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10/10

10.そして二人はきっと、末長く幸せに過ごす。


 夕闇の中で輝く目尻の涙を、ジルヴェーユは指に取る。発光は伝播し、二人の周囲の空気を包む。


「さて、君の友達を助けなくてはな」


「悪者も、懲らしめないといけません」


「うむ」


 深く頷き、元の方角へ進路を取った。空気を操って推進すると、やがて豊かな尾のごとく火炎が生じ、ぼんっと破裂して速度を上げる。街の上空をひと時の内に横切って、先ほど脱出した百貨店まで舞い戻った。


 風穴の開いた室内は、すでに空っぽだ。


「逃げた、か」


「マキアさんもいません」


「ネズミの姿で動けば狩られるからな。街を出るまでは捨てるに捨てられん」


 すぐさま逃げたとしてもまだ遠くへは行けていないはずだと当たりを付け、通りの上方を旋回する。


 ――ご安心をマドモアゼル! このバルサン、恐ろしい思いはもうさせないと約束しよう!


 付近を捜索する中で轟いたのは、そんな聞き覚えのある声だった。聞こえた方を見れば、婦人を後ろに庇ってネズミたちと対峙するバルサンがいる。彼の死角に立つのは、マキアだ。隠されたナイフを取り出すのを見る。コニャックは即座に降下する体勢に入って、息を吸った。


「後ろだバルサン! 刺されるぞ!」


 叫ぶ。振り返って驚愕したバルサンが尻餅をつく。


「ジル!」


「はい!」


 火を放つ。燃え盛るそれは窒素に挟まれた酸素の経路を喰らって、下の二人を分かつ壁を作る。


 マキアがたじろぎ、その間にもコニャックたちは地面に迫っていた。ついに彼奴の傍に降りた空気の魔法使いは、着地ざま、その手に集めた窒素の球を彼女の頭へ被せた。


 途端、婦人の膝が折れる。体勢を崩し倒れゆくマキアの体をコニャックが受け止めようとする間際、彼女の胸元から一匹の獣が飛び出た。


「あ!」


 ネズミだ! コニャックは虚をつかれ、脇をすり抜けていくのを見過ごしてしまう。


 直後、伸びたのはジルヴェーユの手だった。放物線を描いて跳躍した小動物を両手に包み、捕らえる。


「お師匠!」


 ジルヴェーユが差し出して来たのに、頷く。空中で捕まり四肢をもがかせる不良魔術師を、コニャックはじっと見下ろした。


「どうやら、魔法の素養のある者を即座には乗っ取れないらしいな」


 頭部に手をかざした。先刻同様に窒素で包んでやると、懸命に身じろぎをしていたネズミの体が、こてんと力を失くす。


 あっけない終わりに、疑わしげに首を傾げるジルヴェーユ。


「これで終わり、なのでしょうか?」


「ああ。見たまえ」


 コニャックが示した先には、バルサンに(たか)り始めていたネズミの大群がいる。それらは結託めいたものを失って、辺りをきょろきょろと窺った末、四方へ散らばって消えた。呆けてその散開を見送っていた友人のことを、コニャックは呼びかける。


「バルサン! コイツが元凶だ。眠らせて生け捕りにするぞ。ほら、早く!」


「待て待て、ったく。置いてけぼりにしたのから戻ったと思ったら、すぐに扱き使いやがる」


 不承不承駆け寄ったバルサンの処置が終わって、空気の魔法を解いたコニャックは、ようやっと息をつく。


「全く、厄介な相手だった。次はネズミも入り込めぬ牢に入れてもらわねば、な。もっとも体の方は、とっくに埋められてしまっている可能性もあるが」


「そうですね……ところでお師匠」


「なんだね?」


「お師匠はいつまで、マキアさんをお抱えに?」


 指摘にぱちくりと目を瞬かせ、コニャックは愛弟子と婦人を見比べる。それから遅れて、ぶんぶんと首を振った。


「ち、違う違う! ジル、誤解だ!」


「何が誤解なんです?」


「私はただ、君の友人を丁重に扱わねばと……」


「それはきちんとわかっております。ですがお師匠は、私が、口付けまで捧げた方と他の女性が寄り添っているのを見ているのが平気であると、本気で思っておられるのですか?」


「そ、それは……!」


「くちづけぇ!?」


 焦るコニャックの横で素っ頓狂な声を上げたのは、バルサンである。


「お前って男は! 口では自慢でないと言いながらしっかりとよろしく――」


「ええいややこしい! お前は黙っていろ!」


 そそくさと地面にハンカチを敷き、そこにマキアの頭を横たえる。上着を正してジルヴェーユに向き直ったコニャックは、こほんと威厳を込めて咳払いをしてみせた。


「ジルヴェーユ。君の気持ちを無碍にするつもりはないが、君はまだ若い……。あまり、奔放になりすぎるべきでないと私は」


「お師匠」


「はい」


「初めては、私からでしたね」


 はじめてぇ? と横からバルサンが言ったが、無視する。


「お師匠からは、何もして頂けないのですか?」


 じっと見つめて、訊ねてくる。どう答えたものやら戸惑うコニャックは、視線を定められずに目をあちらこちらへ逸らした。ジルヴェーユの、行儀良く腹の前に重ねられた手を見る。そこだけが、すんと落ち着いた表情とは裏腹に震えている。口では物怖じせずに正面から迫る彼女の、気持ちに踏み込む不安を察する。


「ジル……」


 凍える小犬を慈しむみたいな気持ちで、コニャックは彼女の両肩を掴んだ。きゃあーと隣で口元を隠したバルサンをひと睨みして、彼女と見つめ合う。ひと時そうすると、ジルヴェーユの目が閉じられ、鼻先がついと上がった。 


 彼女からのアプローチを受ける一方のコニャックは、お膳立てされた情けなさを誤魔化す気持ちで、苦笑した。


「私は、不甲斐ない男だな。ここまで君にさせないとならないなんて。しかし、これからはそんなことはないと誓うぞ、ジルヴェーユ、私は」


「お師匠」


「はい」


「まだですか?」


「ガツンと行けガツンと!」


「……ええい!」


 状況にもヤジにも我慢ならなくなったコニャックは、ジルヴェーユの脚と肩に腕を回し、抱え上げる。また地面を飛び立って、非難を飛ばす友人には一瞥もくれないまま、街の尖塔よりも高くまで浮かび上がった。


「良いのですか、お師匠? 置いて行ってしまって」


「構わん。あんな出歯亀が隣にいては、落ち着くものも落ち着かん」


 不機嫌に言い放って、腕の中の彼女に、ちらりと目を向ける。


「それとも……二人きりは、嫌かね?」


 うっかり子供っぽくしてしまった声にジルヴェーユは一度きょとんとして、それから、深い微笑みを返した。


「……いいえ。どこまでも、いつまでもお供いたします。あなたに望んで頂けるのなら」


 こちらの首に腕を回したジルヴェーユが、猫のように額を首筋に擦り付ける。コニャックは言うべき言葉もするべき表情もわからなくて、ただ、前を向いて飛び続けていく。


 そうして。


 二人、星空の回遊へ繰り出して。


 そこでコニャックが何を捧げ何を告げたかは。


 それは、世界でたった一人……ジルヴェーユだけが知っていることだ。


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