あとがき 死恐怖症についてと今苦しい人へ
これは作者自身の自分語りです。
この話はおおむね半分本当の話を元に構成しています。なので経過から収まるまでもおおむねこのお話の通りです。精神的な苦しさというのは、あの経験が生まれて初めてで本当に死ぬかと思いました。
「死にたくない」という思いに駆られることで「死にそうになる」なんて馬鹿馬鹿しいんだと、そう何度も考えたのを覚えています。
ここ先は少しこの「タナトフォビア(死恐怖症)」というのを考えてみたいと思います。なんでそんなことを書くのかというと、苦しい時にネットの投稿サイトの投稿を見てそれが助けになったからです。今でも苦しい人がいるなら、これを見て少しは気が楽になる、かも、しれません。
ー死恐怖症のパターンー
これは私が勝手に考えただけですが、タナトフォビアといってもいくつか種類があるように思います。自分が何に対してどう恐れているのかを分析してみるのはいい対処法かもしれません。
①死んだあとの世界が怖い
・死後の世界が分からないから怖い
・死後の世界に永遠に閉じ込められるのが怖い
・自分の死後に残される人が心配で怖い
②死ぬときに苦しむ、痛むのが怖い
③大切な人がいなくなるのが怖い
④もっと生きる時間が欲しい=死にたくない
⑤漠然と死ぬのが怖い
おおむねこんな感じなのではないでしょうか。
当てはまるものはあったりしますでしょうか。
私の場合は「①死んだあとの世界が怖い・死後の世界に永遠に閉じ込められるのが怖い」でした。「無」という世界の中で、それに気づくこともなく永遠に眠り続ける。自分にはどうしようもない世界が終わることもなく続くというのが私には耐えられなかったのです。
ー背景ー
ではなぜタナフォトビアがでてくるようになったのか。
・神の存在を信じていない
・短期的目標がなくなった
・変化が嫌いだった
この三つが私は原因でした。
まず、「神の存在の否定」ですが、実は昔「自殺願望」があったんです。その時に「生きるってなんだ」「神様がいるならなんで助けてくれないんだ」など色々考えてしまい、そこから「神」「宗教」というのをさっぱり信じなくなってしまったのです。
つまり社会学的に言えば『「自己責任」「ニヒリズム」の状態に陥った』といったところでしょうか。「生きる意味なんかないんだ、だから自分で何とかするしかないんだ。」そういうマインドをずっとするようになっていたというのは背景としてあったと思います。
次に「短期的目標がなくなった」です。
これはもう端的に言えば「大学受験」です。大学受験というのは高校生にとっては「人生の最終目標」みたいなもんだと思います。今思えば別にそんなことないんですが、当時は大学で何かしたいとかいう大きな目標もなかったのでこうなったんでしょう。
合わせて、受験というものは「自己責任」がとにかく強調される世界です。是非はともかくとして、そんな状況の中で前に挙げた「自分で何とかしなきゃ」という観念を持った状態で挑めば、「受験に挑むこと=生きる意味」になってしまいます。
さて、この二つの状態は受験にはきわめて最適化された考え方だったと思います。ところがそれが終わるとどうでしょうか。「生きる意味」が消失してしまうのです。
私の中にあった「目標」=「生きる意味」が消失した時、私の場合はどこに焦点が向いたかというと、もっと先の世界「長期的な目標」です。そこから次にあげる環境的な面もあって「生きる意味」とかいう答えのない世界を考えはじめ、最終結論「人は死ぬ」だから「意味はない」ということになってしまったんだと思います。
最後に「変化が嫌いだった」ですが、私の場合はこれがあることによって「希死観念」ではなく「避死観念」に言ったんだと思います。生きる目標を失った人間は一般的には「死にたい」と思うことが多いです。ところが私は逆でした。「目標」がないなら「生きる目標を見つけたい」そっちに行ったんですね。でも人生の残り時間を考えた時、私にはあまりにも残された時間が少ないように感じました。
もっと自分が何者であるかを問い続ける時間が欲しかった。
でもこれは同時に「何者でかであろうとすることを避けている」とも言えます。変化を嫌う(引っ越したくない)というマインドが無意識のうちに働いて「時間」を欲していたからこそこうなったのかなと私は思っています。
ー対処法ー
ここではっきりさせておきたいのは、この思考が消えるか、消えないか、で言えば消えません。それははっきり言えます。なぜなら「死にたくない」という感情はいたって普通の思考だからです。この世に本当に死にたいと思っている人なんかいません。このタナトフォビアという状態はこの「死にたくない」という思いが抑え込めなくなって表に出てきているだけなのです。
私も「死にたくない」という感情は消えていません。たぶんこれからもライフステージごとにそのステージが終わったら再発すると思います。
だから「生活できるようにする」を目標にすればいいと思います。一度これを発症してしまうと、元には戻らないと思います。でも私の場合は「死にたくない」という思いが生活の中でいつまでも渦巻き続けるなんて状態はそう長くは続きませんでした。1か月半ぐらいでこれは治まりました。もちろん今でも「死にたくない」とは思っているし、その感情は普通の人よりは強いと思います。それでも苦しまずに生活はできます。胸が締め付けられるとかそんなレベルのものはもうありません。そこは大丈夫です。
なので対処法としては、どうこの苦しさを抑え込むか、気にしないようにできるか、の戦いのように思います。あとは、時間の流れに身を任せて耐えるしかないんじゃないです。
①環境を変える
自分の心の不調というのは、往々にして環境や状況によって左右されるものです。なので、周りの環境を変えてみるのはひとつなのかもしれません。
私の場合は、銭湯に入り浸る、散歩してみる、友達と遊びに行ってみる、ゲームをしまくる、などなど。とにかく家から出て何か他のことをして日光を浴びるようにしていました。これなら一応昼間は治まるようになりました。
②何が怖いのかを分析してみる
自分が一体、今何に恐怖しているのかをしっかり分析してみるのは大事かなと思います。最初は「死ぬのが怖い」と思っていたのに、きづいたら「苦しくなるのが怖い」とか「治らないのではないかと怖い」みたいな恐怖が勝っていたりします。だから今、何に怖がっているのかを分析してそれを一つずつ解決してみるといいと思います。
あとは、本を読んでみるのもいいかもしれません。関連していない本でもいいでしょう。なんでもつながってくるかもしれません。最後のところで私の読んでた本をちらっとのせておきます。
③時間が経つのを待つ
私の場合は、結局はこれがすべてを解決しました。人の考え方って意外とそう長続きしないものです。振り返ってみれば1年前の自分の考え方でさえ覚えてないし、変わってしまうのに今のこの恐怖がずっと続くと考える方がおかしな話です。そして体の不調は外部要因に大きく左右されますから、進学したとか、引っ越したとか、課題があるとか、でそんなこと考える暇がなくなっていつの間にかなくなってしまった、なんてこともあるものです。
④短期的視点を持つ
私は課題をしなきゃとか思っていたらなくなっていってしまいました。長期的視点ではなく、短期的にものを見始めるとそんなこと考える暇がなくなるんです。だから今日はこれをしよう、しなくちゃいけない、みたいな宿題をリミットつけて設定するといいかもしません。
⑤何かに頼る
これは最終手段に近いかもしれませんが、別に宗教に頼ってみてもいいと思います。もちろんカルト宗教なんかもありますからそこは要注意ですが、宗教はこの手の悩みに対する一応の答えを教えてくれます。死後の世界がどのようなものかわからないなら調べてみるのも一つだと思います。
そして、病院にかかるのも選択肢です。こんな私の訳のわからんアドバイスもどきを読むよりは百倍価値ある話と解決法を医者はしてくれるでしょう。今すぐに行く必要はないですが、私は「1年たってこれが続いてたら病院に行こう」そう決めていました。そう考えるだけでも心が楽になったりするので不思議なものです。これを読んでいる段階でものすごく長続きしている、もう耐えられないというのなら、受診してみてもいいと思います。
ー最後にー
エーリッヒフロムというフロイト左派の社会心理学者がいます。この人はファシズムと大衆社会の分析「自由からの逃走」をかいたことで有名な人物です。
その人の本「生きるということ」の中に「死ぬことの恐れー生きることの肯定」という項目があります。
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死ぬことの恐れを真に克服するには、ただ一つの方法 ー仏陀によって、イエスによって、ストア派の哲学者によって、エックハルトによって、教えられたー しかなく、その方法は、「生命に執着しないこと、生命を所有として経験しないこと」、によるものである。死ぬことの恐れは、生きることを止めることの恐れのように見えるかもしれないが、実はそうではない。
中略
生命が所有と経験される場合には、そうではない。その場合の恐れは死ぬことの恐れではなく、「持っているものを失う恐れ」である。それは、肉体、自我、所有物、アイデンティティを失う恐れであり、アイデンティティを持たず、「失われた」者の深淵に直面する恐れである。
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色々言っていますが、要はその「死の恐怖」とやらは結局「モノ」を失う恐怖なんじゃないですか、とフロムは言いたいわけです。私にはかなり的を得た指摘だと思います。
そして、解決法についてはこう述べます。
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持つ様式に生きているかぎり、それだけ私たちは死ぬことを恐れなければならない。いかなる合理的な説明もこの恐れを除いてはくれないだろう。しかし、まさに死のうとすることでさえ、それを軽減することができるのであって、それは生命へのきずなをさらに主張することによって、また私たち自身の愛で燃え立たせるような他人の愛に反応することによって、可能なのである。
死ぬことの恐れをなくすことは、死の準備として始まってはならないのであって、「持つ様式」を減らし、「ある様式」を増やすための絶えざる努力として始まらなければならない。スピノザが言うように、賢明な人は生について考え、死については考えない。
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どうでしょうか。私はこれを読んだとき、それができたら苦労しないよ、と思いました。まあ、それはフロム自身もわかって言っていますが。
要は、「死ぬということに裏打ちされたような生き方」すなわち「受動的な」生き方ではなく、「生きること」まるで他人を愛することのように、「能動的な」生き方を目指すべきだ。そう言いたいわけです。
この答えはフロムが述べるようにあらゆる宗教が問うてきたことです。「俗」を捨てること、そして真に「自ら」の力で生きること。数千年を経た科学的分析を行う世においても、結局答えはこういうことなのです。
正直いうと、フロムの他の本もそうですが、直接的な解決法を教えてはくれません。なので役に立つかといわれると微妙ですが。
ここまで長々とのせてきましたが、本当に苦しい人にとっては「もっと根本的なことを教えてくれよ」とお思いかもしれません。というか私がそうでした。
「時間が解決してくれるから、耐えろ」
そんな結論しか出せません。
もしかしたら他の人がいいことを言っているかもしれません。
でも確実に言えるのは、「必ず治まる」ということです。
人間、非常に弱いのです。でも同時に、それは長続きしないことでもあります。何かの拍子に忘れ去るし、消え去ってしまう。つくづく不思議なものです。
皆さんの苦しみは、決して一人だけのものでありません。必ず同じ人がいるものです。これを検索でたどり着いた人はそれを求めた人だと思います。それに気づいただけでも大きな一歩だと思います。
皆さんの苦しみが、これで和らぐかはわかりませんが、どうかよくなることを願っています。
参考文献
エーリッヒフロム
『愛するということ』
『生きるということ』
中村英世
『嫌な気持ちになったら、どうする? ――ネガティブとの向き合い方 』
ちくまプリマー新書