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匂い立つは黄金の薔薇~花園の令嬢と最後の庭師~  作者: つるよしの
第三章 赦すこと 贖うこと 愛すること
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第29話 最後の庭師

「久しぶりだね、アシュリン……」

「……あなたもね、ライナルト……」


 薄暗い牢のなかで、元婚約者であり、初夜の契りまでは至らなかったものの、妻であり夫でもあったふたりの男女は、それぞれの瞳を交わし合った。その声音はともに穏やかで、仮にその経緯を知るものがその場にいたら驚きを隠せなかったかもしれない。

 

 だが、なぜだろう、アシュリンには声を荒げることは出来なかった。

 もし再会できたなら、言いたいことはたくさんあった。聞きたいことも、確かめたいことも、たくさんあった。そして、詰りたいことも。それこそ、迸る感情のまま、口汚く、わめき散らして。

 

 ――そうできたら、どんなに楽なのだろう。


 アシュリンはアメジスト色の瞳を震わせながら、唐突に姿を現わしたライナルトの姿を見ながら、思う。すると、ライナルトが独り言つように言葉を零した。


「許して欲しい、と言う気はないんだ。たとえ僕がそうして欲しいと願っても、君がそんな気持ちになれるわけない、というのは分かるつもりだ」

「……」

「だけど、これだけは分かって欲しい。僕は、君が好きだった。たしかに僕は、軍に入ってからは、君のお父上に近づく目的で君の傍にいた。だけどアカデミアで出会って君を好きになったのは嘘じゃないし、それ以降も君のことを愛していた。いや、なんなら、今だってアシュリン、君のことを愛している」


 そのとき、アシュリンの心でなにかが爆ぜた。彼女は次の瞬間、赤い髪を振り乱してライナルトに向かって絶叫していた。


「嘘よ!」

「嘘じゃない! だったら今、僕はここにいない!」


 アシュリンとライナルトの絶叫が重なって、薄暗い独房に反響した。対峙するふたりを、ぐわんぐわん、と残響が包む。そのなかでアシュリンは唇を噛みながら、呻くように語を継いだ。


「だったとしても……私はあなたを許せない」

「……そうだろうな」

 

 ライナルトが応じる。もはや分かり合うことのないふたりがそこにいた。かつては、あんなに愛し、信じあっていたというのに。

 

 すると、ライナルトが手に携えた剣をアシュリンに向けた。その剣は、いつの間にか虹色のひかりを帯びている。戦闘魔術のひかりだった。そして無言のまま、アシュリンに向かって剣を振りかぶる。

 その動きは素早く、アシュリンには声を上げる間もなかった。彼女にできたことといえば、殺されるのを覚悟して、咄嗟に目を瞑ることくらいだった。

 

 だが、いつになっても身体に痛みは走らない。おそるおそるアシュリンが目を開けてみれば、ライナルトの剣がたたき割っていたのは、己の足を拘束していた足枷だった。呆然とするアシュリンに、ライナルトは淡々と語りかける。


「馬車を用意してある。逃げろ、アシュリン。君は獄死したことにして処理する」

「ライナルト……」

「大丈夫、心配しなくてもいい。代わりになる死体なら山ほど()()はある。もはやこの国は、そういう国なんだ」


 ライナルトはそのときはじめてアシュリンの前で笑った。

 それは、どこまでも自虐に満ちた哀しい笑みだった。そして、アシュリンの手を掴み、牢から引き出そうとする。だがアシュリンは彼の腕を振り払う。そしてライナルトに厳しい顔で向き合った。


「嫌。逃げるなら、クラウスも一緒に逃がして」

「……そう言うと思っていたよ」

「だって、私は彼の主人ですもの」

「そうか……」


 ライナルトが呟く。その声に、嫉妬と羨望の色が滲んでいたのは、アシュリンの気のせいだろうか。

 しばらくライナルトは歪んだ笑みを浮かべながら、なにか考えこんでいた。そして、改めてアシュリンの顔を見る。

 

 向けられたペリドット色の瞳は、芯から冷えた色をしていた。


「そういうことなら、いいだろう。クラウス・ダウリングも獄死ということに表向きはするさ。だけど、それには条件がある。彼には相応の刑を受けてもらう。僕にも立場があるのでね」

 


 アシュリンはライナルトに連れられて、クラウスの牢に足を運んだ。あちらこちらから呻き声が聞こえ、暗くすえた匂いの満ちた地下牢を進むのは恐ろしかったが、クラウスに再び会えるという喜びはアシュリンの心を奮い立たせた。

 

 それだけに、目にしたクラウスのあまりにも酷い有り様に彼女は衝撃を受けた。

 薄暗い独房のなかでもはっきりと浮かび上がる、身体の至る所に走る傷と痣。あちこち裂けた着衣。腫れ上がった顔。クラウスはどす黒い血だまりのなかに倒れ込んでいた。

 駆け寄ってその身体を揺すってみれば、微かな声が上がり、彼がなんとか生きていることにアシュリンは安堵したものの、瞳からは涙が伝って止まらない。


「クラウス、クラウス……! 痛かったでしょう、辛かったでしょう……クラウス……!」


 そう泣きながらクラウスの身体に縋るアシュリンを、ライナルトは冷たい視線で眺めていた。

 やがて彼に呼ばれたらしい、剣を手にした数人の兵士が牢に入ってくる。

 彼らはクラウスが意識を回復させたことを確かめると、無理矢理半身を起こさせた彼の目の前に、虹色に燦然と輝くちいさな石を置いた。

 それはアシュリンは初めて見る、クラウスの魔晶石だった。

 そして兵士が剣を振るい、石をたたき割る。クラウスの魔晶石が粉々に砕け散るのを見て、アシュリンは慄然とした。


「ひどい……!」


 この世界では魔晶石は人間にとって命も同様である。死罪でも宣告されない限りそれは取り上げられ、ましてや壊されることはない。だが、ライナルトは平然としたものである。


「彼の魔力の強さはかなりのものだからな。念には念を入れて、こうさせてもらう。そして、これからが仕上げの刑だ。彼はこの国最後の庭師だからな、せいぜい丁重にやってやれ」

「ライナルト! やめて! これ以上彼になにをするというの!?」


 そして、声を荒げたアシュリンの目前で次に繰り広げられたのは、あまりにもむごい光景だった。


「やれ」

 

 ライナルトの命に従って、兵士はまず、跪いたままのクラウスの右腕を切り捨てた。

 呆然とするアシュリンの身体に激しい血しぶきが滴り落ちる。クラウスの絶叫が耳をつんざいた。

 そして、彼の絶叫はそのあと、再度響き渡る。


「最後は私がやる」


 アシュリンは、そう言い放ったライナルトが、鞘から剣を抜き、刃を振りかざすや、クラウスの左腕をもひと思いに切り落としたのを見た。

 ひとかけらの躊躇いもなく。

 

 惨劇が終わってみれば、アシュリンの目の前にあるのは両腕を切り落とされたクラウスの姿だった。

 彼の端正な顔は激痛に歪み、額には脂汗が伝っていた。

 

「なぜ!? ライナルト、どうしてこんなことを!?」

 

 がたがたと震えながらアシュリンは、クラウスの血が滴る剣を携えながら、なおも平然としているライナルトを質した。すると彼は冷たい視線を前方に投げたまま、淡々と答える。


「右腕を切り落としたのは庭師としての罪だ。これで彼は、“アシュリン”の栽培方法を知っていたとしても、それを育てることは出来ない。その前に、もはや草木一本すら育てられないだろうが」

「そんな……」

「そして、左腕は、従者という身分でありながら、不敬にして主人の心を奪った罪だ。それを償ってもらっただけのことだ」


 絶句して立ちすくむアシュリンの目に映るライナルトは、もはや彼女の見知らぬ人だった。


「お前たちは、我が国の北の果てにある流刑地、ティンカにこれから運んでやる。せいぜいそこで、死ぬまで暮らせ。女神フランティーラにも見捨てられた地だ、お前たちには似合いだろう。腕の血が止まる頃には迎えに来てやる」


 最後に彼は、アシュリンとクラウスにそう言い捨てると、兵士たちとともにその場を去って行った。

 一度も後ろを振り返ることなく。


 

 その場に残されたアシュリンは、壁にもたれかかって座り込んだクラウスの傍に駆け寄った。切り取られた両腕からの出血は収まりつつある。だがクラウスはなおも疼く痛みに顔を顰めていた。

 しかし、彼はアシュリンの姿を認めると、弱々しいながらもはっきりとした声で、こう呟いた。


「これで……もう抱きしめることは、出来なくなってしまいました」

「……え?」

「……お嬢様をです。もっと、もっと抱きしめておけば良かった……」


 そう言ってクラウスは、荒い息の下で、微かに笑った。どこか照れたような色を焦茶色の瞳に浮かべながら。

 その言葉にアシュリンの思慕は、ついに溢れた。

 

 彼女は涙を流しながらクラウスの胸に飛び込むと、いまや両腕をなくしたその身体に両手を回して、抱き止める。

 クラウスの身体の熱がアシュリンに注ぎ込む。その感触に彼女は、こうなってもなお、自分たちは、ともに傍にあることを確信する。アシュリンはクラウスの胸で泣きながら言葉を紡いだ。


「何言ってるのよ、クラウス! そのぶん、私の方から抱きしめるわよ。こうやって、あなたが嫌になるくらい。いいえ、嫌って言っても、離してなんかやらないから……! そうよ、私は我が儘な主人なのよ……!」


 そう泣き叫ぶアシュリンのアメジスト色の瞳と、やさしげなひかりで満ちた焦茶色の瞳が至近距離で交差する。


「本当に我が儘なお嬢様だ……」

 

 そう動いたクラウスの腫れ上がった唇が、アシュリンのそれに重なった。

 

 クラウスの舌が、愛しい存在がそこにあるのを確かめるかのように、アシュリンの唇をなぞる。アシュリンは、柔らかくも激しいクラウスの口づけに心を蕩けさせながら、思った。


 ――おかしい、こんな状況なのに、私はいま幸せを感じている。感じたことのない至福を。いいえ、今、私たちは幸せなのよ。おかしくなんてないわ。

 

 だって、私たちは――生きているんだもの。

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