第1章 ②
駅のホームに立って、電車を見るだけで身震いした。あの鉄の塊の前を自分は横切ったのだ。あの時は反射的に体が動いてしまった。もう二度としたくはない。
電車に乗り込んでつり革を掴む。席は空いていたが、立っていなければ気持ちが落ち着かない。周りを見渡してみたが、彼女は見当たらなかった。
昨日、悠人たちが電車を避けた後、駅員さんが血の気が引いた真っ青な顔で状況を確認しに来た。幸い彼女も怪我はなかったようだ。その後電車はすぐに発車し、彼女は駅員さんに保護された。悠人も付いてくるように言われ、バイト先に遅れる旨を連絡して同行した。
五畳ほどの小さな個室に彼女と駅員さんが対面で座る。悠人はどうしていいか分からずに、入口の真横に立っていた。
事情を聞かれた彼女は何も覚えていないと語った。意識がなかったようだ。
駅員さんは眉をひそめて困惑していたが、悠人は腑に落ちていた。彼女と目が合ったときに、希死念慮は感じなかった。夢から醒めたかのように澄んだ瞳だったのだ。
それからしばらくして、彼女の保護者が迎えに来た。生糸のような白髪で、顔には深い皺があった。少し腰を曲げて杖をついていたが、焦った様子で駅長室に駆け込んできた。親にしては歳が離れている。おそらく祖父だろうと推測した。
彼女の祖父は駅員さんと悠人に礼と謝罪で頭を下げ続けながら、帰って行った。
悠人もいくつか質問を受けた後に解放された。
どうして彼女は線路に飛び込んだのだろうか。
悠人は改めて彼女が線路に飛び込む瞬間を思い返す。
力が抜けるかのように、自分の意志ではないかのような動きだった。眠ってしまったようにも見えた。しかし助けた直後に目が合ったから、実際に寝ていたわけではないはずだ。
突然眠くなる病気というものを聞いたことがあった。日中でも睡魔に襲われ5分から15分は目覚めないというものだが、それとは違うような気がした。
悠人が頭を悩ませていると、突然背後から肩を叩かれる。
「よぅ、悠人」
「うお! なんだ、康太か」
悠人が慌てて振り返ると、同級生の杉岡康太が立っていた。そして悠人の右側に並び、同じように吊革を掴む。
「今日は朝練はないのか?」
康太は中学に入ってからバスケ部に入った。身長が高く、よく高校生に間違われている。強豪というほどではないバスケ部だが、毎日始業前に朝練をしている。
こうして通学の電車で会うことは滅多にない。
「今日は休んだ。別に朝練は強制じゃないしな」
「へぇ、珍しいな。康太が休むなんて」
「家の手伝いがあったんだよ」
「あぁ、そういえばもうすぐ祭りか」
康太の実家はこのあたりで一番大きな神社だ。毎年6月中旬の祭りには、この町の人口の倍ほどの人々が集まる。町一番のイベントだ。康太は幼いころからずっと跡取りとして祭りの運営を手伝っている。
「それより昨日、線路に飛び込んで人を助けたってって本当か?」
康太が顔を近づけて興奮した様子で迫ってくる。思わずギョッとした。まさか昨日の今日で知られているとは思わなかった。
「なんで知ってるんだよ?」
「あの駅を使うのは富貴中の生徒ばっかだし、そりゃ悠人を知ってる人はいるだろ」
「あぁ、そうか」
悠人は頭を抱える。一瞬の出来事だったから、バレていないと思ったが甘かった。
悠人は目立つことが苦手だった。
幼いころから母親に怒られないように、できるだけ平穏に過ごす癖が染みついている。目立ってしまえば、何か小言を言われる。たとえそれが良い事だろうと、関係ない。
とにかく何もしないことが得策なのだ。
そうした癖はなかなか抜けない。母親とは関係のない学校でも、平穏に過ごすよう努めていた。
みんなの注目の的になるなんて、考えたくもない。
「最悪だ……」
「悠人はそう言うと思ったから、報告してきた奴には口止めしといたぜ」
康太は親指を立てて、はにかんだ。
「話したくないなら、話さんでいいからな」
「お前のそういうとこ、ほんと助かる」
悠人は大きく息を吐いた。
こういうところが康太の人望が厚い所以だろう。裏表なく人が良い。
あまり人と関わりたがらない悠人も、康太といるときは気が楽だった。
やがて電車がスピードを緩めて、学校の最寄り駅に到着した。