⑥
男性に付き添われ私は会社内の医務室に連れて行かれた。脈拍を測ってもらい、安定剤か睡眠導入剤のそのどちらかを飲まされベッドに横になった。相変わらず心臓は激しく動悸を打っていたが、薬が効いてきたのかいつしかウトウトし始めると男性は黙って医務室を出て行った。その背中が見えなくなる前に私は眠りについた。
数時間眠った後で目を覚ますと赤いサメは相変わらず仰向けで泳いでいた。当然のように表情は笑っているようにしか見えなかった。
私はそんな赤いサメに向かって話しかけてみた。勿論、頭の中でだ。
「君、名前は?」
返事はない。
だけど私は赤いサメから返事がない事など意に返さず、昼間、屋上で私の身に起きた事を淡々と語ってみせた。
「まぁ。君はハンターだもん。生き物を殺して食べるのは普通の事だろうけど、人間って生き物はそうじゃないの。殺すのはとても重い罪だし、中には君のように人を殺しその肉をたべるカニバリズムの人も少なからずいるけど、でもそれは稀ね。だから殺された人を見るのは強烈にショックだし、尚更その殺された人が知り合いというか友達みたいな人だと、よりその辛さは半端ないの。そんな私の気持ち君にわかる?わかるわけないか」
私はベッドから降りて医務室を出た。部署に戻ると皆んなが心配そうな眼差しを私に向けた。
いやぁ。そんな目で私をみないでくれるかなぁ。
確かに私は静香の死体を見てビックリしたけど、ただそれだけで、本来、心配されるべきは静香の方でしょ。
彼女の身に何がありどう起こってあのような結末を迎える羽目になったのか。多分、今頃は屋上には警察の人が沢山来ているだろう。私に想像出来るのは、昨日の夜、静香はカフェで私と別れた後、会社に戻ったと言う事くらいなものだ。
誰かに呼び出されたのか、それとも何か忘れ物をして取りに戻った時、たまたま居合わせた窃盗団のような輩と鉢合わせてしまったのか。恐らくそれはないだろうけど。警備員だっているし自動ドアもIDカードが無ければ入れ無いようになっているから。
勿論、元従業員とかが複製した可能性も無いとは言えないけど、その確率は低いと思う。となれば内部の犯行が1番リアリティがある。ひょっとしたらこの中の誰かが静香を殺した可能性もあるかもしれない。
そう考えると背中がゾクゾクした。
「大丈夫?」
普段は全く会話もしない先輩が私に近寄って来た。
「大丈夫です。ご心配おかけしました」
私は頭を下げた。
「あ、課長はどうされたのですか?」
「それがね。お昼に出かけてから戻って来てないのよ」
「連絡は?」
先輩は首を横に振った。
「なら静香が殺された事は課長は知らないのでしょうね」
「恐らくね」
そう言った後で、私は課長がいない事が自然のように思えて来た。静香の死体が見つかったのはお昼だし、課長が居なくなったのもお昼だ。
もしかすると課長が静香を殺したのかも知れない。
何故なら屋上に死体を放置していれば、お昼に静香の死体が誰かに見つかるのは明白だからだ。だからそれに合わせて課長は姿を消した…?いやそんな事したら余計に怪しまれる。もし課長が静香を殺した犯人だとしたら、居なくなるよりはむしろ普通に戻って来て情報収集した方が得なように思える。
全てとはいかないがある程度の状況を把握出来る可能性が大いにあるからだ。私ならそうする。
「君は?」
私は頭の中で赤いサメに尋ねた。
赤いサメはあいも変わらずお腹を上にして浮いていた。そしてその顔はやっぱり笑みを浮かべているようだった。
仕事が終わると真っ直ぐ家に帰り長い間お風呂に入っていた。湯船に顔をつけ目を開ける。見えるのは自分の下半身とヒヨコのおもちゃのように湯船の中を漂う静香の死顔だった。
その時、いきなり占い師マリカの事を思い出した。
マリカは静香に対して、今年の夏は歳下の彼氏が出来るとか結婚は社内結婚などと占ったらしいが、当の静香は、占いが当たる以前に誰かに殺されてしまったじゃない。人気占い師か何か知らないが、会って文句を言ってやりたかった。だから週末、私は千葉にあるマリカの館に行こうと思った。
悪夢を見るだろうと思いながら眠ったけれど、実際には朝までぐっすりと眠れた。普段よりしっかりと睡眠がとれて寝起きはむしろ清々しいくらいだった。
案外、静香の死が私の精神に与えたものは大した事なかったようだ。
自己判断するには早計だろうけど、何となくそう思えた。この事件によって私がトラウマを抱えるような事も多分ない。
モーニングルーティンをこなして出社した。
課長の姿はなかった。同期の男性社員に尋ねるがわからないらしかった。それは静香の事件も同様だった。
それはそうか。昨日の今日でスピード解決に至るような事はさすがにあり得ないのだろう。
私はデスクに座りパソコンを起動させた。
ネットでニュースをチェックする。
そこで昨日県内で起きたある事故のニュースが目に飛び込んで来た。それは老人による車の運転ミスの事故のニュースだった。最終的にコンビニに突っ込み車は止まったらしいが、そこに至るまで、3人の子供と1人の主婦を跳ね、コンビニの外壁にぶつかって止まった。その時にたまたまそこで喫煙していた中年男性を押し潰し殺してしまったらしい。
この事故による死者はこの中年男性1人のようだった。他は皆軽症で済んだらしい。運が悪かったでは済まされない最悪なこの事故が起きたのは昨日の2時頃か。
私が医務室で寝ている間に起きたようだ。
続きを読み進めようとしたその時、部長がやってきて、皆に手を止めるように告げた。
そして課長が昨日、事故に巻き込まれ亡くなったと悲痛な表情で話した。
「既に知っている人もいるかも知れないが、昨日の昼間、県内で起きた老人による運転ミスの事故があった。
非常に残念な事だがどうやら須藤課長はそれに巻き込まれて亡くなってしまったようだ」
部長はその後、告別式などの日時が決まり次第又知らせると告げ出て行った。
部長の話を耳にした私は唇が震え始め、その震えはあっという間に私の全身へと広がって行った。
私は両手を腿に置き震えが収まるよう、力一杯掴んだ。
だけど震えは直ぐには治らなかった。
昨日、課長から注意を受けた私は、課長が老人の運転ミスの事故により死ねば良いと思ったのだ。
偶然と言えば偶然なのだろうけど、けれどこの事故が偶然では片付けられるほどの精神を私は持ち合わせていなかった。
だって昨日の時点で課長は既に事故死していたのだから。
震えが収まると又、赤いサメの姿が見えた。
今は普通の状態で泳いでいた。
笑っている風にも見えない。口を閉じ気品に満ちた泳ぎだった。
私はこの偶然に恐れを覚えたけれど、時間の経過と共に、もう一度、試してみたいとも考え始めていた。
もしそれが現実のものとなったとしたら私にある力が備わったと言う事になるからだ。
それはそれで楽しみだった。自らの手を下さず人を殺害出来る能力。
私がそう願っただけで人が死ぬ。証拠も何もない。
だから罪として裁かれる事は絶対にあり得ないわけ。
さっきまでの恐れは嘘のように私はいつしか自分に備わっているかも知れない力を思って微笑んだ。
先ずはこの力を静かの恨みを晴らす為、マリカに使ってみよう。私ははやる気持ちを堪えて早く週末にならないかと願ってやまなかった。