炎、薔薇の芳香、黒い影
――熱い。熱い。熱い。熱い。
「誰か! 誰か、助けて!」
庭園を覆い尽くす炎のなか、アシュリンは、逃げるあてもなく、裸足のまま彷徨い続けていた。その肌に纏っているものといえば、首から提げた己の魔晶石を除けば、ネグリジェと、離れを飛び出てきたときに羽織ったレース編みのカーディガンのみだ。伯爵令嬢たる彼女からすれば、このような姿を家族や女中以外の目にさらすのは甚だ不本意ではある。だが、それでもアシュリンは、喉を枯らして助けを乞うことを止められなかった。
「私はここよ! 誰か! 答えて!」
しかし、それがいけなかった。さらに叫ぼうとして大きく息を吸った途端、アシュリンの喉に、耐えがたい熱が迸った。立ちこめる煙を吸ってしまったのだ、と気付いたときは、遅かった。堪らず、彼女は大きく咳き込みながら、その身を地面に崩れ落とした。頬が泥に汚れ、投げ出された素足をちくちくと芝が刺す。しかし、アシュリンには、もはや、立ち上がる力はなかった。先日アカデミアで習ったばかりの、水流を産み出す初級魔術すら操る余力もない。
――熱気に口が覆われて、息、が……で、きな、い。
ふっ、と、気が遠くなる。アシュリンは唇を噛んだ。ここで意識を失ったら、庭園のなかで焼け死んでしまう。彼女はなんとかそれは避けなければと、正気を保つべく血の味が滲むほどに二度三度と唇を噛みしめ続ける。そしてそのとき、アシュリンの鼻腔をなにかの甘い匂いがくすぐった。
――これは……薔薇の香り? ああ、そうか、もう庭園の、黄金色の薔薇が花ひらく時期だったわね。それにしても、あの薔薇って、炎の中でもこんなにも匂い立つものなのね……。
その場に不釣り合いなほどに優雅な薔薇の香りに、アシュリンは、つい可笑しくなって、急速に朦朧としていく意識の向こう側で微笑んだ。そして身を包む熱気に、もはやこれまでと覚悟を決めて瞼を閉じたときのことである。
唐突に、アシュリンの身体は宙に浮いた。驚いて目を開くと、彼女の肢体を持ち上げる何者かの顔が目に入る。だが、その者の顔は赤い炎に重なり、ただ黒い影にしかアシュリンの瞳には映らない。
アシュリンは誰何の声を上げようと口を開いた。しかし、その瞬間、いかつい男の手が彼女の口を覆う。そして鋭い声が鼓膜を打った。
「……口を開くな! これ以上、煙を吸ったら危険だ!」
そしてその声が、その夜のアシュリンの、最後の記憶だった。
アシュリンは誰とも知れぬその男の腕のなかで、ついに意識を闇へと手放した。
はじめまして。つるよしのと申します。
当作品が「小説家になろう」初投稿作品となります。
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