第七話 助け舟?
「はあ、早く、お願い」
家の扉の前で、何度も息つぎをしながら鍵をポケットから取り出す。
震える手元を抑え込みながら鍵を回すと、そのまま玄関へ飛び込む。
鍵を閉めてから靴をぬぐと、その辺に荷物を放り出して廊下を抜けると、そのまま自分の部屋のドアを体で押し開けてそのまま電気もつけずにベッドの上に転がった。
「つぅ、なんでさ、また。」
胸を押さえながらそう毒づく。
帰ってくる間中ずっといつもの締め付けられるような苦しさが増してきていた。さっきまでずっとこの苦悶を顔に出さないようにするのに必死だった。
ベッドの上で横向きになりながらスマホを手に取る。
いつもならただもがいているだけだろうが、今日は何とかなるかもしれない。というか何とかなるならもはや何でもいい。もうネットだろうが宗教だろうが構わない。
とにかくスマホを開いて、検索エンジンの検索窓をタップする。
私と同じような人がいるかもしれない、そんなかすかな希望をこの板切れに託す。
『死ぬのが怖い』
とりあえず愚直にそんな言葉を打ち込んでみた。
するとでてきたのはお寺のホームページとか、よくわからない雑誌の記事ぐらいだった。
やっぱりこんな感じのが出てくるよな。
正直予想通りではあった。
でも宗教の死生観とか、死とはどういうものかとか、そんなのはもはやどうでもいい。この苦しさと絶望から逃れる方法が知りたいのだ。
さて、次はなんて打ち込めばいいんだろうか。
死ぬのが怖いから、死恐怖症だろうか。でも死が怖いなんて当たり前だよな。
そんなことを思いながらも、一応それで入れてみることにした。
『死恐怖症』
こんなワードででてくるんだろうか、そう半信半疑で検索ボタンを押した。
しかし、いつもの文字の羅列が数秒で表示されると、そこには興味深いページが多くあった。
タナトフォビア?
一番上のサイトにはこうも書いてあった。
『人が死ぬことや存在がなくなることを心配してしまう感覚のこと。これが過度であったり日常生活に影響を及ぼす恐れのある場合に限る。タナトフォビアとも呼ぶ。』
なんと『死恐怖症』なるものは本当に、実際に存在していたのだ。
私にはそれが何よりも驚きであったし、自分のこの状態は決して私だけのものではないということがはっきりした。
こうやって定義づけられているということは誰かが何か発信しているかもしれない。そう思って検索エンジンの方に戻ってから、ページをどんどん下へとさかのぼっていく。
「これは?」
目に留まったのは小説投稿サイトのページだった。
『死恐怖症に悩まされている人へ』
こんな題名がついていた。早速タップして読み始める。
『これを読んでいる人は苦しくて仕方ないとおもいます。』
そんな書き出しから始まった文章はまるで今までの私のことをトレースしてきたのかと言いたくなるほど同じことが書いてあった。
死が何かわからないというのでなく、明確に死という終わりが来ることに怯えていた。まるで死にそうになるくらい苦しくて仕方なくなる。
「私だけじゃなかったんだ。」
まるで迷路の出口を見つけたような、嬉しさといったらおかしいけれど、安心感というかそんなものを感じた。ずっと自分のことだから自分で何とかするしかない、自分だけのことだと思っていた。でもそんなことはなかった。
「一人ではない」
この事実だけでも私にとってはとても大きなことだった。
『対策』
簡潔に書いてあるところには対処法が箇条書きで色々と書いてあった。
気分転換をしてみる。
本を読んでみる。
散歩をしてみる。
正直環境を変える的なことしか書いていなかった。けれど私もお風呂入ってきたからここまでたどり着けた。結局心の問題である以上、環境も大事なのだろう。
最後に『考え方を変えてみる』という項目があった。
そこには「考え方なんて十年もしたら変わる」とあった。
死ぬのが怖いと思うのは死にたくないからだろう。
でも今死にたくないと思っていても、二十年、三十年と経てば変わるかもしれない。今の考え方がずっと続くとは限らない。
私はこの苦しさがずっと続くんじゃないか、そんなことを思っていた節があった。それがこの苦しみをまた生み出してもいた。
しかし、言われてみれば三年前の私と今の私では考え方なんてまるっきり変わってしまっている。そう考えればこの苦しさも、この恐怖も永遠に続くわけではないのではないはずだ。この苦しみに悩まされるようになってから1か月たっていないぐらいだから、まだ全然変わる可能性はあるし、ずっと同じように悩み続ける方が難しいのではないだろうか。
もちろんそんな確証はない。
変わるかもしれないし、変わらないかもしれない。
でもこの苦しさから逃れるには変わるかもしれない、という方に考えるしかない。
だいたい、私はまだ二十年も生きていない。
しかも物心ついたころからといったら十年もないかもしれない。
人生を振り返って、なんて大層なことを言える年齢でもないじゃないか。
百まで生きるならまだ八十年もあるんだ。
ならば今悩む必要はない。
あと十年してから私の人生を振り返ればいい。
その時になったらそんなこと考えていないだろう。
今日死ぬわけじゃない。今は関係ない。
受験勉強中に覚えたことだが、マズローの欲求段階説というのがある。人は下層の欲求から求めていき、最終的には「自己実現の欲求」を求めるという。
幸せを感じ、あらゆることが満たされていったとき、人はさらに上層の欲求を求めていく。これを私に当てはめてみると、私は「自己実現の欲求」のさらに上を求めているのかもしれない。
受験の終わりという形で「大学生」という自分の地位を確立できた。
私は、この幸せを放したくないと思った。
思えば、その究極の答えがこの恐怖の正体だったのかもしれない。
「自己実現の欲求」のさらに上、「今のままで居続けたいという欲求」。
これが私にあるのかもしれない。
スマホから目線を外して、ベッドの上であおむけになる。
カーテンの隙間から日の光が漏れて、薄暗い部屋の中を照らしていた。
頭の奥底にこびりついていた何かがかさぶたみたいに剥がれ落ちていくような気がした。正直この考え方は将来への先送りのでしかないし、何も本質的な解決ではない。けれどこう考えることで将来への不安、「恐怖することへの恐怖」は大きく軽減されていった。
これは病気なんだ。
だから病院にいくという最終手段も残っている。
『一年頑張ってみよう。』
それでダメなら病院に行けばいい。
逃げ道はたくさんあるんだから、いざとなれば逃げればいいのだ。
鎖がすべて外れたわけではない。
だけど今までより遥かに心が軽かった。
色々なところに心の逃げ道ができた。
心の気持ちの持ちよう、考え方を少し変えるだけでこんなに変われるのか。
自分でも驚きだった。
しばらく何をするでもなく、じっと天井を見つめていた。すると、投げ出していた手の中で何かが震えた気がした。あんまり動きたくはなかったものの、どうも気になってしまうと落ち着かない。
「むぅ」
ついでに腕を思いっきり伸ばして背伸びをしてから手を顔の方に近づける。スマホの電源ボタンを押してホーム画面に目を向けると、半透明の吹き出しの中で『新着メール』という文字が浮かび上がっていた。
「Flight情報のお知らせ?」
画面に指を押し当ててロックを解除する。
そのままメールを確認していくと、さっきと同じ文字列の件名をしたメールを見つけた。
『998便東京行き、座席指定のお知らせ/混雑予定の・・・』
ああ、そういえば再来週ぐらいだったな、東京行くの。
まだなーんにも準備してないのに、時間だけが過ぎていく。まあ、準備は苦しくてやる気にならないというのはあるけれど、それ以上になんだか乗り気にならない。
「離れたくないなぁ。」
入ってくる外の光もだいぶ少なくなった部屋の中で一人、そうつぶやいた。