い感情だった。
「……よかった」
茉昼は火傷の痛みに顔を歪めながらも、花が綻ぶような、あまりに無垢な笑みを浮かべていたのだ。
「アヤメさん……少しでもお役に立てたなら、よかったです」
「……正気じゃないよ」
アヤメの声が、わずかに震える。
「自分の身体を、なんだと思ってるの」
「……大丈夫ですよ、これくらい」
茉昼は、自分の腕に刻まれた痛みを愛おしむように抱きしめながら、静かに答えた。
「誰かの助けになるなら。……それがきっと、このカガヤキの価値です」
どこかで白いフクロウが、ホーホーと喉を鳴らした。




