月はそこにいる。
「あそこに、金髪で天パの男がいるでしょ? そう、あの背の高い人。四年生の続木さんっていうんだけど、変な人だから、あんまり近寄らない方がいいよ」
新入生歓迎会で、隣にいた黒縁眼鏡の先輩にそう教えられた五分後、僕は続木さんとかたい握手を交わし、さらにその十分後、僕は続木さんの部屋に上がり込むことになる。
ここは瀬戸内海に面した、観光地として多少は名を知られている街のこじんまりとした大学だ。その中でも僕が所属する日本文学科は、一学年五十人ほどの小さな学科で、この歓迎会も教室の机にお菓子とジュースを並べただけのお手軽なものだ。開始から二十分くらい経過したところで、出身県ごとに集まって話そうと一人の先輩が高らかに宣言し、その結果、僕は三人ほどの高知とやたらに多い愛媛の学生たちの狭間で一人、香川県出身として肩身の狭い思いをしていた。待てど暮らせど香川は現れず、他に孤独に打ちひしがれている県民はいないものかと、僕は辺りを見回していた。
すると、地元トークで盛り上がる学生たちをかき分けながら、金髪の天パがゆっくりとこちらに接近して来るのに僕は気付いた。デーデン、デーデン。僕の頭の中で流れ出したジョーズのテーマと共に、金の天パは黒髪の海を突き進む。そして僕の目の前にたどり着いた続木さんは、僕を鋭い目で見下ろしながら言った。
「お前、香川か」
続木さんには「お前は敵か」と銃を突きつける兵士を思わせるような、並々ならない迫力があった。もしかして、この人にとって香川は敵なのか。徳島出身とでも名乗ろうかと一瞬迷ったが、そんなことをして面倒な誤解を引きずるような事態も、僕としては避けたいところだった。結局僕は唾を飲み込みつつ、こくり、とうなずいた。
「そうか。香川のうどんには世話になった。ありがとな」
続木さんははっきりとした口調でそう言うと、右手を差し出した。急なことに、僕はびっくりして体が一瞬固まってしまう。恐る恐る右手をもっていくと、続木さんは僕の手を強く握って二、三度上下に振った。
「良かった。いつか香川に礼を言おうと思ってたんだ」
続木さんは手を離すと、途端に憑き物が落ちたかのような優しい笑みを浮かべた。どうやら続木さんは僕を、讃岐うどんの化身か何かと勘違いしているらしかった。僕の頭に、黒縁眼鏡の先輩の言葉がよみがえる。確かに変な人だ、と思った。
「ちなみに、俺は徳島出身だ。うちの学科は、四国の中でなぜか徳島と香川が全然いねえんだよな」
よし行くか、と続木さんは言って、ひとり教室の出口へ向かって歩き出した。次々と移り変わる続木さんの行動に僕はついて行けず、ただ続木さんのTシャツの背中の皺を眺めることしかできない。続木さんは僕に動く気配がないのに気付くと速足で引き返し、人差し指を僕の顔に突きつけて言った。
「いいか。こんな、愛媛と高知しかいないようなしゃらくせえ場所にいたら、お前も愛媛か高知県民になっちまうぞ」
たぶん、色々と反論すべきところはあったと思う。しかし、僕は続木さんの謎の剣幕に、黙ったままうなずかされてしまった。続木さんは、よし、と満足そうに言うと、再び教室の出口に向かってすたすた歩き始めた。
そして僕は自分が、まるで強力な磁石にでも引き寄せられているかのように、いつの間にやらしっかりした足取りで続木さんの背中を追っていることに気付いた。この十分足らずの続木さんとのやりとりを通して、僕はどうやら目の前にあるしわくちゃのTシャツの向こうに「破格の何か」の存在を感じているようだった。それは「大学」という新しい環境への期待と相まって、僕の心臓を震わせ、僕の両足を突き動かしていた。
続木さんは振り返らない。僕はその後を追う。
続木さんが住んでいたのは、大学付近の寮の中でも、家賃の安さとボロさにかけて他の追随を許さない「湖石寮」の一室だった。下宿先を探していた際に僕も見に来たが、すきま風と壁の薄さと、共用風呂の狭さと、地震が起きたときにぺちゃんこになる点に目をつぶりさえすれば、安くて広くていい部屋だな、と思ったのを覚えている。
しかし八畳という数少ない部屋の長所を、続木さんは大量の酒瓶や酒の缶でほとんど埋め尽くしてしまっていた。酒の残骸は散乱しているのではなく、種類ごとに分けられた上で、全てきちんと並べて立てられていた。玄関から部屋の奥に向かって真っすぐにのびる、四畳ほどの何も置かれていない空間を、両側から酒が取り囲んでいる。僕は夏の心霊特番で見た、日本中から人形が集められている寺院を思い出した。立ち並ぶ酒の缶から漂ってくるアルコールの臭気に、僕は頭が少しくらくらした。
「まあ座れよ。のむか?」
続木さんは備え付けらしい小さな冷蔵庫を開けると、三五〇ミリリットルのビールの缶を僕に放った。缶をキャッチした僕の目に、五パーセントというアルコール度数の表記が飛び込んでくる。うわ、酒だ、と僕は思った。高校とは一線を画す、大学生の必須アイテム。二十歳という大人の階段の象徴にして、飲み会で何人もの新入生を救急車へと送り込む諸刃の剣。
「お前、いくつだ」
続木さんがもう一本取り出したビールの缶を片手に尋ねる。
「十九です。一年浪人したので」
「十九でのもうが、二十でのもうが、変わりゃしねえぞ。平気なやつは平気だし、ぶっ倒れる奴はぶっ倒れる。法律なんて、見つからなけりゃ無いも同じだ」
悪い先輩だ、と僕は思った。これがいわゆる、悪い先輩ってやつだ。
僕は少し逡巡した後、入学式での校長のスピーチに従い、勇気をもって缶を畳に置くことにした。
「やめておきます。二十歳になるまでは、のまないと決めてるので」
続木さんの目が途端に鋭くなる。
「言ったな? お前今、二十歳までのまないって言ったよな?」
二十歳までのまない後輩は、今度こそ続木さんの敵なのだろうか。それに対して僕の決意は、とりあえず法律は守っておこう、という程度のささやかなものに過ぎなかった。しかし、ここで負ければ救急車送りになるという盲目的な恐怖が、僕の首をなんとか縦に振らせた。
すると、続木さんの顔はまたもや柔和な笑みに切り替わった。
「いい心がけだ。自分にルールがあるってのは、いいことだな」
続木さんはビールを置いて目を閉じ、両手を合わせた。そしてぷしゅりとプルタブを起こすと、ビールを一気にのみ干してしまった。空になった缶を、続木さんは部屋の「ビール缶エリア」に陳列する。部屋の中には多種多様な酒が揃っていたが、とりわけウイスキーとビールが多くの面積を占めているようだった。そして続木さんは、僕の前に置いてあったビール缶を取り上げると、元の位置にあぐらをかいた。ぷしゅり、とまた小気味の良い音が部屋に響く。
僕はどうしても聞かなければ済まない気がして、続木さんに尋ねた。
「続木さんは、なんでこんなにお酒の缶やビンを残してるんですか?」
続木さんは僕の言葉を聞くと、深いため息をついて缶を置いた。そしてポケットから煙草とライターを取り出すと、流れるような動作で咥えた煙草に火を点け、煙を吐き出した。ワルだ。これがいわゆる、ワルい先輩だ。
「なあ香川。全ての動物は、今まで食ってきた生き物の屍の上に立って、生きてるよな」
僕の名前は決して「香川」ではなかったが、その程度の違いは、続木さんが厳かに語る真理の前ではとても些末な問題だった。(そういうわけで、僕はこの瞬間からずっと「香川」と続木さんに呼ばれることになる。)
「だが、それを実感しながら生きてるやつはいない。屍の山が見えるわけでもないのに、実感しろという方が無理な話だからな。だろ?」
確かに、と僕は頷く。そういえば続木さんと会ってから、僕は頷いてばかりいる。
「だから俺は、この大学に入って人生ではじめて口をつけたチューハイの缶から、全ての酒の殻を残すことにした。俺はこの屍の山を眺めながら新しい酒をのみ、その狭間で眠る」
ビールをのむ前の両手を合わせる動作は、いただきますだったのだ、と僕は気付いた。そして続木さんのルールが、続木さんの語る真理と絶妙な断層のずれを生じていることも。
しかし、それを含めた続木さんの全てに対して、僕は完全に痺れていた。続木さんの吐き出した煙を気付かれないように、僕はこっそりと吸い込んだ。煙が鼻の穴を通って、頭の中をもくもくと包み込むような感覚がする。そして僕は、二十歳になったら煙草も吸おう、と心に決めた。
痺れてはいたがそれと同時に、これ以上この部屋にいたらおかしくなってしまうという警報が、僕の頭の中で鳴り響いていた。あまりに刺激的な空気が、僕の中に致死量スレスレまでたまっているようだった。
僕は時計を見ながら、続木さんに帰りのバスの時間が迫っていると告げた。すると続木さんは黙って右手の甲をしっしっ、と振った。不機嫌な様子ではなく、むしろ興味を失ったような表情で続木さんはビールをすすっている。玄関で靴を履いてから、僕は続木さんに「また来ていいですか」と尋ねた。続木さんは黙ったまま、ビールの缶を右手でかかげた。
果たしてこの世に、こんなに格好いい人がいて良いのだろうか。僕の心は、もはや感覚が麻痺するほどに痺れ切っていて、自分でもわけが分からなくなっていた。
帰りのバスで声をかけられ、顔を向けると、あの黒縁眼鏡の先輩が乗り合わせていた。それから先輩は、続木さんに連れて行かれた僕を心配する言葉をかけてくれた。僕は黒縁眼鏡の先輩が、愛媛県のやつらの中にいたことを思い出す。しゃらくせえ、と思った。
*
大学の講義が三限までに終わる日ならいったん帰り、四限か五限の日は大学の付属図書館で適当に時間をつぶしてから、夜の七時きっかりに僕は続木さんの部屋に行く。
毎日ではないが、僕は平日の内の二日以上は続木さんの部屋に向かっていた。昨日見たときに冷蔵庫の酒がなくなりかけていたので、今日の僕のリュックは梅酒の一・五リットルパック分だけ重い。堂々としてさえいれば、十九歳の男がスーパーの店員に年齢確認などされないのだということを、僕はすでに知っている。
僕は続木さんの部屋のドアをノックした。中から返事はない。ノブを捻って引くと、ドアは何の抵抗もなく開いた。何年か前に続木さんが鍵を無くして以来、このドアは来る者を拒まず、清々しく開いている。
「お邪魔します」
「おう」
七時のドアの向こうで、続木さんはいつものように片膝を立てて煙草を吸っていた。僕は以前は二時とか五時半とか、まばらな時間に尋ねていたが、その度に続木さんは大の字で寝ていたり、爪を切っていたり、ビール瓶を並べてボウリングをしていたり、またはいなかったり、その時々で色々な状態だった。だが、午後七時の続木さんは必ず片膝を立てて煙草を吸っている。その法則に気付いて以来、僕は必ず夜の七時ぴったりにドアを開けるよう心掛けていた。そして七時から、続木さんのバイトがはじまる一時までの四時間が、僕と続木さんの時間だった。
平日の夜中の一時から朝の五時まで、続木さんは深夜のガソリンスタンドでバイトをしている。続木さんはこの時間のバイトを、なんと三年以上も続けているらしい。
「俺はな、バイト中どうしても煙草が吸いたくなるんだ。退屈なことを何時間もやってると、頭が嫌になってニコチンを欲しがるんだろうな」
そのため続木さんが一年間で十数種類のバイトを渡り歩いたという事実に、僕は驚いた。そしてその果てに辿り着いたのが、深夜のガソリンスタンドなのだという。
「いくらニコチンが欲しくても、ガソスタで煙草なんて吸ったら、爆発して吹っ飛んじまうだろ? だから俺は、煙草の事を考えずに四時間もバイトを続けられるわけだ。それに俺一人なら、酔っててもうるさく言われねえからな」
と、続木さんは得意げに語った。それはとても理にかなった理由のようにも聞こえたが、続木さんが爽やかな笑顔で「オーライ、オーライ」と車を誘導する姿なんて、僕には想像できなかった。
それに毎日朝までバイトをして、続木さんの体内時計は大丈夫なのだろうか。続木さんがいつ寝ているのか、昼間に一体何をしているのかは、謎に包まれていた。何度か尋ねてみたこともあるが、
「世の中は、色んなやつが色んなことをして成り立ってるだろ? まあ、俺も色々だ」
とか何とか答えるばかりで、しかし少なくとも僕は大学や町中で、続木さんの姿を見かけたことは一度もなかった。とにかく続木さんは、謎多き人なのだった。
まあ何はともあれ、この後に四時間のバイトを控えている続木さんのために、今日も僕はたこ焼きを焼くことにした。たこ焼き器の電源をコンセントにさして、熱くなる前にキッチンペーパーでさっと油をぬりつける。
このたこ焼き器は続木さんの部屋で発見したものだが、ボウルや泡だて器といった必要な調理器具は全て、僕が百均で買い揃えたものだ。続木さんの部屋にはおたま一個、包丁一本すらなく、調理用品としてぽつんと埃をかぶっているたこ焼き器を、僕は放っておけなかったのだ。とはいえたこ焼きの調理自体は簡単で、粉とソースのストックさえあれば、あとは卵と具を持って来るだけでよかった。
卵と粉と水をかき混ぜたタネが出来上がると、僕はそれを充分な熱をまとったたこ焼き器の鉄板へと、慎重に流し込んでいった。じゅわわ、と音をさせながら、黒い鉄板がとろみを帯びたタネに覆われてゆく。一度に焼ける数は十八個。僕は焼け具合を見ながら、ここぞというタイミングで一口大に切ったソーセージとチーズを九つずつ落とし込んだ。さんざん試行錯誤したが、安さと手間と味のバランスにおいてはこの二つの具が最強だ。
僕が集中力の全てをたこ焼きに注ぎ込む傍らで、続木さんはずっと紙コップで梅酒をちびちびやっている。続木さんは、たこ焼きを焼かない。なぜなら続木さんにたこ焼きを焼かせると、何度やっても「絶望的な塊」と言えるものが十八個できあがってしまうからだ。一方、大学に入るまでわざわざ自分でたこ焼きを焼こうなどと思いもしなかった僕は、その腕をめきめきと上達させていた。半球から溢れていた周辺のタネを、たこ焼き用ピックで半球の中に押し込みながら、素早く小刻みに回転させていく。十分もしないうちに、どろどろだった液体は十八個の美しい球体へと変貌を遂げた。
僕は出来上がったたこ焼きを紙皿に盛って、ソースとマヨネーズをかけ(面倒くさいので青のりは無し)、続木さんに献上した。続木さんは無言で割りばしを割ってたこやきを一つつまむと、口の中に放り込む。そして続木さんは「ん」と唸った後で、
「プロだな」
とお決まりの一言を呟いた。これを聞きたいがために僕はこれまで、そしてこれからも、何百個とたこ焼きを焼き続けることだろう。
五十個分のタネがボウルから消えて、鉄板の取り外しが効かない不便なたこ焼き器を僕が何とか洗い終えた所で、続木さんがゆっくりと立ち上がった。
「おい香川。月は出ていたか」
僕は昼間に見た白い月の形を思い出しながら「福本でした」と答える。
続木さんは梅酒と紙コップを、僕は予め買っておいたノンアルコールのチューハイの缶を片手に、二人して部屋を出た。三分ほど歩き、僕と続木さんは無言のまま、大学裏門の柵を乗り越える。大学には大きな貯水池が隣接しており、僕たちが目指すのは、その貯水池を一望できる大学構内のベンチだ。この時間なら職員はおろか、警備員すらとっくに帰っている。
はじめてベンチに連れられた夜、僕が裏門の前で「不法侵入じゃないですか」と震え声で抗議すると、続木さんは柵にかけていた手を下ろし、僕の胸倉を掴んで吠えた。
「馬鹿野郎。大学生が、最高の場所で月を見ながら酒をのむ。おい香川、これが不法侵入か?」
そういうわけで、続木さんと僕は常習的に大学に不法侵入をし、月を見ながら酒をのんでいるのだ。
だが続木さんの言う通り、このベンチから見る月は、まさに最高といえるものだった。この大学は小高い山の上という不便な立地のせいで、周辺にお店の一つすら見当たらない。しかしその分、夜になると真っ暗になる大学には、星々と月の光がダイレクトに届く。前方に広がる水面では月がゆらゆらと風に揺れ、首を少し上に傾ければ、満天の夜空が広がっている。当然構内に人は無く、静寂と虫の囁きが、じーんと耳に染みる。最高だ。
「どいつもこいつも、知ったような顔で『地球が太陽を回っているんだ』なんてほざきやがってよ」
続木さんはここに来ると、酔っぱらった末に必ず天動説を力説した。
「お前らの中で、地球が太陽をぐるぐる回っているのを、本当に見たやつがいるか? 俺は、俺の目と感覚をとことん信じるぞ。太陽も月も、どう見たって俺たちの周りをぐるぐる回ってるじゃねえか」
続木さんが到達する答えはいつも、半分が正しく、もう半分が暴論だった。
そして続木さんは、三十種類ほどの月があって、それらが交替で空を横切っているのだという主張で、半分の正解をも台無しにしてしまうのだった。
「なあ福本、お前もそう思うだろ?」
続木さんはそう言うと、月に向かって高々と梅酒をかかげた。
当番制で現れる三十の月に、続木さんはそれぞれ名前を付けていた。今日のいわゆる下弦の月は「福本」で、そこから少し欠けた明日の月は「穂積」だ。新月の日は欠席扱いになるらしい。
月の名簿の話を聞いた時、満月が「塚本」であるのに対して、半月から三日分減った中途半端な月が「丸井」であることに僕は抗議した。月食の月の名前が「赤井」なのに、だ。その一貫性のなさが、僕には納得できなかった。
僕の主張に対して、続木さんは僕の両肩をがっちりと掴みながらこう言った。
「おい香川、よく考えろよ。クラスで足の遅いやつが『速水』じゃ駄目か? デブに『細川』はいないか? 人はな、持って生まれたもので生きていくしかねえんだよ。香川だって月だって、同じことだ。だろ?」
肩をぐわんぐわん揺さ振られながら、すごい剣幕でまくし立てられた僕は、素直に名簿の暗記に努めることにした。一日単位の満ち欠けを見分けるのは困難を極めたが、三か月ほど月を見上げ続けていれば、どうにか八割くらいは名前を言い当てられるようになった。そして今ではすっかり、塚本は塚本でいいんじゃないか、と思えるようになっていた。ちなみに僕のお気に入りは、新月直前にごく僅かだけ左に残った「冷泉」だ。
隣で「福本」を見上げながら梅酒を喉に流し込む続木さんを、僕は頭の中でガソリンスタンドに移動させてみた。続木さんからお酒を取り上げ、代わりに赤と白の、ガソリンスタンドの店員っぽい制服を着せてみる。たった一人の夜勤で、お客さんも滅多に来ない。続木さんは月と、月光によって映し出された自身の影と語り合いながら、やがて夜は更けてゆく。
「続木さん、今日の講義で習ったんですけど。李白の『月下独酌』って知ってますか」
「漢文は読めねえ」
続木さんはこよなく月を愛する男であり、僕は例によって、そんな続木さんにびりびりと痺れていた。
*
「私は、『太刀』がいかしてると思うなあ」
月の名簿の話を聞いた僕の彼女は、電話口でふふふと笑いながら言った。
「だって、満月の前日でしょ? 全然とんがってないのに『太刀』なんて」
僕が続木さんの真似をして「剣はいつでも、己の心の中にあんだよ」と答えると、彼女のふふふという笑い声の後に、ココアか何かをすする音が聞こえた。
日曜の夜、僕は彼女に電話をかける。話す内容は、主に今週の続木さんについてと、彼女の近況について。土日の続木さんは、一体どこで何をしているのやら、いつ尋ねても家にいることはなかった。おまけに続木さんは、大学四年生にしてケータイを持ったことがないという、このご時世にとても珍しい人だった(続木さんにとっては、ケータイも「しゃらくせえ」ものなのだろう)。
そんなわけで僕は、週末の空白を彼女の声で埋めることにしている。
「私もそっちの大学が良かったなあ。こっちはそんな変な先輩も、香川くんもいないし」
その変な先輩の話のせいで、彼女も僕のことを香川と呼ぶようになってしまった。大学でろくに友達がいない僕にとって、もはや本当の名前を呼ばれる機会の方が少ない。もう香川として生きていく方が、人生に不都合が少ないような気さえしていた。
「そういえば、夏休みにこっちに遊びに来たいって話、してたよね?」
僕は二週間ほど前の電話を思い返しながら、彼女に尋ねた。彼女は、中四国からだと飛行機に乗らなければいけないくらい遠くて、僕の大学よりずっと偏差値の高い大学に通っている。
「うん。どうせ香川に帰省するから、そのついでに」
「八月に続木さんと、続木さんの元カノの人と海に行くんだけど」
ごとん、と電話口から、何かを落としたような音がした。
「あの続木さんに、元カノさん?」
僕もその話を聞いた時は、本当にひっくり返って畳にしりもちをついてしまった。月を愛する続木さんは絵画のように美しかったが、続木さんが恋をする様なんて僕からすれば、映像化不可能と言われた小説のようなものだった。
「どんな人かは聞いてないけど、偶然再会したときに続木さんが僕の話をしたら、会ってみたいって」
「へえ、それで海に」
夜の七時どころか真っ昼間に、海というアウトドア全開の場所にいる続木さんも、僕にはUMAか妖怪の類のように思えた。
せっかくだから一緒にいかないか尋ねてみると、彼女は電話口からパラパラとページをめくる音をさせながら、「うーん、八月は無理そう」と言った。
「バイト?」
「うん。シフトがね、まとまった休みを取れるのが九月からだから」
シフト、という単語を使う彼女が、僕には少し大人に感じられた。僕もバイトをしないとな、とふと思う。
「でも、九月には続木さんにご挨拶に行かなきゃね。私の香川がお世話になっております、って」
そんな彼女を、続木さんは何と呼ぶのだろう。彼女でさえも「香川」と呼んでしまうのか、それとも普通に名前で呼ぶのか。そのどちらかは定かでないが、少なくとも二言目には「まあ座れよ、のむか?」と言うことは間違いなさそうだった。
そういえば、彼女もまだ十九のはずだが、もうお酒は経験したのだろうか。現役で大学に合格した彼女は、今年でもう二年生なのだ。それについて尋ねてみると、彼女は意味深な笑いを漏らして「黙秘します」と答えた。
十二時になると電話口から、ぽっぽー、という音が届いた。彼女の部屋には大きな鳩時計がかかっていて、その鳴き声が僕たちの電話の終わりを告げる合図になっていた。
「おやすみ」
「良い夢を」
僕たちはいつもの決まり文句で電話を切った。静けさが訪れた部屋に、壁の向こうからバラエティ番組らしき笑い声が流れ込んでくる。僕はスマホについた汗を指で拭って、ベッドに放り投げた。スマホは放物線を描き、ぽすりと枕に着地する。
椅子をぐーるぐーると回しながら僕は、自分に何のバイトが向いているかを考えた。
*
初めての大学のテストを何とか乗り越えて迎えた、八月一日。「冷凍の讃岐うどん」を肯定する続木さんとの昨夜の大喧嘩の遺恨を残したまま、僕は水着とタオルをバッグに詰めて湖石寮に向かった。
「里麦沙穂です。よろしく」
続木さんの元彼女であるという里麦さんはあまりにも、筆舌に尽くしがたいくらいの美人だった。
思わず見惚れてしまっていた僕は、差し出されていたきれいな右手に気付くのにも、しばらく時間がかかってしまった。慌てて右手を差し出すと、里麦さんが握った手を軽く上下に振った。僕の脳裏に、続木さんと初めて交わした握手が思い出される。里麦さんの後ろで、続木さんは興味がなさそうに二、三度大きなあくびをすると、歩いてどこかに消えてしまった。
「香川くん、だよね。続木くんから噂はかねがね」
里麦さんが悪戯っぽく笑う。またか、と僕は思った。帰ったら一度、改名の条件や手続きについて調べてみることにしよう。
しかし、それにしても里麦さんはきれいな人だった。つばの広い帽子から、肩を伝って長い黒髪がさらさらと流れている。その話し方や表情には、先輩と言うより「大人」の風格があった。里麦さんから受ける落ち着いた印象は、あまりにも続木さんとかけ離れたものだった。
「里麦さん、本当に続木さんと付き合ってたんですか?」
そう僕が尋ねると、里麦さんはうん、と頷いてから、僕の目をのぞき込むようにして言った。
「そう言うあなただって、続木くんに一目惚れされたじゃない。私の知る限り、続木くんが積極的に他人と関わりを持つことって、滅多にないのよ」
僕は数か月前の、新入生歓迎会の日のことを思い出す。どちらかと言えば、「一目惚れ」したのは僕のような気がしていたが、確かに僕を部屋に連れて行ったのは続木さんの方だ。続木さんが僕のことをどう思っているかなんて、考えたこともなかった。
「『香川』が僕しかいなかっただけですよ」
僕がそう答えると、里麦さんは今度は首を横に振って言った。
「『ボケっと突っ立ってて暇そうだったから』って本人は言ってたけど、私は違うと思うな。香川くんの中に、何かしら共鳴するものを続木くんは感じたんじゃないかしら。それが何なのかは今のところ私にも、たぶん続木くんにも分からないんだろうけど」
だから私、香川くんに興味があるの。そう言った里麦さんのあまりに真っすぐな視線に、僕は少したじろいだ。
それから五分ほど経った頃、湖石寮の傍らのやたらに細い道から、白くて薄汚れた車がのろのろ出て来たかと思うと、僕たちの前で停車した。運転席には、シートベルトをした続木さんが座っていた。
続木さん、車持ってたのか。驚く僕の隣で、里麦さんが「懐かしい」と言ってほほ笑んだ。
「里麦さんは、別の大学の四年生なんですか?」
助手席に座っている里麦さんに向かって、僕は尋ねた。
この車は今、大学のある町から瀬戸内海の小さな橋を渡って、二つ目の島にあるビーチを目指しはしっていた。全開にしている車の窓から海の香りを含んだ風が、ぼぼぼぼ、とせわしなく吹き込む。里麦さんは髪を手で押さえながら、後部座席の僕を振り返って「私、香川くんと同じ大学の卒業生よ」と答えた。
「今は社会人二年目だけど」
里麦さんの言葉に、僕の頭の中で少しひっかかるものがあった。
「里麦さんって、続木さんと同い年ですよね?」
「そうよ。続木くんとは学年も同期」
僕は唖然としながら、今度はバックミラー越しに続木さんの顔を見た。
「ということは、もしかして続木さん、二年も留年してるんですか」
僕の問いかけに対し、続木さんは事も無げに「当り前だろ」と答えた。そして、煙草に火をつける動作と同じくらい流麗にシフトレバーとクラッチペダルを操り、車のギアを一足上げた。
続木さんが、留年している。それは今初めて知った事実だったが、言われてみると、続木さんの留年はあまりにも「当り前」な事実として、僕の中に浸透していった。気付かなかった空白に、パズルのピースがぴったりはまったような感じがした。
すると里麦さんが、前を向いたまま、諭すように言った。
「香川くんは、留年なんてしちゃ駄目だよ。続木くんにあんまり入れ込むと、私みたいになるからね」
あんまり入れ込むと、私みたいになる?
僕はバックミラーを見たが、里麦さんはちょうどその死角に入っていて、その表情をとらえることはできなかった。しかしミラーの中で、続木さんがちらりと里麦さんの方を見たのが分かった。それも一瞬のことで、続木さんはまた前方へ視線を戻した。
それから少しの間、車内は沈黙に包まれた。僕は沈黙の中で今の里麦さんの言葉の意味について考えていたが、その真意を窺い知ることはできなさそうだった。
僕は里麦さんの言葉について考えるのを諦め、続木さんの運転に見入ることにした。父親のマニュアル車の運転を見たことはあったが、こんなにも美しさを感じさせるほどのものではなかった。面倒くさそうな表情で古いマニュアル車を運転する続木さんは、後ろから見ると、隣の里麦さんの美しさと等しく釣り合っているように感じられた。
車中に微かに流れている間の抜けたヒップホップと共に、「車の免許を取らねば」という決心が、僕の心に植え付けられていった。
湖石寮を出発してから一時間ほどで、目的地のビーチに到着した。島のビーチはいかにも瀬戸内海の浜辺といった風情で、ちょっと泳げば着きそうな距離に島々が連なり、水平線を覆い隠していた。全体的に家族連れが多く、そういえば僕が海に来るのは中一の時に家族で行った以来だな、ということに気付く。久しぶりの海に、自分が若干浮足立っているのが分かった。
僕は続木さんと一緒に更衣室へ向かおうとしたが、続木さんは車のボンネットに腰かけたまま、一向に動く気配を見せない。
「泳げないのよ、続木くん」
里麦さんが僕にそっと耳打ちした。
「彼、海が大嫌いなの。泳げないし、暑いし、馬鹿そうな人もいっぱいいるし」
続木さんのうんざりした表情からするに、どうやら里麦さんの言葉は間違いないようだった。それならなぜ、続木さんは僕を海なんかに誘ったりしたのだろうか。
「それは、私が無理やり誘ったのよ。フラれた腹いせに、二年越しの復讐」
里麦さんは少年のように笑うと、スキップで更衣室に向かって行った。それを見て僕は、さすが、あの続木さんと付き合うだけはあるな、と納得した。続木さんの「破格さ」とは異なるが、里麦さんの中には、続木さんと対等に付き合えるだけの力強さがあるようで、僕にはそんな二人がとてもお似合いに思えた。
それでいて里麦さんと続木さんが別れたという事実は、僕にはとても不思議なことのように感じられた。続木さんが里麦さんに別れを告げる状況は、僕の中ではどうにも思い描けないものだった。
続木くんにあんまり入れ込むと、私みたいになるからね。
里麦さんの言葉が、僕の頭の片隅に響いていた。
空気入れ代表です、と言わんばかりにベタな黄色と青の空気入れを使って、僕は浮き輪を膨らませていた。浮き輪もまた青と白の波柄というよく見るもので、その大きめのサイズが二つもあるせいで、僕はすでに結構な量の汗をかいていた。
里麦さんはビキニに着替えていて、レンタルしたパラソルの下にブルーシートを広げている。続木さんだけが、いつも通りしわだらけの半袖と短パン姿で、何をするでもなくぼうっと海を眺めていた。
僕と目が合った里麦さんは、大きなため息を吐いた後、呆れたような表情で続木さんに向かって言った。
「ほら続木くん。突っ立ってないで、お昼ご飯でも買ってきてよね。私、焼きそばでいいから」
香川くんは、と里麦さんに促され、僕も焼きそばをリクエストする。続木さんは無言のまま、ふらふらと海の家に向かって行った。その弱った足取りからは、いつもの無謀な力強さは微塵も感じられない。それを見て里麦さんが、またため息を吐いて言った。
「続木くん、どうせ今もインドアのバンパイアみたいな生活してるんでしょ。たまには外に連れ出して、天日干ししないと駄目よ」
「日の光で灰にならないといいですけど」
そう僕が返すと、里麦さんはブルーシートの四隅に石を置きながら、そしたら海に散骨しましょ、と意地悪なことを言った。僕は思わず笑ってしまう。しかしそんな悪態一つにも、続木さんに対する里麦さんの親しみが込められているように僕は感じていた。
僕は行きの車中の、二人の先輩の背中を思い出す。前の席で静かに座っていた二人の間には、空気だけで易々と会話ができてしまうような、そんな雰囲気があった。僕と彼女の間にも「共有の空気」といえるものはあったが、続木さんと里麦さんのそれは遥かに深く、より無意識に洗練されていた。
「里麦さんは、続木さんとどれくらい付き合ってたんですか?」
僕の問いかけに、里麦さんはいったん石を置いて右手の指を折ったり開いたりした。
「高校二年からだから、かれこれ六年くらいかしら。私が大学を卒業した年に別れるまでね」
六年。空気入れを踏んでいた僕の足が思わず止まった。それは僕と彼女との時間の三倍であり、現時点までの僕の人生の、三分の一にもあたる年月だった。中学二年生の頃の僕は、大学生になった自分なんて想像しようとも思わなかったし、今から六年後の自分の姿なんて、僕には想像もつかない。
「結構長く付き合ったけど、続木くんはずっと変わらないままね。私が告白した高校二年の続木くんも、フラれて二年ぶりに会った続木くんも。だから続木くんは、八年間続木くんのまま」
私はずいぶん変わっちゃったかな、と里麦さんが俯いて呟く。僕の位置からは影になって、また里麦さんの表情は見えなかった。
「里麦さんは今も、続木さんのことが好きですか?」
気付けば僕の口から、そんな質問が勝手に飛び出していた。
それを聞いた里麦さんは、ブルーシートに腰を下ろして頬杖をつくとそのまま、うーん、と考え込んで動かなくなってしまった。しまった、不躾だっただろうか、と僕は後悔する。けれど里麦さんは怒った様子ではなさそうで、謝るにしてもそのタイミングを見失ってしまい、僕と里麦さんの間に、ふしゅ、ふしゅという間の抜けた空気入れの音だけがたまっていった。
僕が左右の足を二十回近く入れ替えながら、なんとか二つの浮き輪を空気でいっぱいにし終えた頃、続木さんが左手にビニール袋、右手に缶ビールを持って帰って来た。缶ビールのプルタブは、すでに開けられた後だった。
「ちょっと続木さん、運転どうするんですか」
うるせえ、と怒鳴り返されるかと思いきや、続木さんはただ困った顔をして、ビールを一口すするだけだった。僕はだんだん、続木さんが可哀そうに思えてきた。
「もう、気にしないで食べましょ」
里麦さんは続木さんからビニール袋をひったくると、透明のパックに入った焼きそばを僕に手渡した。焦げたソースの匂いが、鼻をくすぐる。
僕は焼きそばを食べながら「冷凍の讃岐うどん」の件について里麦さんに話した。
「それ、私も一枚噛んでるわね」
里麦さんが自分のイカを次々と僕の焼きそばに移しながら言った。
「里麦家には、冷凍の讃岐うどんを美味しくする秘伝の調理法があるの。ゆで時間を工夫して、あるものをダシに入れて、最後に『おいしい本場の讃岐うどんです』って相手に催眠術をかける。大学時代はよく作ったわ」
催眠術だったのか、と続木さんがぼそりと呟く。
「でも、本当においしいのよ。今度、香川くんの舌で判定してもらいましょう」
僕は口いっぱいにイカを噛み締めながら、望むところです、と言う。
そして今は、里麦さんのうどんの代わりに、僕がたこ焼きを焼いている話をした。続木さんがたこを嫌って、他の具ばかりを探り分けて食べる話。結局、ソーセージと一口チーズが最強だという話。里麦さんは笑いながら、時折発掘されたイカを僕の焼きそばにのせた。
たこ焼きの話も終わる頃には、僕と里麦さんの焼きそばのパックは空になり、続木さんは二本目のビールのプルタブに指をかけていた。
里麦さんは立ち上がると、浮き輪と僕の手を引っ掴んだ。
「さて、腹ごなしの運動にでも行きましょ。海が私たちを呼んでるわ」
続木くん以外をね、と言葉を付け足して、里麦さんは海に向かって走り出した。僕は砂に足を取られながら、その後を追いかける。十秒足らずで足が波飛沫を立てると同時に、僕と里麦さんはそのまま海に倒れ込んだ。浅瀬は猛暑によってぬるま湯と化していたが、深く、足がつかなくなるほど沖に向かうにつれ、海水は本来の心地良い冷たさを取り戻していった。
僕は小中とクラスでも泳ぎが早い方だったが、里麦さんの泳ぎはさらにスマートで無駄がなく、自由自在だった。追いかければ離され、頭が水面から消えたかと思えば、海の底から僕の足を引っ張ったりした。
「今は全身真っ白になっちゃったけど、実家が海のすぐ近くでね。昔はよく泳いでたのよ」
なるほど、と僕は納得した。里麦さんの泳ぎは、水泳を習っていたというより、自然の中で育まれた類の力強さが感じられた。ひ弱な続木さんとは正反対だ。
僕と里麦さんはひとしきり泳ぎ疲れると、くの字になって浮き輪に腰かけ、ただ波に揺られた。遥か遠くの海岸で豆粒みたいな続木さんが、ときおりブルーシートと海の家の間を往復するのが見えた。
「香川くんは、恋人はいるの?」
里麦さんが、快晴の空に言葉を放り投げるように言った。放物線を描いて落ちてきた言葉を、僕はキャッチする。そして彼女の通っている大学や、週末にする電話のことを話すと、里麦さんは「遠距離恋愛かあ」と感慨深そうに言った。
「私は、続木くんについて来ちゃったからなあ。いくつか他の大学も受かったけど、全部蹴っちゃって。親は反対したし、続木くんにも散々『ついてくるな』って言われたんだけどね」
とか、とか、と里麦さんが列挙したそうそうたる大学の名前に、僕はおののいた。それらは僕の彼女の大学と比べてもさらに偏差値が高い所ばかりで、親が反対するのも当然に思えた。僕だって、里麦さんの行動は率直にもったいないと思ってしまう。
「でもやっぱり、それだけ好きだったのよね、続木くんのこと。高二の時からずっと、好きで好きでたまらなかったの。けど四年になって私の就職先が決まったら、『俺じゃお前についていけない』ってフラれちゃった」
ついて行けない。その言葉は、里麦さんが続木さんを追い越してしまった、ということを表しているのだろうか、と僕は思った。大学に入ってからずっと、僕の前には常に続木さんの背中があった。それを夢中で追いかけている僕にとって、続木さんの前、というのはとても想像がつかないものだった。
あんまり入れ込むと、私みたいになるからね。再び僕の中に、里麦さんの言葉がよみがえる。この言葉が何を意味しているのか、僕にはまだ理解できなかった。しかし里麦さんに聞いたところで、それを教えてくれることはないだろう。短い時間だが、里麦さんという人と接する中でそれだけのことは分かった。里麦さんは先輩として、何かヒントをくれたのだ。その答えは、僕自身で考えなければならないものだ。
その代わりに僕は、もう一度だけ里麦さんに同じ質問を投げかけることにした。今度は、自分自身の意志で。
「里麦さんは今も、続木さんのことが好きですか?」
里麦さんはまたしばらく、うーん、と考えた後、うん、と頷いてこう答えた。
「今でも私は、続木くんのことが好きよ。どうしようもなく。けれどそれがどうしようもないということも、私には分かってるの」
太陽が水平線に接するまではまだ時間に余裕があったが、僕と里麦さんは早めに切り上げることにした。二人で海岸に戻ると、続木さんはブルーシートから少し外れた砂の上で、大量の缶ビールの残骸に囲まれ大の字になって寝ていた。
僕と里麦さんは人差し指を口に当ててから、慎重に続木さんに砂をかけていった。十五分もすれば続木さんの全身は砂に埋もれ、仕上げに缶を頭の周りに沿って突き刺すと、まるでバッハの肖像画のような髪型になった。僕と里麦さんが笑い転げていると、続木さんが砂の中から体を起こして一言、「パンツの中まで砂まみれだ」と呟いた。僕と里麦さんは足をバタバタさせながら、お腹を抱えてのたうち回った。
着替えを終えて車に戻ると、運転席に里麦さんが座っていた。
「一応、マニュアルの免許は持ってるのよ。免許はね」
ガチャガチャとシフトレバーの動きを確認する里麦さんを尻目に、助手席の続木さんが満足そうな表情で煙草の煙を外に吐き出した。
「たまには助手席もいいもんだ。それに、海でのむビールも悪くない」
後部座席に乗り込むと、僕の隣にはビールの缶が詰まったビニール袋が、口をきつく縛って置かれていた。
僕と里麦さんと続木さんは、三人ともとてもよく日焼けしていた。一言でいえば、とてもいい海水浴だったと思う。
しかし残念ながら、里麦さんの運転はお世辞にも上手いとはいえないものだった。
*
海から帰った僕は、夏休み中に三つのことをはじめた。
まずはじめに、僕は自動車学校に通うことにした。続木さんの後輩たる僕は、当然マニュアル免許を取らなければならない。夏休みの自動車学校は大学生で溢れかえっていて、その六割以上がオートマの講習生だった。踏めば進むなんてしゃらくせえ、と彼らを無意味に敵視しながら、僕はクラッチペダルと悪戦苦闘し続けた。
僕は運転のコツを教えて貰おうと、何度か続木さんの車に同乗させてもらった。しかしそこで僕が理解できたことは、続木さんの運転技術はあまりに熟練していること、そして続木さんは人に何か教えるのが極めて下手だという事実だけだった。僕は補修を重ねながらも、なんとか夏休みの丸々二か月をかけて免許を取ることができた。
地元で免許を取り、大学のある町に帰って来た日の夜、僕は続木さんの車に初心者マークを張り付けて隣町までドライブした。続木さんは珍しく煙草を切らしていて、助手席で退屈そうにしながら「里麦よりは上手いな」と言った。
僕は指示器を出してしっかりと左折の後方確認をしながら、里麦さんが普段何をしているのか考えていた。社会人である里麦さんは、平日は仕事をしているはずだ。じゃあ、何の仕事をしているのだろう。事務職? 図書館の司書とか? しかしどうにもしっくりこなくて、僕は続木さんに、里麦さんがどんな仕事についているのか尋ねてみた。
「さあ、何だろうな。豆電球の訪問販売とかじゃねえか」
続木さんはかなり投げやりに答えると、あいつは豆電を消して寝るけどな、と付け足して一人で笑った。その様子からすると、どうやら続木さんは、里麦さんの仕事については何も知らないようだった。しかし僕は続木さんの予想が、接客業という点では里麦さんに当てはまるような気がした。僕は試しに、豆電球についてお客さんに丁寧に説明する里麦さんを想像してみた。
こちらの豆電球は最新のLEDを使用しており、従来よりもはるかに寿命が長くなっております。今なら、三個セットで買うとお得ですよ。僕の想像の中で、お客さんは上機嫌で豆電球を三つ買う。お買い上げありがとうございました、と頭を下げる里麦さん。里麦さんは帰宅し、豆電球を消してベッドに入る。うん、悪くない。
隣の右車線では、スーツを着た仕事帰りらしいおじさんが並走していた。社会人はすごいな、ということを何となく心の中で思いながら、前方の信号が赤に変わったのを見て、僕は慎重にギアを一つ下げた。
次に僕がはじめたのは、人生初のアルバイトだった。そこは近所のリサイクルショップで、僕は中古品が並ぶ棚に何かしらの発見を探すのが好きだったし、店長は「森の熊さん」といった感じのとても優しい人だった。僕は一か月足らずで一通り仕事を覚えてしまうと、九月には鼻歌を歌いながら、買取品に値段をつける作業をこなせるようになっていた。自動車学校とは大違いだ。好きこそものの上手なれだな、と僕は実感する。
来たる彼女とのデートに備えて、僕は目いっぱいバイトのシフトを入れていた。そして中々の初給料をもらい、少し大人の気分になっていた日の夜、電話で彼女から「夏休み中にそっちに行くのは無理そう」と告げられた。
「家の事情で、急にバイトに出られなくなった後輩がいたの。だけど店長の言い草があんまりだったから、頭に来て、代行のシフト表を机に叩きつけちゃった」
僕の頭に、その光景がありありと浮かぶ。彼女はひとしきり憤慨した後、申し訳なさそうに僕に謝った。
「本当にごめんなさい。バイトも頑張ってくれて、せっかく準備してもらってたのに」
「気にしなくていいよ。それは仕方がない」
と僕は答えた。それは僕の本心であり、落胆する気持ちも実はそれほどなかった。彼女のそういった男気溢れるエピソードを、僕は両手の指で足りないくらいの数は知っていし、そんな彼女をとても誇らしく思っているからだ。
それに、僕は半年近く彼女と会っていなかったが、その間に何かしらの不安や不満を感じたことはなかった。もちろん身の回りの物を揃えたり、大学生活に慣れたりするのに忙しかったし、スタート直後から続木さんという圧倒的な存在に着いて行くのに必死だったということもあるだろう。会いたいという気持ちもないわけではない。
でも結局のところ、僕は彼女を信頼していたし、毎週末の彼女との電話で、僕の心は充分に満たされていた。何か楽しいことがあれば、彼女に話そうと心の中に一週間留めておいたし、電話をしている間は彼女の存在をすぐ隣に感じていた。付き合いたての頃の、一分一秒でも長く彼女と一緒にいたかった自分と比べ、今の僕は変わってしまったのだろうか。
それが果たして良いことなのか、それとも悪いことなのか、僕には分からない。しかし少なくとも、彼女は今も昔も変わらず、たくさんの人の頼りになれる人間だった。
「本当は、ものすごく会いたいんだから」
そんなヒーローのあまりに可愛い一言に、僕は思わず笑ってしまった。
鳩時計が鳴いて、僕たちは電話を切った。その後で僕は、他にどんなことができるだろう、と考えていた。バイトを始めて、僕は少し大人になれたかもしれない。でも彼女は、僕よりずっと先にいるような気がしていた。彼女に追いつくために、彼女のために、僕にできることは他にないだろうか。
十五分ほど悩んだ末に、僕は腹筋と腕立て伏せをすることにした。
体育の授業でやったように、腹筋を二十回。次に腕立て伏せを二十回して、また腹筋をはじめる。夜の十二時を過ぎているため、僕は息を殺して、静かに運動を続けた。
三セット目をやり終えると、風呂上りの僕の体はずいぶん汗をかいていた。寝巻のジャージを脱いで二度目のシャワーを浴びながら、僕は海水浴場にいた他の男たちの体つきを思い出してみる。やはり僕の体は、彼らと比べるといささか貧相だと言わざるを得なかった。
彼女を守れる男になろう。短絡的にも思えたが、とりあえず僕は筋トレを毎日することに決めた。
一日バイトで疲れて帰った日でも、僕は風呂の前に必ず腹筋と背筋を三セットやった。段々と回数ができるようになってきて、夏休みが終わる頃には腕立て三十回、腹筋は五十回ずつできるようになっていた。少し彫が出てきた体を鏡で眺めながら、筋力でなら続木さんに勝てるかもしれない、と僕は思った。次に部屋を訪ねた時に腕相撲をしてみようかと考えたが、続木さんが面倒臭がって取り合ってくれないであろうことも、僕は容易に想像がついた。
*
「来週の日曜、そっちに行こうと思う」
彼女が電話でそう告げたのは、十月末の日曜日ことだった。
夏はとっくに過ぎ去り、季節は秋になっていた。散歩コースがある近所の小高い山が、ちょうど紅葉できれいになってきた頃だったので、僕は彼女を紅葉狩りに誘った。山頂に直行できる短いロープウェイもあったが、山頂までの道中にある広場にたくさんの猫がいて、そのため山は地元の人から「小猫山」と呼ばれていた。そのことを伝えると、猫好きの彼女ははずむような声で喜んだ。僕は手帳の端に「小猫山、上りは歩き」とメモした。
「会うのは半年ぶりになるね」
彼女にそう言われ、僕は頭の中で簡単に計算した。
「僕が大学に合格して、地元でお祝いをしてからだから、七か月かな」
僕はそう言ってから、そういえば続木さんと出会ってから七か月が経ったことになるな、とふと思った。そして次の瞬間、続木さんの金髪が、今では完全な黒髪と化していることに急に気が付いた。
もちろんその間にはプリンみたいな髪の色の過程が挟まれてはいたが、それを毎日見ていた僕に、変化の実感が湧くことは今まで一度もなかった。僕の中で続木さんの髪の色が瞬間的に変わり、月日の急速な流れが実感として刻み付けられた。玉手箱みたいだ、と僕は思った。
僕は一度深呼吸をして落ち着いてから、
「でもさすがに、一年も会わないのは我慢できないかな」
と言った。
「私は、半年でも結構寂しかったけどね」
彼女がそう言うと、ざざざざ、と息が電話口に吹きかかる音がした。
十二時まではまだ少し時間がある。僕は彼女に、この季節の続木さんの部屋がどれだけ寒いかを話すことにした。続木さんがずいぶん前にリモコンをひどく踏んづけてから、エアコンが使えなくなっていること。例年の続木さんは、アルコールの度数を上げて寒さを乗り切っていたらしいこと。僕が三日前に、バイト先で法外とも思えるような安さでヒーターを買って、続木さんの部屋に設置したこと。彼女はそれを楽しそうに、興味深そうに聞いてくれた。
スピーカーの向こうで、鳩時計が鳴く。話のきりも良かったので、僕は「おやすみ」を告げた。続きは来週のデートで話すことにしよう。いつも通り「良い夢を」が返って来るかと思いきや、彼女は珍しく「待って」と僕の言葉を遮った。
ん? 僕は少し驚き、彼女の次の言葉を待った。それからちょっとした沈黙の後、彼女は「大事な話があるの」と言った。
「大事な、話」
僕はゆっくりと復唱する。すると彼女はもう一度「大事な話」と繰り返した。これは相当に大事な話だ、と僕は身構えて、スマホを耳に当て直した。しかし彼女は、
「でも、今じゃないの。来週会ったときに、話があるの」
と、まるで自分に言い聞かせるように、ゆっくりと言葉を噛み締めて言った。
彼女の「大事な話」は、電話でするような話ではない。そう理解した僕は一言、「わかった」とだけ答えた。
彼女は何か大きな決意をした時、自ら逃げ道を塞ごうとする人だった。そんな時、僕に残されているのはただ「わかった」という言葉だけだ。僕はこれまでも何度か、同じ言葉を口にしてきた。
彼女はまた少し沈黙して、「良い夢を」と静かに電話を切った。
押し寄せる静寂。壁の向こうから流れてくる、バラエティ番組の笑い声。いつもより五分だけ伸びた電話の後の部屋は、いつもと何一つ変わることはなかった。
僕は暗くなったケータイの画面を眺めながらもう一度、七か月、という歳月について考えてみた。それは、人の髪の色をすっかり変えてしまう年月であり、同時に誰かと関係を深めるには充分な時間だった。僕にとっても、もちろん、彼女にとっても。
次に僕は、彼女の大学生活と、その人間関係について想像してみた。クラスやサークル、バイト先で出会ったであろう彼女のたくさんの友達や先輩に、誰一人として僕が知る人間はいないはずだった。いや、僕と違って彼女は二年生なのだ。去年の間も彼女はその友達や先輩たちと親交を深め、そして今では後輩もいるのだ。
今僕が考えているようなことは、もしかすると、くだらない早とちりに過ぎないかもしれない。でも、僕が大学生になって、続木さんと出会って、七ヶ月経った。少なくとも今の僕には、彼女の「大事な話」に向かってこれからの一週間、何かできることがあるはずだった。でもそれが何なのか、僕にははっきりとは分からない。僕の中をいくつもの考えが駆け巡り、浮かんでは消えた。
僕は無意識の内に自転車と家の鍵を掴むと、湖石寮に向かってペダルを漕ぎだしていた。
土日に家を訪ねて続木さんがいた例は、今まで一度もない。でもこんな時、続木さんなら、部屋にいてくれているような気がした。こんな僕にできることはただ、続木さんの家に向かうことだけだった。僕は心の中で続木さん、と何度も呼びながら、ペダルを踏みしめて湖石寮までの坂をかけ上った。
最後のカーブを曲がったところで、僕は湖石寮から出て来る続木さんの姿をとらえた。当然辺りは真っ暗で距離もあったが、高めの背格好とやや猫背の歩き方から、僕にはその人影が続木さんのものだと分かった。
続木さんはパンパンになったゴミ袋を両手に下げて、寮に備え付けのゴミ収集用ボックスに向かっていた。僕は自分でも気が付かない内に、自転車のライトを消して、カーブの影に身を隠していた。続木さんが持つゴミ袋が、がらんがらん、と音を立てている。見てはいけないものを見ているという直観が、僕の中にはあった。
続木さんがゴミ袋をボックスに放り込むと、がしゃあん、と派手な音がした。それから、がしゃあん、ともう一つ。続木さんは二つのゴミ袋を捨て終えると、特大のくしゃみを一つして、足早に部屋に引き返して行った。ばたん、と音を立ててドアが閉まる。
それからしばらくの間、続木さんのくしゃみの余韻が夜闇に漂っているのを感じながら、僕はその場で息を殺し続けた。続木さんの部屋の電気が、一度消えて、また点く。それを合図にすることで、僕はようやく動き出すことができた。自転車をゆっくりと押して、いつもの場所に停める。鍵を抜いて、左のポケットに入れる。
部屋に入ると、続木さんは服が焦げるんじゃないかというくらいヒーターに接近して、紙コップに焼酎とお湯を注ぎ込んでいた。これも僕がバイト先で買った電気ポットが、続木さんの隣で細い湯気を立ち上らせていた。
「おっ、珍しいじゃねえか」
振り返った続木さんの髪の色は、やっぱり真っ黒だった。僕は新入生歓迎会の時の、目を引くような続木さんの金髪を思い出す。色は変わっても、当然といえば当然のことだが、続木さんは相変わらずの天然パーマだった。全くいじられた様子のない、うねり狂った髪の毛先に、僕は不思議な安心感を覚えた。
髪をじっと見ていた僕を、続木さんは不審そうに眺め返していたが、やがて呆れたように立ち上がると、棚から紙コップをもう一つと、僕が最近飲んでいるココアパウダーを取り出した。僕は靴を脱ぎながら、
「珍しいのはそっちこそですよ。続木さん、土日も部屋にいるんですね」
と言って部屋に上がった。当り前だろ、と笑う続木さんに気付かれないよう、ちらりと部屋のビール缶が整列しているコーナーに目をやる。缶の量が半分ほども減っているのが、僕には分かった。
何も言ってはいけない、と僕は直感的に悟った。続木さんが何を考えているのか、僕には分からなかったし、続木さんがそれについて僕に言うことはないだろう。しかし僕の心は、彼女の決心を前にする時と同じ感覚を、確かに感じ取っていた。続木さんは何かしらの決心をして、缶を捨てることで、自分をそこに追い込んでいるようだった。僕は口を結んで、気付かれないように、ごくりと唾を飲み込んだ。
それから僕は続木さんに、彼女が会いに来ることを話した。彼女には「大事な話」があること。七か月、という時間のこと。続木さんは黙って紙コップを口に傾けながら、ときおり焼酎やお湯を継ぎ足しつつ、黙って話を聞いてくれた。
「続木さんは、どう思いますか」
言ってから、これは愚問だ、と気付く。俯いて視線を下げると、いつの間にか僕の前に、ココアで満たされた紙コップが置かれていた。どうやら今の僕は、自分が思っている以上に、何も分からなくなっているらしかった。
続木さんは何も言わないまま、自分の紙コップの中身をぐぐっと飲み干した。そして空になった紙コップを片手でくしゃくしゃに握りつぶすと、「行くぞ」と言って立ち上がった。続木さんがお酒を持たないで部屋を出るのは、初めてのことだった。僕はココアに一口だけ口を付けて、その後を追う。ココアはすっかり冷めていて、いつもよりやたらに甘ったるい味がした。
続木さんは一度も振り返らないまま、大学とは反対の方向へと、ずんずん歩いて行った。徐々に街灯の数は減ってゆき、続木さんの黒のジャンパーと髪が、今にも闇に溶け出してしまいそうだった。それでいて、続木さんの体からは強い意志のようなものがゆらりと立ち上っており、それが輪郭となって続木さんを形作っているようだった。僕は続木さんを見失わないよう、しっかりとその背中を追う。
続木さんが向かったのは、大学からずいぶん離れた所にある、人気のない小さな公園だった。辺りに民家や寮はなく、辿れば森へと続くような一本道の傍の、錆びた滑り台と砂場しかない公園。一本だけ立っている電灯が頼りなく照らす砂場の上に、続木さんは立った。
「いいか、一つだけ教えてやる」
歩み寄った僕の右手首が掴まれた次の瞬間、僕の体は宙を舞っていた。砂場に背中をたたきつけられ、肺の中にあった空気が一気に絞り出される。酸素を求めて激しく咳き込む僕を、続木さんは鋭い眼で見降ろしながら言った。
「立て。覚えろ」
何も把握できないまま、よろよろと立ち上がる。続木さんはさっきと同じように僕の手首を掴み、流れるように僕の懐に潜り込むと、背中で担いだ僕の体を思い切り砂場に叩きつけた。
今度は着地の瞬間に息を止めてこらえたため、さっきほど咳き込むことはなかった。けれど起き上がろうにも手足に上手く力が入らず、僕は身動きできないまま砂場で仰向けになっていた。すると続木さんが、小さくて光るものを僕に放った。キャッチして見ると、それは僕のポケットから落ちたらしい自転車の鍵だった。
僕は鍵を左のポケットの奥へ入れながら、背負い投げですか、とぼんやりとした頭で呟く。続木さんは僕の横にどっかり腰を下ろすと、「一本背負いだよ」と訂正した。その二つにどんな違いがあるのか、僕には全く分からなかった。
「俺が一つだけできる技だ。お前に教えてやる」
僕は目を閉じた。そして、胸がいっぱいになるまで空気を吸い込んで、時間をかけてゆっくりと吐き出した。全くこの人は、と僕は思った。
目を開けると、夜空には星だけが輝いていて、月はどこにも見当たらなかった。どうやら今夜は、月は欠席のようだった。
その日から僕は五日間、毎日続木さんの部屋に通った。そして夜の十一時から十二時までの間、公園で続木さんに一本背負いを教わった。続木さんの一本背負いは素人目にも見事で、おまけに教え方も的確だった。しかし、なぜか続木さんは受け身のやり方を教えてくれなかった、というより知らなかったため、僕は受け身を独学で学ぶ羽目になった。
「いいか、力で投げようとするな。相手の重心を前に引き出して、その下に潜り込むんだよ。後は腰を跳ね上げるだけだ」
ほら、と続木さんに投げられ、僕は右手で砂場を叩き何とか受け身を取る。零度をきる気温のために僕は厚着をしていて、それでも寒いくらいだったが、十五分もすれば中のシャツが汗でびっしょりになった。しかし、僕と同じくらいの厚着をした続木さんは最後まで汗一つかかず、淡々と一本背負いのコツを解説していた。謎多き人だ、と僕は今更ながらに思う。
一本背負いを習い始めて五日目、金曜日の夜のことだった。続木さんの脇に右腕を差し込みながら体を半回転させた瞬間、何かが僕の体を水のように流れ落ちる感覚がした。腰を跳ね上げる。軽い。あまりに軽かった。僕はそのまま思い切って、右肩を斜めに振り下ろした。
どおん。腹に響く音を立てて、続木さんは砂場に落ちた。パラパラと降り注ぐ砂の中で激しく咳き込む続木さんを、僕は呆然と眺めていた。しばらくして、続木さんは両手で砂を払いながら体を起こすと、「受け身は大事だな」としみじみと言った。
「やりゃあ、できるじゃねえか」
僕は、自分の顔がにやけるのを我慢できなかった。
「今度は、僕が受け身教えましょうか?」
続木さんはへっと笑って「百年早えよ」と言い、ポケットから煙草を取り出した。これまで何度となく見た、美しく迷いのない動作で煙草に火をつける。
「お前に教えることは、もうねえな」
潮時だ。続木さんはそう呟いて、細く、長い煙を吐き出した。それはまるで、何かを諦めるときの深いため息のように見えた。
「背負い投げと一本背負いの違い、教えてくださいよ」
「そんなもん、俺も知らねえよ」
僕はもう二、三、茶化して何か言おうと思ったが、続木さんの表情を見て、やめた。
「そんな寂しいこと、言わないでくださいよ」
半分笑いながら声に出したが、心の中では、僕は今にも泣き出しそうだった。続木さんは僕の言葉に、何一つ返すことはなかった。
僕は続木さんから、何を教わってきたのだろう。僕は試しに、教わってきたものを数えてみようとした。まずは一本背負い、と人差し指を折ったところで、僕の手は止まる。続木さんから教えてもらった他の物事は、どうやら数で数えるようなものでない気がした。それらはもやっとした総体となって、僕の心の真ん中に浮かんでいるのだった。
この五日間、続木さんの部屋に行くたびに、お酒の缶や瓶は減り続けていた。続木さんの部屋は広いを通り越して、もはや殺風景に近付きつつあった。それについて僕はどうにか沈黙を貫き続け、やはり続木さんも言及することはなかった。
僕はもう言葉では何も言い表せない気がして、黙って続木さんに頭を下げた。続木さんが吐き出した煙の端が、僕の視界の中にゆらりと届いたかと思うと、すぐに薄くなって消えた。
「片っ端から、投げ飛ばしてやれ」
続木さんの言葉が、耳の奥に響く。片っ端から、投げ飛ばしてやれ。それは続木さんからの最終命令だった。僕は続木さんの言葉を胸に刻み込むと、頭を下げたまま拳を握りしめ、はい、と答えた。
顔を上げる。高く、夜空を仰ぎ見ると、左側の半月を一息分だけ膨らませたような「木戸」が、僕と続木さんを見降ろしていた。
*
土曜日の夜。湖石寮に向かうと、やはり続木さんはいなかった。
部屋の電気を点けると、わずかに残っていた酒の殻がきれいさっぱりなくなっていた。日用品はあるようだったし、部屋の隅には洗濯された服がこんもりと丘を作っていたが、「屍の山」のない部屋からは、続木さんの魂のようなものは感じられなかった。
靴を脱いで部屋に上がる。吸い寄せられるように、僕は自然と冷蔵庫の前に立っていた。冷蔵庫を開けると二段目の奥に、缶ビールが一本だけ転がっていた。手に取ってみると、三五〇ミリリットル分のビールの重さが、冷蔵庫の冷たさを僕の手にじっと押し付けた。
僕はビールを持ったまま、電気を消して静かに部屋を出た。
もう、続木さんには会えないだろうな。それは予感や覚悟というよりも、ただあの部屋にあった事実として、ちょうど三五〇ミリリットルの缶ビールと同じくらいの重さで、僕の心の上に乗っかっていた。
*
駅の階段を下りて来る彼女は七か月前より、時々スマホに送られてくる写真で見るよりも、ずっと大人っぽく見えた。髪がずいぶん伸びて、僕がはじめて見る深緑色のコートを着ていた。
「へえ、これが香川くんと続木さんの町かあ。そして、これが香川くん」
彼女はそう言って、僕の腕をペタペタ触った。僕が腕を曲げて力を入れると、彼女は「うわ、ちょっとだけ硬い」と言って、うはは、と笑った。彼女の中身は、どうやらちっとも変わっていないようだった。
彼女のキャリーバックを駅のコインロッカーに入れてから、僕たちはすぐ近くの商店街に向かって歩き出した。時刻は午後一時になっていて、彼女は電車の中で弁当を食べてきたらしいので、僕は彼女を連れてパンケーキが美味しい喫茶店に入ることにした。最近できたお店で、内装と流れている音楽がとても洒落ており、料理はどれもおいしい。何より真っ白な壁紙と、感動するほどきれいなトイレを、僕はとても気に入っていた。彼女はメニューをひとしきり眺めると、僕の予想通り、ストロベリーソースのたっぷりかかったパンケーキを注文した。
「確か、続木さんは今日はいないんだよね」
彼女が、お冷のコップを一口飲んでから尋ねた。いつか話したように、彼女は続木さんに挨拶をしたいようだったが、あいにく今日は日曜だった。
「続木さんが今どこで何をしているのかは、誰にも分らないんだ」
そう言ってから僕は、もしかすると里麦さんなら知っているかもしれない、と思い直した。続木さんは、僕にとっての世界で最も謎を抱えた存在で、里麦さんは、そんな続木さんを世界で最も理解している人だった。そして僕は、その次に続木さんを理解する人間でありたかった。しかし続木さんが土日に何をしているか、僕にはこれといった確信の持てる予想ができなかった。
僕は試しに、土日の続木さんが何をしていると思うか彼女に尋ねてみた。彼女は週末の電話で、僕と同じくらい続木さんのことを知っているはずだった。彼女はしばらくの間コップの水滴を指でなぞりながら考え込んでいたが、何かを辿るように、ゆっくりと口を開いた。
「土日の続木さんはね、たぶん、月たちを引率してるんだと思う」
月たちの引率。彼女の思わぬ言葉に、僕は黙ったままその続きを待った。彼女は目を閉じて、まぶたの裏の景色を言葉にするかのように、言葉を紡いでいった。
「三十人の月は、続木さんがいないと、宇宙で迷子になっちゃうんだよ。上手く地球を回れなくなって、順番も滅茶苦茶になっちゃうの。だから続木さんは、土日に月たちのところに行ってあげて、順番をきちんと整えて、行くべきコースを教えてあげてるんじゃないかな」
僕は目を閉じて、瞼の裏に三十人の月を思い浮かべた。彼らはまだ子供で、あちこちに行っては泣いたり、はしゃいだりしている。そこに続木さんが現れて、名簿を読み上げる。僕の想像の中で、引率の先生となった続木さんはなぜか黒縁の眼鏡をかけていた。子供の前なので、続木さんは当然煙草は吸わない。名前を呼ばれて一列に整列した月たちを、続木さんは「オーライ、オーライ」と引っ張って行った。その情景はとても幻想的で、そしてあまりに真実味を帯びていた。
目を開けると、彼女が満足そうな笑みを浮かべながら、いつの間にか運ばれていたテーブルの上のパンケーキをじっと見つめていた。彼女の両手には、すでにナイフとフォークが握られていた。それがまるで「待て」をされた犬みたいに見えて、僕は笑ってしまった。
僕が注文した、猫のラテアートがほどこされたカプチーノもすでに到着していた。僕がカップを手に取って、ラテアートを崩さないように慎重に一口すすると、彼女も満面の笑みでパンケーキを切りはじめた。パンケーキは写真のイメージよりずいぶん大きなサイズだったが、彼女はこれをペロリとたいらげてしまった。
喫茶店を出ると、彼女は僕に、一刻も早く小猫山に案内するよう要求した。
「そんなにお腹いっぱいで、階段上れる?」
僕がそう尋ねると、彼女は自分の靴紐を結び直しながら「女の子は、デザートと猫は別腹なんです」と言った。
しかしそんな言葉とは裏腹に、急な階段を上る彼女の足取りはずいぶんとのろく、僕は彼女の手を引いたり、背中を押したりと大変だった。広場に着いた頃には、膝に手をついて肩で息をする僕の隣で、「んー、消化完了」と言って彼女が笑顔で体を伸ばしていた。僕は息を整えながら、足腰の筋トレもメニューに加えようと思った。
秋の小猫山は、真っ盛りの紅葉も相まって、観光客らしき人たちで溢れかえっていた。過ごしやすい気温に誘われてか、広場ではたくさんの猫が思い思いの場所で、思い思いのポーズで寝転がっている。そんな猫たちを観光客は写真に撮ったり、撫でたり、撫でようとして逃げられたりするのに忙しそうだった。
彼女はすたすたと歩いて、広場の端っこにあるベンチに座った。そうして目を細めながら、彼女は遠くにいる猫たちに一匹ずつ視線を移していった。昔から彼女は、あまり自分から動物に触ろうとはしない。
電車で寝てて、知らない人にいきなり頭を撫でられたらどう思う?
これが彼女の言い分で、僕は彼女のそういう所を、とても好ましく思っていた。
彼女の隣で手持ち無沙汰になった僕は、赤と橙に彩色された楓の葉っぱを拾って、彼女の頭に乗せていくことにした。一枚、二枚、三枚。彼女の頭は微動だにせず、葉っぱは彼女の黒髪にぺったりと貼り付いた。三分ほどで、彼女の頭はすっかり秋の色に染まった。
にゃあ。突然の鳴き声に視線を下ろすと、彼女の足元で、いつの間にやら一匹の太った三毛猫が僕たちを見上げていた。
僕はこの猫が「ふときち」と地元の猫好きに呼ばれていることを彼女に教えてあげた。ほうほう、と彼女は興味深そうにふときちを眺めまわすと、よっこらしょとふときちを両手で抱え上げた。ふときちはされるがまま彼女の膝の上に乗せられると、あまりかわいらしくないような野太い声で、にゃーあ、と鳴いた。
「ふときちは何て言ってる?」
僕が尋ねると、彼女は楓の葉を何枚か舞い散らせながら、ゆっくりと僕の方を振り返って言った。
「秋の女神様、どうか冬が来ないようにしてください、だって」
彼女は何でも分かるんだな、と僕は感心する。
それから僕と彼女は、ベンチに座って二人でふときちの体を撫でた。ふときちは目を細めて、ごろろ、と喉を鳴らしていた。
頭を撫でて欲しい時に、撫でてくれる人がいたら、それは素敵なことでしょ?
彼女の言葉をまたふと思い出して、僕はふときちを撫でていた自分の右手を、今度は彼女の頭に持っていった。できるだけ優しく彼女の頭を撫でて葉っぱを払っていくと、すぐに元のきれいな黒髪が姿を表し、秋の女神様は、僕の彼女に戻った。
ふときちの喉をくすぐりながら、彼女は、大事な話があるの、と言った。
「うん」
僕はうなずく。どんなことがあってもうろたえない覚悟が、今の僕の中にはあるはずだった。いざとなれば、続木さんの一本背負いで「投げ飛ばして」やればいいのだ。週末の電話の時のように、彼女の声以外の音が、世界から静かに消滅してゆくのを感じた。僕は強く拳を握りしめる。
彼女は顔を上げて、僕の目を見た。そこには彼女の、凛とした二つの瞳があった。
「好きな人ができたの」
好きな人ができた。僕はその言葉を、心の中でゆっくりと噛みくだいた。好きな人が、できた。そうして僕は、うん、と答えた。すると彼女は、予め決めていたであろう言葉をはっきりと、正確に声にしていった。
「浮気みたいなことはしてない。正樹くんのことは、今でも好きだから」
正樹くん、と彼女は僕の名前を呼んだ。
「でもその人のことは、正樹くんよりも、好きになってると思う」
僕の名前を呼ぶ度、彼女はどんどん泣きそうな顔になっていった。しかし僕は彼女が、泣いてはいけないと決めた時には決して泣かない人であることを知っていた。彼女はまばたき一つせず、僕の目を見据え続けていた。
僕はいったん目を閉じて、僕と彼女の、これまでとこれからの、色々なことを考えた。そしてそれらを全部飲み込んでから、僕は目を開けた。彼女は今もまっすぐに、僕を見ていた。彼女の視線はいつもまっすぐで、彼女は自分の気持ちにいつもまっすぐな、とても素敵な人だった。
僕は少し口元を柔らかくしてから、
「それは、どうしようもないね」
と言った。止まっていた時間が音となって、観光客たちの喧噪が、僕の耳になだれ込んできた。
んん、とふときちが不機嫌そうな鳴き声をあげた。動かなくなった彼女の手を押しのけるようにして膝から飛び降りると、観光客たちとは逆の方向へすたすたと歩いて、草むらの中へ、どこかへ消えてしまった。
どうしようもなく好きで、でも、どうしようもない。里麦さんの言葉を思い出しながら、僕は足元にあった小石をこっそり、こつん、と蹴った。
駅に戻りながら彼女は、「彼」がどんな人なのか教えてくれた。
彼は大学の一年先輩で、彼女にストーカー紛いのことをしていた男を追い払ってくれたらしい。空手部の副将で強面なのに、お酒にすごく弱くて、趣味がスイーツ作りだそうだ。彼女の話を聞く限り彼は優しく、頼もしい男だった。
続木さん直伝の一本背負いをもってしても、どうやら僕に勝てる相手ではなさそうだ。かなわないもんですね、と今ごろ宇宙のどこかにいるであろう続木さんへと、僕はテレパシーを送った。
コインロッカーから荷物を取り出した彼女は、このまま香川に帰るつもりだと言った。実家には連絡してあって、最初からそうすると決めていたらしい。彼女らしいな、と思いながら、僕はキャリーバッグを持って彼女と駅まで歩く。
もう辺りが暗くなりはじめる時間だった。ここから香川の実家までだと、着いた頃にはすっかり夜になっているはずだ。僕はおやつにと箱入りのグミを売店で買って、彼女に渡した。彼女は貰ってすぐに封を開けると、箱を何度か振って、僕の手のひらに三つ、自分の手のひらに三つ、グミをのせた。彼女は赤と黄とオレンジが出たのに、僕のは三つとも緑だった。僕たちは同時に、グミを口に放り込んだ。僕の口の中で、三つ分のマスカットの味が広がった。
彼女が乗る電車は、もう駅に着いているようだった。キャリーバックを渡して、改札を抜ける彼女に、僕は声をかけた。
「いつか、海に行けるかな。僕に後輩ができたら、一緒に、三人で」
彼女は前を向いていた。しかし僕には、彼女の口が綻んでいるのが分かっていた。それが小ぎれいな夢のようなものであることは、僕も、彼女も分かっていたと思う。でも僕は、小ぎれいな夢でも、たった十秒足らずの時間でも、とにかく彼女と何かを共有したかったのだ。
彼女は片手を少し持ち上げると、人差し指と親指で小さな丸をつくった。そして彼女は振り返らないまま、駅のホームを歩いて行った。
ぴりりりり。車掌が笛を吹いて、彼女が乗った電車は、きっちり時間通りに発車した。電車は人でいっぱいで、彼女の姿は乗車してすぐに分からなくなっていたし、電車もすぐに線路の向こうへと消えてしまった。
頼んだぞ、先輩。
僕は駅の階段を下りながら、まだ見ぬ空手部の副将にエールを送った。
*
一月二十二日に、僕は二十歳になった。大学は来週からテスト期間に入るため、今週の講義が軒並み最後の回となる。僕は講義に出席する度、講義の評価ペーパーの「よい」とか「とてもよい」とか、「ふつう」とかに丸を付けていった。
僕が二十歳になった記念すべき日は金曜で、講義が二限から五限まで詰まっていた。疲れて家に帰ると、七時過ぎに家族から電話がかかってきた。酒とパチンコはほどほどにしておけ、と父。ちゃんとご飯は食べているの、と母。お兄ちゃんがいなくて部屋が広い、と妹。家族の声を順番に聞いて、僕は電話を切った。
ケータイのホーム画面を見て、彼女からLineにメッセージが送られているのに気付く。「お誕生日おめでとう」。アプリを開いて見ると、有料のスタンプがプレゼントとして添付されていた。少しひねたような目をした、白いウサギのスタンプ。僕は少し考えてから、ぺこりと頭を下げるウサギを返信して、ケータイの画面を消した。ベッドにうつ伏せで倒れ込んで、枕に顔を沈める。
続木さんがいなくなって、彼女が僕の「彼女」ではなくなって、三か月弱。僕は自分が思っていたより「ちゃんと」できているような気がしていた。授業には遅刻しないで出席していたし、バイトも無遅刻無欠勤を続け、公共料金も毎月忘れずに払っていた。
しかしいつの間にやら、今の僕には手付かずのテスト勉強と、来週までに完成させなければいけないレポートが山積みになっていた。読まなければならない本が五冊ほどあって、まとめなければならないプリントが三十枚ほどたまっていた。
たぶんその原因の一つは、僕がこの三か月足らずの間、大学から帰ると必ず映画のDVDを二本観ていたことにあるだろう。預金通帳には自分でもびっくりするぐらいの数字が記載されていて、僕は観たい映画であれば新作だろうと迷わずレンタルした。バカみたいに大量のポップコーンを家で作っては、真っ暗にした部屋で映画を観続けていた。映画を観て、映画を観て、その結果留年することになったとしても、そんなことはどうでもよかった。
今の僕はとても身軽で、ものすごくふわふわとした世界にいた。いずれ僕の体は地上から離れて、やがては宇宙に辿り着くような気さえした。すると僕は呼吸もやめてしまって、そのまま静かに凍りついてしまえばいいのだ。そうしたら月の引率をしている続木さんが、僕を見つけてくれるかもしれない。あのヒーターと電気ポットで、僕の体をとかしてくれるかもしれない。
続木さんの部屋は今や、リモコンを失った古いエアコンと、鍵の無いドアノブと、煙草臭さが染み付いて変色した壁を残して、湖石寮の一室に戻っていた。どうやら続木さんは、僕がバイト先で買った二つの家電も持って行ったらしかった。逆にただ一つ、続木さんはたこ焼き器だけを部屋に残して行った。そのたこ焼き器は今、僕の家の冷蔵庫の上で、またゆっくりと埃を積もらせている。続木さんがいないのに、たこ焼きを作る気なんて起きるはずもなかったが、少なくとも僕はこの三つの家電のやり取りが、僕と続木さんの繋がりのように思えて、少し嬉しかった。
そういえば、と僕は思い出して、ベッドから起き上がり冷蔵庫を開けた。使っていない醤油やポン酢をかき分けると、奥に一本の缶ビールがあった。あの日、僕が続木さんの部屋の冷蔵庫から持ってきたビールだ。「二十歳になるまでは、のまない」というルールを、僕はどうやら守り通したらしかった。ビールを持つ手に、あの時と同じ冷たさと、三五〇ミリリットルの重みを感じる。続木さんは、こんな僕を褒めてくれるだろうか?
僕は馬鹿らしくなって、ビールのプルタブに指をかけた。今の僕には、酒をのめば色々なことが解決するような気がしていた。
ぷしゅり、ピンポーン。僕がプルタブを起こすのと、玄関のチャイムが鳴るのと、ほぼ同時だった。
親が誕生日に何か送ってくれたのだろうか。いや、電話ではそんなこと一言も言っていなかったが。そんなことを考えながら、僕はビール缶を持ったまま、玄関のドアを開けた。
「久しぶり、香川くん。ずいぶん髪が伸びたわね」
玄関の向こうに、里麦さんが大きなビニール袋を右手に提げて立っていた。仕事帰りなのか、里麦さんはぴしっとしたスーツを着ていて、髪を後ろで一つに結んでいた。なぜか夏に見た時と比べ、僕にはスーツ姿の里麦さんは若干幼いように感じられた。突然の訪問に呆然とする僕を見て、里麦さんはふふ、と笑った。
「ハッピィバースデイ、香川くん」
そう言うと里麦さんは、袋からチューハイの缶を取り出して、僕のビールにこつんとぶつけた。
「続木くんから言われて来たのよ。二十二日があいつの誕生日だから、祝ってやってくれ、って」
里麦さんは僕がいつも使っている椅子に座って、三本目のチューハイに口をつけていた。ジャケットは椅子にかけられていて、里麦さんはシャツの一番上のボタンを外していた。状況がまだ掴めない僕は、ビールの缶を握ったまま、ベッドに腰かけて里麦さんの飲みっぷりを眺めていた。
「続木くんが行けばって私も言ったのよ。でも続木くん、『俺にできることはもうない』の一点張りでね」
続木さんがこの地球上で、ちゃんと誰かと言葉を交わしていた。その事実に、僕はまずほっとした。続木さんという存在が蒸発して、消えてなくなってしまったわけではないようだ。
「続木くんと、ずっと会ってないんでしょ?」
里麦さんの言葉に、僕は頷いた。この三か月弱の間、僕は湖石寮でも、大学でも、街中でも、続木さんの影すら見たことはなかった。続木さんは世界のどこかにいて、でも確かに、この町にはいなかった。
「続木くんに会いたい?」
その問いに、僕は答えることができなかった。
里麦さんがここにいるということはつまり、僕と会わない方が良い、と続木さんが判断したということだ。それが僕にとってなのか、続木さんにとってなのかは分からない。ただ、続木さんがそう判断したのであれば、僕はそれに従った方が良い気がした。
「僕は、続木さんに入れ込みすぎたのでしょうか」
僕がそう尋ねると、里麦さんはしばらく僕の顔をじっと見つめた。
「そうね。その様子だと」
里麦さんはそう言って、ちょっと困ったような笑みを浮かべた。自分が今どんな顔をしているのか、僕は分からなかった。
いや、結局この一年間、僕が分かっていたことなど何もなかったのだ。里麦さんの言葉の意味も、本当に彼女のためにすべきだったことも、続木さんという人のことも。僕は何も分からないままに、ただ続木さんの背中ばかりを追いかけて、続木さんを頼って、その結果が、今の僕なのだ。
続木くんにあんまり入れ込むと、私みたいになるからね。
私は、半年でも結構寂しかったけどね。
潮時だ。
たくさんの言葉が、僕の頭の中に浮かんでは消えた。僕はなんて愚かなんだろう、と思った。
「でも香川くん、これはどうしようもないことなのよ。だって、私もそうだったから」
里麦さんはそう言って椅子から立ち上がると、ベッドの僕の隣に腰かけた。そして真剣なまなざしでまっすぐに僕の目を見ながら、里麦さんは言葉を続けた。
「だから、これから自分で、いっぱい色んなことを考えるの。そうやって続木くんとのこれまでのこと全部を、あなたの成長の糧にできたなら、私はそれでいいと思う」
里麦さんの一言一言に、ずしりと中身の詰まった重みがあった。里麦さんはこれまで「どうしようもない」ことを受け入れて、その分成長してきた人なのだ。そしてそれを、里麦さんはそのまま僕に伝えようとしてくれている。
里麦さんは視線を落とすと、持っているチューハイの缶の口をぼんやりと眺めながら言った。
「でも、続木くんも大変よね。なにせ私や香川くんみたいな人が時々、続木くんの魅力に突き刺さって、抜けなくなっちゃうんだから。お互い身動きがとれなくなって、下手したら共倒れするかもしれない。私の時は結構ぎりぎりで離れたから、香川くんは大丈夫かなって、ちょっと心配してたの」
それを聞いて、続木さんの「俺じゃお前についていけない」という言葉が、僕の中によみがえった。
里麦さんはたぶん、大学のことだけでなく、色々なことを放り投げて続木さんの傍にい続けてきたのだろう。そんな里麦さんは、決まった就職を変えてでも、留年する続木さんの元に残る可能性があったに違いない。だから続木さんは、里麦さんに別れを告げたのだ。里麦さんを、進むべき道へと送り出すために。
格好良すぎじゃないですか。僕は心の中で、続木さんに向かって呟いた。
「でも、これは私のお節介だったわね。続木くんは変わってないって言ったけど、私の時なんかよりずっと早く、続木くんはちゃんと見切りをつけた。私も続木くんの成長の糧になれてたみたいで、嬉しかったわ」
里麦さんの表情が、優しくほころんだ。それを見た僕の中から、一つの問いかけが、自然と口から抜け出てきた。
「僕も、続木さんの糧になれたでしょうか」
すると里麦さんは僕の方を向き、とびきりの笑顔を浮かべて、ふふん、と笑った。
「あ、そうだ。続木くんが、これも伝えてくれって」
里麦さんはそう言うと、左手の人差し指と中指で、何かを挟むような仕草をした。煙草だ、と僕はすぐに分かった。それから里麦さんは、右手でライターを擦る動きをし、続木さんが煙草に火をつけるまでの動作をそっくりに再現して、細く、長く息を吐き出した。
「『煙草は吸うなよ』」
そのあまりの再現度の高さに、僕は思わず噴き出してしまった。火のついた煙草が、里麦さんの口元に見えるかのようだった。僕の反応に気を良くしたのか、里麦さんが何度も続木さんの煙草の真似を繰り返して、「煙草は吸うなよ」と連呼した。それがあまりに続木さんそっくりで、言っていることとやっていることがあまりにちぐはぐで、一体自分のどこにあったんだというくらいの愉快な感情が噴き出してくるのを、僕は止められなかった。
笑いすぎて呼吸が苦しくなってきた頃、僕の耳に、里麦さんの言葉が続木さんの声となって聞こえてきた。煙草は吸うなよ。その言葉は説得力が無いようで、それでいて続木さんが言うなら間違いないことのような気もした。僕は初めて湖石寮に行った日、こっそり続木さんの煙草の煙を吸い込んだことを思い出した。そんな僕の姿も、続木さんは目の端でしっかり捉えていたのだろうか。
僕は深呼吸をして息を整えながら、続木さんのもう一つの最終命令を、深く心に刻んでいった。
のまないの? と不意に里麦さんに指さされたビールに、僕は目を向けた。そういえば僕は、ビールをずっと右手で握りしめたままだった。缶はずいぶんぬるくなっていて、僕の手は凝結した水滴でびしょびしょになっていた。
僕は缶に口を付けると、恐る恐るビールを口の中に流し入れた。苦みをまとった気泡が、口の中ではじける。僕は眉をしかめながら、液体を喉の奥へと追いやった。ぴりぴりとした苦みが鼻を抜け、空気中へ霧散した。こんな「苦い炭酸の麦茶」の何がおいしいのか、僕には全く理解できなかった。
「最初はそんなものよ。ようこそ、大人の世界へ」
里麦さんはそう言って、缶を高々と天井にかかげた。大人の世界。お酒がのめるようになったとはいえ、僕にとってその世界は、まだまだ先にあるものに感じられた。僕はただ年齢が二十歳になっただけで、まだ大学の一年生に過ぎない。卒業して社会人になるまでは、少なくともまだ三年もあるのだ。
「三年も、なんて考えてちゃ駄目よ。楽しい時間はあっという間なんだから。社会に出たら大変よ、本当に」
里麦さんは遠い目をして、はあ、とため息をつくと、首元の二つ目のボタンを乱暴に外した。大学生では計り知れない疲労が、里麦さんの中には溜まっているようだった。
「まあ、私もまだまだ入り口に立っただけなんだけどね。これが何十年続くと思うと、のまなきゃやってらんないわよ」
里麦さんはそう言って、持っていたチューハイを一気に飲み干した。一、二、三、四、と僕は机の上にある空の缶を数える。里麦さんはどうやら、度数の低いお酒を次々にのむのが好みのようだった。
里麦さんはまたビニール袋のお酒を物色していたが、急にぴたりと動きを止めると、僕の方を振り返った。里麦さんの顔には、いじわるそうな笑みが浮かんでいた。
「続木くん、就職するって」
その言葉に、僕は仰天して思わず大きな声を出てしまった。
就職? あの、あの続木さんが?
「うん。詳しくは教えてくれなかったけど、ちゃんとした会社らしいわよ」
里麦さんの言葉からするに、それはどうやら深夜のガソリンスタンドでもなさそうだった。続木さんが、僕の想像の域からどんどん遠ざかってゆく。里麦さんが話している人は、僕の知っている続木さんとは違う、別の人なのではないだろうか。
「それで、続木くんね、」
里麦さんはコークジンジャーの缶を掴んで立ち上がると、かしゃ、とプルタブを開けて、言った。
「『負けねえぞ』って言ってたわ」
生意気にね。そう呟いて缶に口をつける里麦さんは、本当に楽しそうな表情を浮かべていた。それを見た瞬間、どこからか「お前も遅れるなよ」と続木さんの声が聞こえた気がした。
続木さんが就職する。それはありえないことのようで、でも考えてみると、当り前のことなのかもしれなかった。続木さんは、大学四年生なのだ。一年生の僕は来年二年になるし、大学四年生は就職する。もちろん、全ての人がそうとは限らないだろう。けれどこれは一つの正しい道で、続木さんが選んだ道なのだ。僕の中でもう一度、「遅れんじゃねえぞ」と続木さんの声が聞こえた、気がした。
二年も留年したくせに。そう思って、僕は思わず笑ってしまった。今の僕はたぶん、里麦さんと同じような顔をしていることだろう。続木さんは大人の社会に翻弄されるのか、それとも、社会の方が続木さんに振り回されてしまうのか。僕と里麦さんは今、それぞれの位置から、同じ続木さんを見ていた。
「厳しい大人の世界に」
「続木さんの前途に」
僕と里麦さんは、力強く乾杯を交わした。二つの缶がぶつかり、かよん、と間の抜けた音をさせる。それは祝福であり、鼓舞の音だった。僕はビールをちびちびのみながら、とりあえず留年しないようにしよう、と思った。そのためにまず、僕は三十枚のプリントと、五冊の分厚い本と、五千字のレポートと闘わなければならなかった。でも、あの続木さんが就職するぐらいなのだ。僕も前に進まなければいけない。
それに歩いていればいつか、続木さんの背中が見えてくるような気がした。僕は、自分が進むべき道の端っこを見つけた気がして、少し嬉しくなった。
それから里麦さんは、おもむろにビニール袋から冷凍の讃岐うどんを取り出すと、僕の部屋の台所でうどんを茹ではじめた。どうやら里麦さんは、海で交わした約束をしっかり覚えていたらしい。僕も急いでたこ焼き器の埃を払うと、久々にたこ焼きのタネをかき混ぜはじめた。
残念ながら僕の冷蔵庫の中には、たこ焼きの具や、うどんに乗せるような具材は何一つ見当たらなかった。そのため出来上がったのは「ザ・かけうどん」と「具なしたこやき」という、どこまでも純粋な腕前のみで作られたものになった。
僕が皿に盛ったたこ焼きにソースとマヨネーズをかけて差し出すと、里麦さんは「本場の讃岐うどんです」と言いながら、僕にうどんの器を渡した。催眠術のせいなのかそうでないのか、里麦さんのうどんにはとても冷凍ものと思えない艶があり、透き通ったきつね色のつゆが麺を輝かせているように見えた。
「いただきます」と言って、僕と里麦さんは各々の一口目を口に運んだ。里麦さんのうどんは見た目だけでなく、僕の実家の近所にあるうどん屋に勝るとも劣らない味、こし、のどごしを備えていた。一体何をどうすれば、冷凍うどんがここまで化けるのか、僕には想像もつかない。里麦さんは間違いなく一流の家庭料理人か、または一流の催眠術師のどちらかだった。
一方里麦さんも、僕のたこ焼きをやたらに難しい顔で噛み締めていたが、それをごくりと飲み込むと一言、「プロね」と呟いた。その表情がまた続木さんそっくりで、僕はしばらく笑いが止まらなかったのだが、里麦さんは何がおかしいのか分からない様子だった。
それから僕と里麦さんはお互いの健闘を称え合い、たこ焼きの具にうどんをちぎって入れたり、うどんにたこ焼きを入れてみたり(こっちは結構おいしかった)した。僕と里麦さんは、どうやらすでに酔っているらしかった。
里麦さん。僕、フラれちゃったんですよ。
うどんとたこ焼きの皿が空になった頃、気付けば僕は、彼女にフラれた話を里麦さんにぶちまけていた。お酒のせいなのか何なのか、心の奥から悲しい気持ちがとめどなく溢れてきて、僕は涙を流しながら里麦さんに吠えていた。
里麦さんの言う通り、どうしようもないんですよ。自業自得なんですよ。でも、だったら、どうすればいいんですか。ねえ、里麦さん。
里麦さんは初めこそ、うん、うんと静かに僕の話を聞いてくれていたが、お酒を空けていくにつれどんどん顔が赤く、差し挟む言葉が多くなっていった。全く、あんたらはねえ。気付いた時には里麦さんが、僕と続木さんと、その他色々な男性に対する怒りを一方的にぶちまけていた。
どいつもこいつも、いじいじいじいじ。もっと男らしくガツンとしなさいよ、ガツンと。
里麦さんの口調はお酒の量に比例してどんどん荒っぽくなり、そして恐ろしいことに、ビニール袋からは四次元ポケットの如く、いくつでもお酒が出てきた。
のみなさい。いい? 失恋の炎は、とにかく酒で消化するのよ。何、私の酒がのめないっていうの。里麦さんに次々と突きつけられるチューハイの缶を、僕はわけも分からないまま、必死になってのみ続けた。
続木さん。僕は今、あなたの元カノにアルハラを受けてますよ。不幸中の幸いか、僕はそれほどお酒に弱くないようだったが、それでも十本目過ぎに梅酒サワーをあおった時、ぐらりと頭が傾いた。
続木さん。一本背負いじゃ、何にもかなわないんですよ。悲鳴とも叫びともつかない声で、必死になって続木さんにテレパシーを送る。お酒ですよ。里麦さんはお酒で、空手部の副将も倒せるんですよ。
僕は、自分の体がずぶずぶと沼の底へ沈んでいくような感覚に包まれていた。
次に気が付いた時、部屋は暗くなっていて、僕の体はベッドの上で横になっていた。今にも消えてしまいそうな意識の中で何とか瞼を開くと、小さな黄色い光が、天井で揺らめいているのが見えた。
なんてことだ、と僕は驚いた。「塚本」だ。僕の部屋に、塚本が迷い込んでしまったんだ。
僕は必死になって、続木さんを呼ぼうとした。続木さん、塚本が迷子になってますよ。早く連れ戻さないと、続木さん。僕の耳には、ふにゅきさん、という不明瞭な自分の声ばかり届いたが、それでも僕は、続木さんの名前を呼び続けた。
すると向こうから人影がやってきて、僕の布団を肩までかけ直した。そして影が「おやすみ」と言って立ち上がると、かちり、と音がして、塚本が姿を消した。
続木さんの影だ、と僕は確信した。続木さんが、来てくれたんだ。
僕は安心して瞼を閉じ、深く、深く落ちてゆく眠りに身をゆだねた。