第10話 友のためなら! 決意の誓い
翌日の夜。
本部の最下層、通称「澱溜まり」と呼ばれる、高圧キラメキ実験室にて。
そこには、外界の太陽光も、少女たちの笑い声も届かない。あるのは、肺の奥まで重くなるような、濃縮されたキラメキだけだ。
「……っ、げほっ……あ、あぁ……」
茉昼は四つん這いになり、胃液を吐き戻した。
彼女の目の前には、「負のキラメキ」結晶が転がっていた。それは怪人が倒された後の残滓であり、キラメキが経年劣化した代物であり、希望の燃え殻である。触れれば魂を汚すだけのそれは、黒く粘つく泥となって、床にへばりついていた。
……キラメキエネルギーの最期は、どれも同じだ。
出発点が「希望」であろうと、やがては怪人という形になって終わる。
しかし、茉昼の能力はその結末を拒める。
廃棄物でしかない負のキラメキを、自身の力に変換できてしまう。
「まだだよ、聖女ちゃん。あと三回は飲み込みなさい」
モニター越しに、モモの甘ったるい声が響く。彼女はキャンディを噛み砕く音をマイクに拾わせながら、冷酷に続けた。
「シール・ライブで星襾さまが受けるのは、身体的な疲労だけじゃない。『なんであの子だけが綺麗なの?』っていう観客の羨望、ネット上のアンチの呪い……その全部を、君っていうフィルターで濾過しなきゃいけないんだから」
茉昼は震える手で、二つ目の黒い塊を口に運んだ。
喉を通る瞬間、脳内に見知らぬ誰かの罵詈雑言が直接流れ込む。
――死ね。消えろ。ずるい。汚い。
何千もの悪意の針が、内側から彼女をメッタ刺しにする。
(あ、が……痛い……心が、壊れる……)
だがその激痛の只中で、実験室の壁に投影された星襾の戦闘映像が、一際鮮やかに、白く輝いた。茉昼が泥水をすするほど、映像の中の星襾は、より神々しく、より汚れなき存在として強調されていく。
「……あ、は……。綺麗だ……」
茉昼の瞳から感情が消える。
代わりに宿ったのは、底知れぬ強迫観念だ。
もはや彼女にとって、痛みは苦痛ではなかった。
それは星襾という至高の聖域を、この醜い世界の汚れから守り抜いているという、唯一の「証明」だった。
「いい顔になってきたねぇ」
モモは暗闇の中で、満足げに目を細めた。
もはや彼女は、人間を辞めかけていた。ただの部品、最高級の「濾過装置」へと変貌を遂げつつあった。
その頃、アヤメは管理局の規則を破り、私服姿で中学校の校門前に立っていた。
(モモ……あいつも多分、上層部とは別に、茉昼を何かに使いたがってる。……ったく……こんなの柄じゃないんだけど)
エナジードリンクを握りつぶし、苛立ちを隠せないまま、彼女は立ち続ける。
……やがて、その視線が一人の少女を捉えた。
茶髪は肩口で無造作に跳ね、結び直した跡が残っている。
背は低めで、制服のリボンも少し歪んだまま。
特別目立つわけでも、美少女というわけでもない。
だが、表情は驚くほど正直で、感情がすぐ顔に出る。
――赤木茉昼の、日常側。
「……アンタが、白鳥レナだね」
「えっ……? あ、はい……その、どちら様ですか?」
不審者を見るようなレナの視線を無視し、アヤメは彼女の腕を掴んで校舎の裏へと引きずり込んだ。
「時間がない。単刀直入に言う。……赤木茉昼は、あと一週間で壊れる」
アヤメはそう言い切ると、スマホを操作し、一本の映像を再生した。それは、彼女が作戦室の友人に頼み、秘密裏に確保したものであった。
地下。
見覚えのない、薄暗い部屋。
床に四つん這いになった赤いドレスの少女が、黒い泥のようなものを吐き出している。
「……なに、これ……」
レナは反射的に一歩、後ずさった。
顔をしかめ、画面から目を逸らす。
「ちょっと……悪趣味すぎません? こんなの、見せられても……」
「目を逸らさないで」
アヤメの低い声が、逃げ道を塞ぐ。
「これは現実だ」
映像の中で、少女がふらつきながら顔を上げた。
仮面はない。
血と汗で張り付いた前髪の奥から、虚ろな目が覗いている。
「……似てる、けど……」
レナは必死に言葉を探した。
「似てるだけですよ。赤い衣装の魔法少女なんて、今どき珍しくも……」
その時だった。
少女が咳き込み、反射的に、左肩を押さえる。
ほんの一瞬。
あまりにも無意識な仕草。
レナの喉が、ひくりと鳴った。
(……違う)
胸の奥で、何かが冷たく沈む。
(あの庇い方……)
思い出してしまう。
中学一年の春。
体育の授業で転んで、左肩を強く打った日のことを。
それ以来、茉昼は驚くと必ず、ああして肩を押さえる癖があった。
「……やだ……」
声が、震えた。
映像の中の少女が、誰かの名を呼ぶ。
音声はノイズに掻き消されていたが、口の動きだけは、はっきりと見えた。
――「レナ」。
彼女の視界が歪んでいく。
「……嘘、でしょ……」
膝から力が抜け、へたり込む。
画面の中で、血まみれの赤の魔法少女が、かすかに笑った。
その笑顔は、昨日まで隣で笑っていた親友のものと、寸分違わなかった。
呆然としてへたり込む彼女を、アヤメはぐっと支えた。
「魔法少女なんて、ただの生贄なの。茉昼は自分を罰することでしか、生きてる実感を味わえないバカなんだよ。……お願い。アンタだけが、アイツの最後のブレーキなんだ。アイツを説得して、契約を解除させて……」
アヤメの声は、震えていた。
だが、レナの反応は、アヤメの予想を遥かに超えていた。
「……痛そうなのに……なんで私に、言ってくれなかったの」
「は?」
「説得って……あんなに、あんなに辛そうにしてるのに、なんで一言も相談してくれなかったの。私のことなんて信じてなかったの……?」
レナの瞳に、大粒の涙が溜まる。しかし、それは絶望の涙ではなかった。
親友に置いて行かれた怒りと、自分だけが「安全な側」にいることへの耐え難い拒絶反応。
「私が……やっぱり、私が隣にいなきゃダメなんだ。茉昼を助けに行かなきゃ。そうじゃなきゃ、親友なんて言えない」
「バカなこと言わないで! アンタは茉昼を説き伏せてくれれば……」
アヤメが叫んだそのとき。
背後の闇から、パタパタと翼を打つ音が聞こえた。
「――それは、素晴らしい友情だね」
シロフが、校舎の屋根から舞い降りた。
「シロフ! 何しに……!」
「交渉だよ、アヤメ。君の提案する『契約解除』は、組織の損失が大きすぎる。だが、このレナが『志願』してくれるなら、別の解決策がある」
シロフはレナの肩に止まり、悪魔の囁きを吐き出した。
「レナ。君が魔法少女になれば、茉昼の負担を分かち合える。……あるいは、君という新しい『避雷針』があれば、茉昼はもっと安全に、長く使える存在になれるだろうね」
「レナ! 言わないで……!!」
アヤメが詰め寄るが、シロフは平然と続けた。
「さあ、選んで。茉昼を一人で、孤独な血の海の中で壊れさせるか。……それとも、君がその隣で、一緒に血を流してあげるか」
レナの瞳に、決意という名の狂気が宿る。
彼女は、耳に付けた「星襾」モデルのイヤリングに触れ、ぐっと眉をしかめた。
「……なるよ。魔法少女に」
アヤメは、その場に崩れ落ちた。
一度、魔法少女になると言った者の決意は、容易に曲げられない。
そのことを彼女はよく知っていた。
……救いたかった。茉昼を、この泥沼から引き上げたかった。
しかし、自分の足掻きこそが、茉昼にとって唯一の「救い」であったはずのレナまでも、この底なしの闇へと引きずり込んでしまった。
「契約成立だ、レナ……いいね、最高の演出だ。シール・ライブにもう一人、愛らしい供物が増えたよ」
夕闇の中で、シロフの冷たい笑い声が響き渡った。
一人は至高の光を守るための「濾過装置」として。
一人はそれを繋ぎ止めるための「人質の部品」として。
破滅へのシール・ライブまで、あと六日。




