07.ジルヴェーユは窮地を脱し、そして。
「――あぅっ!」
慌てて後ずさり、床に尻餅を付く。すぐに見上げたジルヴェーユの向かいには、豹変したマキヤが立っていた。
彼女は無表情で、瞼への侵入を防がれた指を見つめている。
『なるほど、障壁があるのか』
「マキヤ、さん?」
震える呼びかけは無視されて、マキヤの声は呟きを続ける。
『魔法による防護――力の伴う空気か。本体同様、すり抜けて干渉するのは厳しそうだな』
「あなたは、誰……!」
『直接、取り出してみるとしよう』
問答の無駄を悟ったジルヴェーユは、背後へ駆け出す。
扉に手を掛け体重をかけて、しかし開かない。
『あまり押さないでやってくれ。ネズミどもが潰れてしまう』
化粧台の引き出しを探りながら、マキヤが言う。
『もっとも、底の方にいるのはもう、窒息しているだろうが』
彼女の手に握られたハサミが鈍く光った。それが眼窩に突っ込まれる光景を想像して、ジルヴェーユは息を呑む。けれども一人の姿を思い浮かべて、恐怖から目を逸らさずに対峙した。
「お師匠が、きっとあなたを止めます」
『目のそれを施した魔法使いか。大した能力だが、魔神の力さえ手にすれば、さしたる障害にはならんよ』
ジルヴェーユはいっそう強く、マキヤの姿をした何者かを見つめる。敵対心ももちろんあったが、それ以上に、言われた見解が本当だろうと理解できたことが悔しかった。
(私は)
背筋に、水が染み込むみたいに失望が行き渡る。
(私は、迷惑だけじゃなくて、お師匠のことを危険にまで晒すの?)
そのことが――そのことが何よりも少女を絶望的な気持ちにさせる。
(そうなる、くらいなら)
もしも、涙が流れて弾ければ。
込められた力は爆発のように辺りに飛び散り、ジルヴェーユ自身もただでは済まないと、コニャックは言っていた。空気の封止が幾らかは留めてくれるにしても、それも紙のように容易く破れてしまう、と。
(そんなことは全然構わない! 泣くことなんか全然、怖くも難しくもないんだから!)
大切だった日々を思い出して、今一番怖いことを想像すれば、ジルヴェーユの瞳はいつだって潤んだ。
ちょきちょきと、指先で鋏を遊ばせながらマキヤが近付く。
ジルヴェーユは祈るように手を合わせ、俯き目を閉じる。胸がすくみ、鼻は痛み、潮を飲んだように喉が渇いた。
目頭に、熱。
――さよなら。
「お師匠……」
ジルヴェーユッ!
かすかに聞こえた次の瞬間、音が耳を貫く。
頭を埋め尽くした悲愴を弾き飛ばすような強い轟音。頬を、空気の塊が撫でた。瞼の先の光がぐっと増したのを感じて、ジルヴェーユは顔を上げる。
奥の壁が貫かれ土煙を舞わせる室内に、音もなく着地してみせたコニャックの姿が、視界には現れていた。
「ジル! 無事かっ!」
「おし、しょう……」
呆然と呟きを返す。目が合って、馴染んだ手のひらがこちらへ伸びてきたと思った瞬間、抱き締められる。
「おっ、お、お師匠っ?」
「ジルヴェーユ! ああ、良かった!」
声が裏返って狼狽したのをジルヴェーユが取り直す暇もなく、コニャックは身を離す。「怪我は?」と切羽詰まった勢いでジルヴェーユの体を上から下へ眺めて、やがて安堵した様子で息をついた。
「え、あ」
なおも心臓が音を立てて落ち着かないジルヴェーユは胸を抑えて、言葉を出せずに喘ぐ。その様子を見てとって、コニャックはまた不安げに声を潜めた。
「苦しいのか? もしや呪いか何かを」
「ある意味呪いかもしれませんけど……」
「なんだって!」
「ああいえ! 大丈夫、なんともありませんので!」
再び顔を寄せたコニャックにそう言うと、ジルヴェーユはようやく部屋の細部の状況まで気が回った。もうもうと立っていた煙幕は薄くなって、乱入による衝撃で半壊した室内の床が確認できる。木や石の破片が散らばる中に、倒れる婦人の姿を見た。
「マキヤさんっ」
声を上げたが、あちらに反応はない。
「彼女は? 襲われていたようだが」
「……わかりません。こちらの店員をしている方なんです。いつも親しくして頂いていて、でもいきなり様子が」
「操られていた?」
「たぶん」
「……」
コニャックは、動かないようにとジルヴェーユに手のひらを向けて示すと、マキヤに近付く。揺さぶろうと屈んで腕を伸ばしかけて、そこで彼女の口から呻きが漏れた。
「失礼。起きられますかな、マドモワゼル」
かけた声に反応し、顔がこちらを向く。ぱちくりと瞬き、見開く目付き。
「ええとムッシュー、あなたは……それに私」
いかにも無害そうな声音を出すのに、「良かった!」とジルヴェーユが声を上げる。
「元に戻ったんですね、マキヤさん!」
「ジルヴェーユ……? 元に? あの、この方は」
「そちらは私の師匠の、コニャック様です。助けに来て頂いて」
「こちらの、方が? 助けに?」
述べかけたが、ひゅっと部屋をよぎった風に気を取られ、後ろに目をやる。無惨に崩れた壁と床が、視線の先にはあった。
「は、……へ? ――ひっ」
短く悲鳴を上げたのは、傍の床板がみしりと音を立てるのを聞いたからだ。慌てて離れて、退避した先のコニャックにしがみ付く。
思うところがないでもないジルヴェーユだが、非常事態であることは十二分に承知しているので、甘んじて口を噤む。
「な、なななな……!」
「落ち着いて下さい、マドモワゼル」
「落ち着いてって、できるわけがないでしょう⁉ どういうことなんです、なんで、部屋が、壊れて」
「ああ、それは……いやはや何から説明したものか」
言葉を濁したコニャックに勘付くところがあったのか、マキヤは目を据わらせて彼を見つめた。
「ひょっとして、あなたが?」
ぴしりと、壁の方から鳴った音が沈黙の中を響いた。声を詰まらせたコニャックを前に、マキヤはみるみる表情を怒り混じりの愕然としたものへと変えた。
「あなたなんですね!? 一体、何を考えて……」
「いや、その……ですね。街に、ネズミが出まして」
「出たからなんだというんですかっ。あの破壊が! そんなことで誤魔化せるとでも」
「う、あ。ジ、ジルヴェーユ……」
憮然としていたのを冷静さとでも取られたのか、コニャックは困り顔でこちらに助けを求めてくる。ジルヴェーユはため息をつき、口を開いた。
「ネズミなら、私も見ました。マキヤさんに触って、それから様子がおかしくなって……お師匠は、あれも何者かの仕業と仰りたいのですね」
助け舟に飛び乗るコニャック。
「そう、その通りだジル! 恐らくは、触れたものの精神を乗っ取り操る魔法の使い手……十年前に戦ったアイツが、――ぐっ」
『なるほど』
ふいに声音を様変わりさせて、マキヤが言った。同時に、コニャックの顔に苦悶が浮かぶ。途端に脂汗を流しながら視線をあちらへ戻し、マキヤの方を見下ろす。
『中々の使い手とは思っていたが。貴様は、あの時あそこにいた魔法使いの一人か』
腰だめに持った何かをコニャックの腹に押し付けた彼女はそう言って、ニヤリと笑った。
『ならばしっかり――弱らせておかねば、な!』
「……ぐあ、ぁッ!」
辛い呻きを上げてコニャックが崩れ落ちる。マキヤの手に残ったべっとりと赤い鋏を、ジルヴェーユは信じられない気持ちで眺める。
「お、」
自身の喉から漏れ出た声で我に返って、駆け寄る。
「お師匠!」




