三毛猫が定食屋を継いだ理由
「気がつけばそこにいた。それ以外に言いようがないわ」
最近、毎週土曜日に夕飯を食べに行く店がある。昼間は定食屋、夜は居酒屋をしている店で割烹着を着た三毛猫が一匹でやっている。一昨日の夜、珍しく客が私一人だったから「三毛猫さんはどこの生まれなの?」と聞いてみた。面白そうなお話が聞ける、そんな気がして。
「聞いても面白くないわよ?」
そう言いながら彼女は遠い目をしながら話し始めた……と、思ったが「その前に話すんだから何か飲みたいんだけど」とにやりと言われたのでビールを奢らされた。彼女は美味しそうにジョッキを半分ほど飲み干してから懐かしそうに語り始めた。今から私がするのはその時彼女から聞いた話だ。
自分がどこから来たのか、いつ生まれたのかよくわかっていない。彼女の最も幼い記憶は道路脇のお地蔵さまの祠の中で雨宿りをしていたことだった。それも一匹で。
母の姿なんてなく匂いもない。だから彼女は自分の母がどんな猫なのか、自分がいつ生まれてどこから来たのかもわからない。子どもの頃は知識なんてないから、彼女は自分のことを、祠で何もないところから生まれた猫だと思っていた。
雨風は祠で凌げるけれど空腹はそうはいかない。教えてもらうことなく狩りなんて器用なことはできないから、彼女はお墓のお供物やゴミを漁って腹を満たした。
何度もお腹を壊したし病気にもなった。死にかけたこともたくさんある。子どもの頃は夏が嫌いだった。食べ物がすぐに腐るからゴミなんて漁れやしない。でも、冬は冬で寒くて意味もなく悲しくなり、よくすすり泣くようにして夜を過ごした。
彼女は無口だった。口がきけない訳ではない。聡い彼女は周りの生き物たちの暮らしを眺めて言葉を習得した。しかし、親しい関係が皆無だったのでほとんど話すことはなかった。いつか誰かと仲良くお話ができる日が来るかもしれない、そう思って彼女は勉強を続けた。
「なあ、あんた。うちの店で皿洗いしないかい?」
祠での暮らしに慣れはじめ三度目の春を迎えた頃、彼女は声をかけられた。声の主は割烹着姿の人間の老婆だった。
突然声をかけられてびっくりした彼女は思わず祠の中に逃げ込んだ。
「あんた、ずっとここにいるのかい? そうしたいならそうすればいいさ。でも気が向いたらうちに顔出しな」
老婆はそう言って紙を一枚置いて帰っていった。祠から出てきて見てみるとそれは手書きの地図だった。そこには老婆の定食屋までに道順が書いてあった。
彼女は老婆の店を知っていた。何故ならよくゴミを漁りに行っていたから。老婆は古い定食屋をやっていて、夜には居酒屋として酒を提供していた。店はいつも賑わっていて店の外にまで美味しそうな匂いが漂っていた。
美味しそうな匂いに釣られ彼女はよく老婆の店の前を訪れ、店裏のゴミ捨て場からまだ食べられそうな残飯を漁っていた。店裏のゴミ捨て場には彼女が漁るようになってから時折明らかに残飯でないものが混ざるようになりその頻度は徐々に増えていた。
何か裏があるかもしれないと思い彼女は悩んだけれど一週間後彼女は老婆の店を訪ねることになる。彼女は食欲に勝てなかったのだ。
「あんたは飲み込みがいいから助かるよ」
猫が老婆の店を訪ねて半年ほどした頃、彼女は老婆とともに厨房に立つようになっていた。最初は皿洗いだけだったが野菜の下処理や簡単な煮物を教わり、終いには一緒に料理をするようになった。
老婆は彼女を大層気に入り店で住み込みで働かないかと提案した。彼女も老婆のことを慕っていたので二つ返事で了承し祠からすぐに引っ越してきた。
彼女が老婆の店で過ごす時間が増えるにつれて店には彼女目当てでやってくる客が増えた。彼女は有名な看板猫となり客はどんどん増えた。おかげで店は大繁盛。近所で一番有名な飲食店になった。
「特に理由なんてないよ。なんとなくうちで働いてくれたら助かるなと思っただけさ」
猫が老婆にどうして声をかけてくれたのか聞くと老婆は決まってそう答えた。本当にそれだけなんだろうか、彼女は疑い何度も聞いたがいつも返ってくる言葉は同じだった。そうその時までは。
「一匹で懸命に生きてるあんたを見ていると若い頃の自分を見ているようでさ」
病院のベッドで横になった老婆は目を細めながら猫に言った。老婆の店に彼女が住み込みで働くようになってから六度目の冬、老婆は倒れた。
一年ほど前から老婆が体調を崩すようになり、猫一匹で店を回す日がぽつぽつと出ていた。そして一匹で店を回すことに慣れた矢先、老婆は入院することになった。
病院と店を行き来する毎日。体力的な負担を感じながらも猫は弱音を吐くこともなく店を回し続けた。
老婆が入院して三ヶ月が経った頃、老婆は急に彼女に声をかけた理由を語り始めた。老婆も捨てられた身で幼少期に苦労したこと。自分もある飲食店の女性に拾われたこと。『あんたも誰かが困っていたら声をかけてやんな』が拾ってくれた女性の最期の言葉だったこと。老婆はゆっくりと、でもはっきりした声で猫に語り続けた。
「あたしはね、声をかけたあの日後悔していたんだ。でしゃばりすぎたかなって。だから、あんたが店に来てくれた時は嬉しくて涙が出そうになったんだよ」
そう言って微笑む老婆の手を彼女はそっと握りしめ涙を流した。それは老婆のもとで働くようになってから初めて流す涙だった。そして彼女は初めて嬉しくても涙が出ることを知った。
「何を泣いているんだい。あたしはあんたと過ごせて幸せなんだよ」
そう言って老婆は笑った。しわくちゃの笑顔を向けられて彼女も笑った。笑いながらいつの間にかどちらも涙を流していた。あたたかい空気が病室を満たし穏やかな時間が流れた。しかしこれが一人と一匹の最期の会話となった。
老婆は猫と話した翌日からこんこんと眠り、三日後には猫とたくさんの常連客に見守られながらこの世を去った。
「お婆の常連には悪いけれど、この店は私が引き継ぐことにしたよ」
老婆が亡くなって二ヶ月後、猫は店を再開する。再開当初多くの常連客が再開を喜び店を訪れたが、中には「やっぱりママがいないと物足りない」と言って顔を見せなくなった客もいた。
最初は本当に店を継いでいいものかと猫はかなり悩んだ。老婆の死後、病院のベッドの枕の下にあった遺書にはもしよかったら猫に店を継いで欲しいと書いてあった。店が大好きだった彼女にとってその言葉は嬉しかった反面、自分にできるのだろうかと不安も感じていた。
二ヶ月という時間をかけて猫は悩み抜いた。そして悩んだ末に店を継ぐことにした。
「大した理由なんてありゃしませんよ。私にできることが料理しかなかった。ただそれだけです」
店を継ぐ決め手はなんだったのか聞かれた猫は笑いながらそう言った。彼女が店を継いでそろそろ三年になる。白い割烹着を着た三毛猫の定食屋は今もとっても大人気だ。夜の居酒屋も繁盛している。
「常連のツキノワグマがね、こないだ人間の女性を連れてきたのよ」
彼女に最近の楽しみを聞いてみた。すると彼女はふふふと笑いながら最近見ていて微笑ましいカップルがいると教えてくれた。体格が大きくて怖がられてしまい、なかなか他の動物と馴染めないと言っていたツキノワグマ。そんな彼に仲のいいご近所さんができたんだとか。クマは先代の時からの常連客で彼女はそのことが嬉しいらしい。
「付き合ってないけれど時間の問題じゃないかしら。まだまだ時間はかかるでしょうけど……」
そう言って微笑む彼女の横顔は、話の途中で見せてもらった先代の笑顔に似ているなと思った。