第1章 ④
「一緒に帰ってほしい」
終業のチャイムが鳴り、帰る準備をしている最中だった。彼女は悠人の机に手を置いて、前のめりになりながら呟いた。頼み込むというよりは、決定事項かのような口調だ。
とっさに顔を上げた時、彼女と目が合ってしまう。
小さく透き通った声は、悠人はひどく動揺した。
すぐに顔をそらして、断る言い訳を考える。
見るだけでこうなってしまうのだ。一緒に帰るなんて所業ができるはずない。
「ど、どうして?」
悠人の言葉に、彼女は一歩後退して眉間を寄せる。
「……電車が怖いから」
「いいじゃん。一緒に帰りなよ」
いつの間にかニヤニヤ笑みを浮かべる康太が隣にいた。どうやら聞かれたらしい。最悪だ。こうなったら言い訳は通じない。無理にでも一緒に帰そうとするだろう。
「ハァ、わかった」
囃し立てる康太の鳩尾を殴って、しぶしぶ立ち上がる。
ぶっきらぼうに鞄を持ち上げて教室を出ると、彼女が小走りで左隣に並んだ。
「ごめん。右側にいて欲しい」
「え、何かダメだった?」
彼女は困惑しながらも、素早く右隣に移ってくれる。
「左耳がほとんど聞こえないから、左に立たれると不安になる」
これは言い訳ではない。母親に打たれた時に左耳の聴覚がなくなった。現に彼女が隣にいて落ち着かないのは右も左も変わらない。
これを知っているのは康太くらいだ。康太は一度言っただけで、悠人の右側に立つようになった。
「わかった。今度からそうするね」
彼女はそう言うと、覚えたことをアピールするかのように、パンッと手を合わせた。
こうしていると、本当に仲が良いかのようだ。
違う。これは決して好意などではなく、彼女の要望を聞き入れた結果だ。悠人はそう言い聞かせながら校内を歩く。
「悠人くんって伊舟駅で降りちゃうよね?」
「今日はバイトだから伊舟南まで行くよ」
それを聞くと彼女の顔が綻んだ。
「ほんと? 私の最寄りだから一緒に行けるね」
「そうだね……」
それからしばらくの間、沈黙が続いた。
悠人は昨日の飛び降りのことを尋ねようとしたが、どうしても躊躇われた。
デリケートな問題だ。ただのクラスメイトである自分が気軽に聞いていい話題じゃない。かと言って遠回しに聞けるほど器用ではない。そもそも聞いてどうするのか。ただの野次馬だ。
あれじゃない、これじゃないと案を捨てているうちに、使えそうなものは無くなってしまった。
仕方なく俯いたまま歩く。
そして校門前の坂にたどり着いたころに彼女が切り出した。
「悠人くんは何で私のことを助けてくれたの?」
「え、何でって……」
ずっと見ていた人が突然飛び降りたら、助けるに決まっている。もちろんそんなことは言えるはずもなかった。
「……たまたま隣にいたから」
「隣にいたとしても、誰かのためにいきなり飛び出せないよ」
彼女はホッとしたような、悲しいような笑みを浮かべる。それがどういう意味なのか、悠人には見当もつかなかった。
そして彼女は小さく息を吐くと、意を決したように話し始める。
「私は最近、頭の中が空っぽになることがあるの」
「からっぽ?」
「そう。突然何も考えられなくなって、命令が聞こえるようになるの」
「……何、命令って?」
「『死ね』」
「っ!」
一瞬、呼吸が止まる。
彼女の自殺未遂が自分の意思ではないことは、その行動から想像できていた。だけどそれは『潜在意識』やら『脳神経』やらで解決できるものだと思い込んでいた。
今の話が本当なら、明確な殺意が彼女に向けられていることになる。
「どうした僕にそのことを?」
「信じてくれると思ったから」
彼女は悲壮な表情を浮かべて、そう言った。
彼女が嘘をついているようにはみえない。そんな嘘を言う必要もない。
悠人は何も言えずに、俯いたままでいた。
その時だった。
『にゃあ』
また左側から微かに猫の声がする。茶トラの猫がこちらをじっと見つめていた。
悪寒がゾッと走る。隣から鈍い音が鳴る。
反射的に振り返ると、彼女が道路脇の擁壁に叩きつけられていた。
「えっ!?」
状況が飲み込めなくて、体が強張る。
しかし悠人はすぐに彼女のもとに走った。彼女の首が絞められていた、いや彼女が自分自身で首を絞めていたからだ。
「何してんだよ!」
腕を掴んで、無理やり引き剥がそうとするが、全く動かない。凄い力だ。
彼女は両手の平で思い切り擁壁側に押し付けていた。のどが潰されている。呼吸できていない。彼女は苦悶の表情を浮かべていたが、徐々に意識が遠のいているのか、その表情すらも無くなっていく。
このままじゃ、死ぬ……。
悠人は擁壁を足で蹴りながら、全体重を使って彼女の腕を引き剥がす。
力は拮抗していたが、徐々に首が彼女の拘束から解かれていく。そして完全に離れると、彼女の力が途端に抜ける。
悠人はその勢いで後方に転がった。頭を打ったがそんなことを言っている場合ではない。
すぐに起き上がり、彼女の様子を確認する。
「……ケホッ、ケホッ」
彼女は弱々しく膝をつき、首元をさすって咳き込んだ。
悠人はその様子を見て安堵する。ひとまず自殺の衝動は止まったようだ。
しかし彼女の首元には赤黒い痣がくっきりと残っていた。
「大丈夫そう?」
「うん。ありがと…」
彼女はそう言いつつも、茫然自失としながら、自分の首を絞めた手を見つめていた。