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最後の紅帝  作者: 佐藤裕太
1/2

前編

 2012年9月上旬。

 中華(ちゅうか)人民共和国、またの名を中国の首都、北京市内にある「北京大学」の正門前の午前中。

 数多くの社会人も含めた老若男女の学生と教職員等が正門から校地内へ入っていく中、20代とは思えないくらいの童顔の青年が一人立っていた。

 その青年は、真新しい背広を着て、結構モノが入りそうなショルダーバッグを左肩からさげて、その正門手前で直立不動になって前方を、未来への希望と決意に満ち溢れた笑顔で見ていた。

「今日から僕は、ここで勉強するのかあ」

 青年は一人でこう呟いた。

 その青年、昭拓邦(しょうたくほう)は自分の両目を煌めかせたかと思うと、今度は鼻から力強く息を噴射して、

「よおし、がんばるぞお!」

 と周りの迷惑にならない程度の声でこう誓った。

 そして拓邦は、まっすぐに校門から校地内へ入っていった。拓邦が入っていった後からも、数多くの学生と教職員等の老若男女がしばらくの間、校門を経由して校地内へと入っていった。

 この日の天候は太陽の光が周囲を照らし、新しいことが始まる日にふさわしい、雲一つない快晴だった。

     ※

 2018年、4月の下旬。

 チベット自治区都のラサ市中心部にある官庁街。

 その官庁街の建築物の一つであり、この国、中国の事実上の一党独裁政権政党、「中国共産党」通称「共産党(きょうさんとう)」の下部組織である、「中国共産主義青年団」通称「共青団」のチベット自治区委員会館。

 現在ここでは社青団員の多くが、オフィス・ワークを集中的に行っていた。廊下では書類を持って自分の机があるフロアへ向かう者もいれば、同僚と並んで会話をしながら歩く者たち等がいた。

 昭拓邦は、会館のとあるフロアの机で、渡された書類群に目を通していた。ちなみに拓邦は、いわゆる後期中等教育を施す高級中学に進学した16歳になる年にこの共青団に入団して、実に10年が経過していたため、

(ああ、いつになったら僕は正式に、共産党に入党できるのかな?)

 と毎日必ず一回、自分の心の中でぼやくことが癖になっていた。

 すると、拓邦の左肩を誰かが静かに2回叩いた。

 拓邦が振り向くと、そこには拓邦の仕事仲間、つまり同僚の一人が立っていた。

「やあ、昭同志。仕事は順調か?」

 この問いに対して拓邦は至極単純に、

「ああ、順調に仕事はこなしている! しかもバリバリとな!」

 拓邦に声をかけた同僚は、この返事を聞くと、

「ああ、そうか」

 と言い、どこかへ行ってしまった。

 拓邦は改めて、自分の右手に持っていた書類群に目をやると、それを無造作に机の上に静かに置き、座っている椅子の背もたれに思いっきり寄りかかると、天井を仰ぎ見て小さな声でぼやき始めた。

「まったく。やはり今月も相変わらず多かったなあ。起こらない月は無いんじゃないか? チベット族の僧侶の焼身自殺が毎月必ずだ。毎月、最低でも1人が自分の体を灰にしている……」

拓邦は、こう言うと深いため息をついて、

「何だか、ここまでくると、毎月このような人たちの焼身自殺が『日常的』に見えてしまう」

 と言った直後、拓邦は自分が言った言葉の不謹慎さに気づき、さっきよりも深いため息をつくと、

「うわあ、僕も随分不謹慎なことを考える人格になったなあ」

 とぼやき、

「僕がガキの頃と比べるとこの一言に尽きる」

 と言った。そしてその一言とは、

「この世の中すべては、ちっとも変ってないな」

 だった。そして拓邦は天井を仰いだまま目を(つむ)り、回想を始めた。

 ちなみに、拓邦がついさっき言っていた「ガキの頃」というのは、2012年、9月の大学入学以前までをいみしている。

    ※

 拓邦は自分が、いわゆる前期中等教育を施す初級中学校3年生の時、学年も後期に差し掛かり、高級中学に進学するために日々の勉学を自分なりに励んでいた。

 そんなある日、気晴らしにラサ市街まで散歩をしていたとき、チベット族の大規模デモを目撃した。そのとき拓邦は、ただ右手で頭を抱え深いため息をついて傍観をするだけだった。

 「昭拓邦」生年月日は1992年10月3日。ヒマラヤ山脈のお膝元とも言えるチベット自治区の一都市で生を受けた。幼少期、拓邦はよくチベット高原の大地を駆け回りながら、チベットの風土や伝統・文化等を肌で感じていた。

 このため拓邦には、

「これからは、多様な伝統や文化がお互いの価値観を認め合い尊重する。共存と共生する世の中でなければならないんだ」

 という価値観が染みついていた。

 ちなみに、拓邦の戸籍上の扱いは「漢族」だ。これは、両親が漢族と戸籍登録しておいた方が「チベット族」等のいわゆる「少数民族」と戸籍登録するよりもこの国の社会的処遇が、まだいい方になるだろうと判断してのことだった。

 拓邦が生まれた中国は、いわゆる多民族国家でこの国の総人口比では9割が地球規模的に「中国人」と言われている漢族であり、残りの1割がチベット族も含めた55もの非漢少数民族がいる。

 残念なことだが、この世の理の1つに、特定の文化を持っている地域の勢力が、それよりも高度で発達した文化を持つ地域によって抑圧、征服そして放逐と同化されて最悪の場合、この世から消滅させられるというものがある。

 それは、このチベット自治区及びその周辺の地域も例外ではない。

 1959年以来、チベット自治区及びその周辺の地域のほとんどが中華人民共和国の領土に名実ともになった。それ以来、その地域で育まれた古来の固有の伝統文化や価値観は、「中原の地」で中華の名を中心とした歴史の中で育まれた伝統文化や価値観の抑圧を一方的に受けることになった。

 その代表的な例が学校教育の現場におけるチベット語の授業日数だ。その中でも中等教育の課程以降からチベット語の授業日数が次第に減らされていき、反対に中国国内で一番使われている「漢語」の授業日数が増やされていくということだ。ちなみに漢語は、共通語という意味を込めて「普通話」と呼ばれている。

 また、2006年の6月中旬。

 拓邦は、ラサ市内の初級中学の生徒だったある日、学校当局がチベット語の授業日数を減らしてその分を漢語に充てることが検討されると、チベット族の生徒たちは激怒し、小さな抗議運動にまで発展したことを今でも覚えている。

 ちなみに拓邦は、戸籍上漢族で初級中学以降は漢語専修だったが、母親がチベット族だったことと、初等教育を受けていた頃、通っていた初等学校がチベット族の方が多かったところだったということで、チベット語はほぼネイティブ並だ。

 そのとき、拓邦はその抗議運動を、

「ちょっと見てみるか」

 と思い、わざわざその抗議運動を至近距離から傍観をした。

 拓邦は、その抗議運動を傍観していく中で、運動をしているチベット族の生徒の主張に共通点があることに気づいた。その共通点を大まかに総括すると、

「チベット語の授業日数削減と漢語の授業日数増加、反対」

「チベット族とチベット地域内の文化と価値観を尊重しろ」

 というものであった。この場合、拓邦が思春期を過ごしたチベット自治区内はチベット族が占める人口比率が、まだ漢族等の非チベット族のそれよりも高かったため、その教育方針は撤回されることになった。しかしながら、この場合はチベット自治区内のチベット族の人口比率が漢族等の非チベット族よりもまだ高かったからで、その逆の教育現場では、学生や生徒等の抗議運動にもかかわらず、チベット語の授業日数は削減され、その分を漢語にまわされるということが普通に進められている。

 拓邦は、その抗議運動の傍観に満足し次第、家路についた。その中で拓邦は、

(これから、何かが起こる予感がするな)

 と歩きながら思っていた。

 そしてその予感は、それから2年後の2008年、3月中旬に現実のものとなった。

 当時、拓邦は2008年3月中旬にラサ市内で起きたチベット族市民によるデモ行進とそれを弾圧する治安当局との間の「攻防戦」を傍観した。

 このとき拓邦は、そのデモ行進から発せられているシュプレヒコールの内容を大まかに、そして自分なりに総括してみた。それは、

「チベット族及びチベットの文化と価値観等の独自性を尊重しろ‼」

 という、チベット自治区政府当局に対して、民族文化や価値観等、民族や地域の独自性を抑圧していることに対する抗議だった。

 しかし、そのデモ隊が一番シュプレヒコールを挙げて主張していたことは、

「チベット族と漢族間の経済格差を是正しろ⁉」

 等の、経済的・生活的な矛盾の追求とその是正を含めた、いわゆる健康で文化的な最低限度の生活の供給を求める主張を一番声高に上げていた。

 拓邦はこの時、チベット族の抗議デモ行進を「観察」する感覚で、自分の気が済むまで傍観していた。そして、

(異文化、異民族そして異なる価値観がお互いを理解して尊重し合う世の中を作ることは無理なことなのだろうか? いや、今は発展途上でこれから長い時間をかけた、人々の努力次第で実現可能なはずだ、と思いたい)

 と思っていたが、このデモ行進はしばらくして公安当局の本格的な実力行使で鎮圧された。

 拓邦はこれを傍観して、

(これが現実なんだよな。でも人間は何事も理想に向かって努力をするべきだ。現実ばかりを見て行動するだけでは、この世で生きることがますます虚しくなってしまう)

 と思った。この暴動以降、表立った抗議活動及びデモ行進は行われることはなかった。

 だが、これはチベット族内の「不満」がなくなったわけではない。公安当局等の社会秩序の管理組織が強化されて、行動を起こしたくても起こせない状態に、今まで以上になったからだ。

 そして、このような状態に追い込まれても「行動」することを諦めきれない者たちが出てくる。その者たちが公安当局の抑圧等で追い詰められた末に起こすことの1つが「焼身自殺」だった。2008年3月以降、チベット自治区やそれ以外のチベット族が数多くいる地域内の市街地や郊外のある程度の人通りのある場所で、主にチベット族の仏教僧の焼身自殺が相次ぐことになる。

 拓邦はその焼身自殺というものを、高級中学に進学した2008年9月以降から、2011年9月の卒業、そしてその後の1年間の浪人生活までの計4年間で実際に見た件数は軽く2桁に達する。

 一例として2009年2月上旬のある日の午前中、拓邦は私的な用でチベット自治区内のある都市の市街地に立ち寄ったとき、明らかに一般市民とは違う不自然な動きをする1人の初老僧に出会った。

「あの、そこのお坊さん、何しているの?」

 拓邦は、その初老僧に興味本位で声をかけた。その初老僧は、拓邦が自分に興味本位で近寄ってきたことに気づいたのか、

「君、私に関わらないほうがいい。今すぐになるべく私から、遠くに離れなさい。それとも君は、これから私が何をするのか知っていながら声をかけたのか?」

 と近寄ってきた拓邦に向かって、静かに優しくそして、諭すような声で自分からなるべく遠くに離れるように促した。

 拓邦は、その初老僧の右足元にプラスチック製の片手で持てるくらいの大きさのタンクを目にした。

「じゃあ、お坊さん、僕の言う問いに答えてくれたら、僕はお坊さんのいう『なるべく遠くに離れる』から、僕がこれから言う問いに答えてくれるかい。 ねえお坊さん、今から何をするんだい?」

 と初老僧に向かってこう言った。

 拓邦のこの問いに対して初老僧は素直に答えた。

「そうだな。これを言っても君には分からないかもしれないが答えよう。私は今から『殉教』するんだ」

 初老僧の回答に対して拓邦は、戸惑った様子で、

「え、じゅ、殉教!」

 と言った。「殉教」とは信者が自分の信仰する宗旨・教えのために命を落とすことだ。拓邦は、初老僧の回答の中にあった「殉教」という言葉を聞いて、改めて初老僧の足元にあるタンクを凝視した。そして、その目つきのまま初老僧を見て、

「お、お坊さん。まさかそのタンクは!」

 と言った。すると初老僧は、顔の表情を今までの朗らかな表情から一転、真剣な表情で、

「気づいたか。気づいたなら早く私からなるべく遠くに離れなさい」

 と言うと、

「さあ、離れるんだ!」

 と拓邦に力強い声で言った。

 拓邦も、その気迫に圧倒されたため初老僧から離れざるを得なくなり、市街の通りを歩いている群衆の中に紛れた。

 それから1分弱だ。拓邦があの初老僧に背を向けた方角から悲鳴が聞こえた。

 拓邦は、体をビクッと震わすと振り返った。

 その向こうには、大勢の群衆の遠巻きの輪の中心に、両手を合わせて「合掌」をし、全身火だるまになりながらも、まさに命の炎が燃え尽きるまでお経または真言という呪文の類を唱えている初老僧、つい前まで拓邦が短い会話をしていた僧侶その人の姿があった。

 拓邦は、あの初老僧が火だるまになりながらも、その呪文の類を唱え続けているのをただ無言でそしてただ茫然と見ているだけだった。それは、火だるまの初老僧を遠巻きになって好奇の目で見る大勢の群衆も同様だった。また、その群衆の中には火だるまの初老僧に向かって合掌する者もいた。

 この経験も踏まえて拓邦は、

(この世の中は、この世の中を生きている誰もが、このままじゃだめだと思っているに違いない。いや、思っているに決まっている! だから何とかして、何かしら皆が納得し理解するようないい状態にこの世の中を変えたい。変えなければいけない。だけど、方法はあるのか? それはやっぱり自分で考えなければならないな。自分なりにじっくりと)

 というように考え始めるようになり、2018年の今日に至っている。

 また拓邦は、北京大学の学生だった2012年以降の4年間を北京で過ごしていた。その4年間、大学の学業の合間を縫って観光という名目で北京市内を渡り歩いていた。

 拓邦は、自分の国の首都を渡り歩いて行く中で、経済成長で自分の国がいわゆる物質的な豊かさで形成されていることに気づいた。

 しかしその反面、急激な経済成長によってできた経済、雇用、教育そして生活等の格差問題と仕事や夢を求めて地方から北京市等の都市へ一挙に流入して起こる人口集中問題、大気や河川そして土壌や森林の汚染等の自然環境問題等が目立っていた。

 そして、他地域からの人口流入で価値観や出身も異なる人々が集中するために、自分自身の目の前の相手が誰なのか知らなくて疑心暗鬼になり、結果としてお互いに対する偏見や差別の問題が起こった。

 これらの典型的な都市における「都市問題」というものを自分の目で見ていた。そして、

(見ると聞くとは大違いだとよく言われるけど、まったく同じじゃないか)

 と思っていた。

 拓邦は、都市の諸問題を新聞やテレビ等のメディア、図書館や書店で本類を入手して読んだり、学校教育で教わったりして知識としては持っていた。しかしその実態は、その知識を大幅に超えた大きさだったため、初めて北京市内を歩いた時こう言った。

    ※

 拓邦は、回想をし終えると「ふうー」と短いため息をつき、再び目の前の書類群に目を通す作業を始めた。その目つきは、目の前のことに集中していることがわかるものだった。

 拓邦は、作業に集中しながら、

(絶対に共産党員になって力をつけのし上がって、今に改革してみせる)

 と思っていた。それから少し時間が経ったが、拓邦は相変わらず書類群に目を通す作業を続けていた。

 そのとき、拓邦の左肩を2回叩く者がいた。拓邦は叩かれた左肩の方向に振り向くと、そこにはYシャツとネクタイを緩く締めた年配の男性がいた。その男性は拓邦が振り向くと、

「昭同志だね」

 と言った。これに対し拓邦は、

「は、はい、そうですが」

 と返事をした。拓邦の左肩を叩いた男性は続けて、

「君が今やっている仕事を中断しなさい。すぐにでも書記室へ行きなさい。書記が君に伝えたいことがあるみたいだ」

 ということを聞くと、自分の机の後片付けを済ませ、書記室へ向かった。ちなみに書記とは「共青団チベット自治区書記」のことで、文字通りチベット自治区の共青団のトップであり、共産党員である。共青団の幹部の地位には、共産党員が就くことになっている。

    ※

 拓邦は、「書記室」という白地に黒色で書かれた入口の扉の前に立っていた。

 拓邦は、扉を3回叩いた。すると、扉の向こう側から、

「入るんだ」

 という声が聞こえたので、扉を開けると、

「失礼します」

 と一礼して入室した。

 書記室内は、拓邦が入室したすぐ目の前にある長方形のテーブルの両端に面接・応接用のソファーがあり、その向こう側に書記の執務用の机があった。

 書記は、その机の椅子に座り、入室してきた拓邦を見ていた。

「昭同志、もっと私の近くに来なさい」

 拓邦は、書記にこう言われると、

「はい」

 と返事をし、扉側から見て部屋の左端を経由して書記がいる机の手前に向かい、その机を挟んで拓邦と書記が対面する構図ができた。

「昭同志。私が君をここへ呼んだのは他でもない。実は君に」

 と書記は、一旦言葉をやめて机の引き出しから何かを出そうとしていた。

 拓邦は、表情こそ変えなかったが、心の中で、

(まさか)

 を連呼していた。そして書記が、

「これを渡したくてね」

 と言って拓邦に見せるように机の上に置いた。

 拓邦は机の上に置かれたものを見て、心の中で驚喜した。

 その机の上に置かれたものは、赤地に黄色で「中国共産党」と書き記された、明らかに結構中に入っていそうな分厚い封筒だった。

 拓邦は、この封筒を見て思わず、

「書記、これってまさか」

 と言った。

 書記は、

「おめでとう。君は来月1日で共産党に入党することが決まった」

 と言った。実は今から2週間前に、拓邦は、社会党への推薦入党試験を受験した。つまり今、拓邦に渡されようとしている分厚い赤地の封筒の中身はその「合格通知及び入党手続き関係書類」だと言うことになる。拓邦は思わず自分の姿勢を改めて、直立不動にして、書記に向かって何も言わずに深々と一礼をした。

 そんな拓邦を見て書記は、

「まあまあ、落ち着きたまえ」

 と言い、拓邦はその言葉に従い頭を上げて書記の方を見た。

「早く、その封筒を自分の手に持ちたまえ」

 書記は、拓邦と机の上にある分厚い封筒に向かってこう言った。

 拓邦は、書記にこう言われると、机の上にある封筒を両手で持った。

 書記は、拓邦が封筒を手に持ったことを確認すると、拓邦に向かって、

「昭同志」

 と自分に注目するように促した。

 拓邦は、それに気づき改めて書記に注目した。

 そして書記は、拓邦に向かってこう言った。

「これからその封筒の中身に目を通すこと等の『入党手続きの作業』をすることも大事だが」

 と言うと、少し沈黙してこう言った。

「この十月の間は、君はまだ共青団員だ。だから共青団員としての仕事も怠らないように」

 そして、拓邦に向かってこう釘を刺した。

「もし怠ったら、入党資格は抹消されるからな」

 拓邦は、書記のこの言葉に対して「はい」と返事をした。そして、入室したときと同じルートで扉へ向かい、書記の方を振り向くと、

「失礼しました」

 と言って退出した。

    ※

 そして、翌11月1日。

 チベット自治区都のラサ中心部ある中国共産党チベット自治区委員会館。

 現在ここの大ホールでは、今月から入党する党員たちに対する入党式が行われていた。

 拓邦も含め数十名の新党員が式に臨んでいた。

 党のチベット自治区幹部の代表の挨拶や新党員代表の宣誓等の、よくありふれた「式」の次第が進行していった。

 そして式の最後に、式の参加者全員で革命歌『インターナショナル』を斉唱して式は終わった。

 式の一切が終わった直後、拓邦は、

(これからが本当の闘いだ。このガチガチの党組織を生き残って力をつけて、今に自分の思い通りにすべてを動かして見せる)

 この日拓邦は、共産党員になった。 

     ※

 それから4年後の2022年の5月上旬。

 昭拓邦は考えていた。自身が勤務している共産党チベット自治区委員会館内のとあるフロアにある自身の机で椅子に座り考えていた。

 考えていたことは、

「今回の党大会代表選挙に立候補しようかな?」

 というものだった。そして、

「しかし仮に立候補するとして推薦人を一定数、確保できるのだろうか?」

 拓邦がこう呟くのも無理はない。何故ならば、2022年の5月中旬現在の時点で拓邦は、党の経歴から見ても仕事の実績でも、未熟な方だったからだ。

 拓邦は、自分の今の状態を自覚していた。だから拓邦はこのことを思い出すと、首を横に振り、

(まだ、時期尚早だな)

 と思った。そして小さな溜め息をつくと、今までやっていた仕事を一旦とりやめて、自動販売機ルームへ向かった。

    ※

 拓邦が、自分の今の立場に対して虚しさを感じながら自動販売機ルームへ向かったときと同じ頃、共産党チベット自治区委員会の総会が会館の「中会議室」で開催されていた。

 チベット自治区の共産党員及びチベット自治区の事実上のトップである「書記」を議長とした総会は、書記を含めた委員45人の合議によってチベット自治区内の党に関するすべての重要案件を決める主要機関だ。

 私的団体である一政党の地方組織が、その地方の最高統治機関となれる背景には、その政党が事実上の独裁政党だからこそ成り立つことだ。

 この日の主な議題は、もちろん「党大会代表選挙」についてだ。

「諸君、会議を始めよう」

 書記がこう切り出して、円形のテーブルを45人で囲んだ委員会総会が始まった。数秒間の沈黙があった後、テーブルを囲んでいる委員の一人が、その沈黙を破った。

「今回のこの党大会代表選挙は5年に1度に開催されるわが党の向こう5年間の指針を決めるという意味で重要なことです」

 と言った。

 共産党大会、正式には「中国共産党全国代表大会」では、委員の1人が言っていたように、共産党の向こう5年間の基本的方針を審議・決定とそれで決まったことを誠実に執行する中央委員の選挙が主に行われる。まさに最重要会議だ。

「またこれから党大会への切符を手に入れるための熾烈な戦いが始まるのか」

 別の委員は、前回の選挙のことを思い出して、こうぼやいた。

 これを聞いた書記は、

「まあ我々は、前回も代表に選ばれたから今回も選ばれるだろうと思わない方がいい。この5年間でまた有能な党員が入ってきている。だから我々の今の地位にも影響がでることも考えて、気を抜くべきではないのでは」

 と委員全員に言った。また別の幹部が次に、

「今回の党大会で我々の自治区に配分されている代表の議席は6人だ。党大会への切符を手にすることができるのが6人ということだ」

 と言った。するとその直後、また別の委員が、

「この5年間で、人間は結構変わったものだ。特に我々が色々な意味で注目しなければならない人物もいるからな」

 と言うと、おもむろに一枚の写真を取り出した。その写真に写っているのは、昭拓邦その人だった。どうやら、この中会議室にいる党自治区委員全員、拓邦のことを注目しているが全員が拓邦に喜んで道を譲る気は毛頭ないようだ。

 そして、会議はまだまだ続きそうだ。

    ※

 同じ頃、拓邦は自動販売機で買った缶コーヒーを飲んだ後、自分の机がある部屋に戻り、渡された書類に目を通す作業だが、仕事を再開した。

 拓邦は、その仕事をしながら、

(何かだ、何かきっかけがあれば立候補をしよう)

 と思っていた。

 そして時間が経って17時。勤務終了の時刻となったことと、仕事にある程度区切りがついたので、拓邦は帰り支度を始めた。そして、それを済ませると自分の机の戸締りを済ませて帰宅しようとした。

 そのとき、拓邦は自分の携帯電話が着信を知らせる振動をしていることに気づき、それを取り出して通話を始めた。

「もしもし、どうした?」

 拓邦は、電話の向こう側の人物にこう切り出した。

「昭同志、この後時間があるかい?」

 電話の向こうの人物は、電話越しでこう言った。

拓邦は、これに対して、

「あるが、それがどうした?」と問い返した。

 これに対して電話の向こうの側の人物は、

「ちょっと話があります。市内のある安い飲食店を予約しました。今回の党大会代表選挙についての話し合いなので、昭同志にも参加の方をお願いします」

 と言った。

 拓邦がこれに対して、

「ああ、分かった。行くよ」

 と言うと電話を切って荷物を整え、支持された飲食店へ向かった。

    ※

 拓邦は、その指示通り、ラサ市内某所の飲食店に着いた。そこには数十人の若い党員たちがすでにいた。話し合いの内容は、やはり今回の党大会代表選挙についてだった。

 拓邦は、この会合に出席している党員の人数を数えてみると、選挙に立候補するのに必要な推薦人の数ほどいたため、

(この中で誰かが1人、立候補すれば、その人は立候補の届け出はできるだろう)

 と思っていた。

 その後、とりとめのない話が続く中、参加者の1人が、

「それでは、この中で今回の党大会代表選挙に立候補を考えている人はいるかな? または、君たちは誰を推薦するんだ?」

 と言った。その直後、この話し合いに参加した党員たちの間を沈黙が支配した。周りの雰囲気は不気味なものだった。

 拓邦は、この機に乗じて、

「はい、じゃあ僕が今回、君たちを代表して立候補するよ。みんな僕のことを推薦してくれるかな?」

 と周囲の沈黙を破るかのように名乗り出た。

 すると、周囲の反応は意外なものだった。

「そりゃ君、昭拓邦同志に立候補してもらうために、君を説得するために皆でここに集まったんだから」

 今日の話し合いに参加したメンバーの1人がこう言った。そして、周囲の視線は一斉に拓邦に集中した。

 拓邦は、予想外の展開に「え」を3回連呼し、小さい声で「え」を伸ばすと、気を取り直して、

「何だい、皆僕に注目して」

 と自分のことをじっと見ている党員たちに向かって言った。すると話し合いに参加していた党員の1人が拓邦に向かって、

「昭同志。君は我々若い世代にとっての希望なんだ。分かってくれ」

 党員の1人が、拓邦にこう言った。それでも拓邦はすぐに首を縦に振ったり「はい、分かった」と言わなかった。拓邦は、全員に向かって、

「本当に、僕でいいのか? 本当に僕のことを推薦するんだな? 確かなんだな?」

 と問いつめた。これに対し、この話し合いに参加した党員全員が一斉に首を縦に振った。

 拓邦は、少しの間沈黙していたが、

「よし、わかった。しっかり僕のことを推薦してくれよ」

 と言った。

 話し合いは決した。後日、選挙管理委員会に拓邦たちは立候補の届け出を提出した。

     ※

 中国共産党全国代表大会代表選挙だが、立候補の届け出に当たる「候補者推薦」から「各選挙区内の党員による投票」までの間には、2つの壁がある。

 第1の壁は「考察」と言って、この選挙に立候補する1人ひとりを候補者としてふさわしいかを文字通り考察する。

 第2の壁は「暫定候補者の公示」と言って、考察での振り落としで生き残った暫定候補者を、党系列の各メディアを通じて党員に公示する。これ以降、一般党員内の世論を見て考えた結果、建前として立候補を取りやめる者は必ず出てくる。毎回出てくる。

 これらを生き残った者たちが「確定」候補者として選挙戦に臨める。ちなみに考察をするのは、党内選挙管理委員会だ。

 拓邦は、これらの2つの壁を難なく突破して、名実ともに立候補することになった。今回の選挙戦の日数は、6月の1ヶ月間と7月10日までの、計40日間である。

 拓邦が戦った選挙区の定員は3名で候補者は拓邦を含めると4名だった。そして7月10日の投開票日。翌11日には、完全に選挙結果が出たが、その結果、拓邦は定員3名の内1位で当選した。

 30歳という若さはもちろん、周囲を驚かせたことは、拓邦が戦った選挙区はチベット族の党員が多くいる選挙区だったということだ。

 拓邦を警戒していた者たちは、

「漢族である彼が、わざわざチベット族が多くいる選挙区から立候補しただと!」

「一体何があったんだ? その選挙区には定員と同数のチベット族候補者がいるのに」

 等の驚きの言葉を述べていた。このような結果になったのは、拓邦自身がチベット族の間での評判が高かったことが理由に挙げられる。

 とにかく拓邦は、党大会代表に選ばれた。

 そして、2ヶ月後の2022年9月11日に召集される党大会とよく言われる党全国代表大会のチベット自治区の大会代表団の1人に拓邦の姿があった。

 この大会で拓邦は、共産党中央委員300名には選ばれなかったが、向こう5年間で中央委員が1人以上欠けた場合にその穴埋めとして、中央委員に途中で選ばれる権利を有する「中央委員候補」になった。

 ちなみに、拓邦は2022年の年の瀬に、チベット自治区議会に相当するチベット自治区人民代表大会の議決で5位以下だったが、中国の国家権力の最高機関であり立法機関である「全国人民代表大会」通称、全人代の代表つまり国会議員に選出された。

 これで分かる通り、一般的に国会議員に相当する全人代代表の被選挙権は、国の25歳以上の男女にあるが、選挙権は各直轄市、省そして自治区などの「広域地方自治体」の人民代表大会代表つまり地方議会に議席を持っている議員にしかないというものだ。

 しかもこの国は、共産党による事実上の一党独裁体制であるから、全人代を含めた国内各地の人民代表大会つまり「議会」は、共産党の決定を追認するいわゆる「ラバースタンプ議会」である。

 そして2025年の中頃に、拓邦は中央委員に昇進した。

     ※

 それから2年後の2027年の2月に招集された全国人民代表大会で、形式的だが全代表の拍手喝采・全会一致の賛成で、国家の最高法規である『中華人民共和国憲法』が改正された。

この改憲の特徴は、今まで前文に記されてあった「中華人民は、中国共産党の領導つまりその完全無欠で絶対的な指導の下、相互に団結と協力をして祖国、中華人民共和国の社会を含めたすべてを発展させていく」という意味の文章が「中華人民は、中国共産党との間で一党万民そして党民共治の考えの下、相互に相対的な団結と協力をして祖国、中華人民共和国の社会を含めたすべてを発展させていく」という意味の文章に書き替えられたことだ。

 要するに共産党は、事実上の一党独裁に基づく国家統治を、それまでの絶対的なものから相対的なものに変えたことを意味する。

 拓邦は、この部分的な民主化を心の底から喜び、

「僕も自分が正しいと思ったことを実行に移さなければならないな。この世の中は大きく動いているんだから。この時代の流れが世の中を良い方向へ導くことができるならば、その流れに乗ろう」

 と決意していた。

     ※

 この年の8月上旬。中国共産党チベット自治区委員会館。

 現在ここでは、チベット自治区の事実上の最高指導者である「党チベット自治区委員会書記」を選出する臨時総会が行われていた。

「昭拓邦同志が、党チベット自治区委員会書記に選出されました」

 この会議のためだけに選ばれた仮書記がこう言うと、拓邦は自分が座っていた椅子から立ち上がり、円形のテーブルを囲んでいるその他の各委員に向けて一礼をした。なお、この日から1ヶ月後の9月上旬に開かれた党大会で拓邦は、党中央委員に再選された。

 共産党チベット自治区委員会書記に就任した拓邦は、一礼をした直後に各委員に向かって、

「皆さん、私たちは時代の流れに乗ってもっとこの世の中を発展させようではありませんか!」

 と述べた。拓邦の一人称は基本的に「僕」だが、公の場で話す場合のみ「私」に変わる。」

 その次に、

「一般党員を含めた私たち一人ひとりは、この自治区を持続的に発展させるためにこの地域に適応した諸政策を考えて提案し、そして実行していかなければいけません」

 と述べた。

      ※

 これ以降、拓邦は今までに無かった大胆な政策を検討と実行をした。その例となるものは以下の通りだ。

・チベット自治区内においての信教の自由の部分的緩和。

・チベット自治区内においてチベット族でなくてもチベット自治区内に居住する老若男女ならば、基本的なチベット語の言語教育の履修を原則義務付ける。これについては、法的拘束力をつけるために自身の党中央委員の地位を利用し、党を通じて陳情を行い、特定の民族自治区や民族地域ごとに固有の言語があった場合、地域文化の理解を促す目的でその言語の教育を義務付ける『国内自治区等言語教育基本法』の制定まで漕ぎつけた。

・チベット族と漢族等の非チベット族間の偏見や差別意識をなるべくなくすために、相互の価値観の理解を目的とした、同和、融和そして共和の「三和教育」の考察を実験的に実施。

 等々の政策を行ってきた中で、一番自分の地位を危うくさせる政策は、チベット族の亡命を完全黙認することだった。今まで国境を越えようとした瞬間に銃殺が行われていた。

 この政策を行うにあたって、拓邦は2031年の4月に党自治区委員会館の書記執務室でラジオやテレビを通じて、自分のネイティブ並みのチベット語で、自治区内にいるチベット族に、

「チベット自治区内に居住しているチベット族の皆さん。私は中国共産党チベット自治区委員会書記の昭拓邦です。私はこの地域を事実上治める人間として、この地域の風土と現状に合ったかつそれを理解した政策を実行に移しています。そこでチベット族の皆さん1人ひとりも知恵を出してこの世の中を変えて、動かすという野心を持っていなければなりません。私は、皆さんがその気持ちを持ち、これからの人生を生きていくことを心より願います。しかしながら、私はこの自治区の事実上の統治を任された身だから完全なる分離独立運動は、徹底的に取り締まります。この自治区内で生きる気がない方は、逃亡することを勧めます。今までは、国境を越えようとした逃亡者・亡命者は国境付近で射殺されていましたが、今後は黙認を検討します。今、私の言葉を聞いて亡命を考えている方がいれば、直ちに亡命をして好きなところへ行かなければなりません。そして、そこで子孫を増やし、伝統文化等の価値観を継承していけばいいのです」

 と述べた。所々、拓邦本人にとっては苦渋ともいえる内容の文章もあった。

 拓邦の一連の政策に対して、党中央委員会は警戒していたが、拓邦の政策の結果、チベット自治区内に一定の安寧秩序が持続的に維持されていることと、拓邦自身がチベット族に支持されており、失脚させると秩序が乱れる可能性があったということ、そして仕事の実績から見て手放したくない人材だったので、下手に失脚させることができなかった。

 そして、2032年9月上旬。

 拓邦は、党中央委員に再選できたが、党チベット自治区委員会書記には中央の圧力で再任はかなわなかった。その代わりに、拓邦自身が代表を務めている全人代の常設機関である「全国人民代表大会常務委員会」の構成員である委員に選出された。

 ちなみに、全人代・全国人民代表大会には、毎年招集される「常会」と必要に応じて招集される「臨時会」が制度上存在する。しかしながら、臨時会は滅多に招集されない。何故なら、常務委員会での議決で事は足りているからである。

     ※

 2032年、11月上旬。新疆ウイグル自治区の政府所在地のウルムチ市の中心部にある中国共産党新疆ウイグル自治区委員会館。その館内にある同自治区委員会書記室。

「時代が動いている。我々も何か行動を起こさなければならない」

 書記の杜徹は、自分の机の椅子に座ってこう言った。

「そうです。私たちも新しい時代の流れに乗って行動しなければなりません」

 徹の横で、徹に向かって牧星輝はこう言った。そして星輝は、机に数枚の書類を机の上に徹に見せるように置いた。

 徹はその書類の表紙を見て、

「牧同志、この人は確か君の大学時代の同期ではないか?」

 と言って書類と同封されていた共産党前チベット自治区委員会書記の昭拓邦の写真を少し見た。

「昭同志は、時代の流れを見計らって行動していました」

 その書類には、拓邦が行ってきた主要政策の詳細なデータが書き記されていた。確かに拓邦が行っていた政策を見てみると星輝の言うとおりであった。

その書類群に書き記されている内容に一通り目を通すと、目を輝かせて星輝のことを見て、

「よしっ、我々も行動を起こそうではないか。君を私の補佐役に任命するよ」

 と言った。

 星輝はこれに対して、

「はい、ありがとうございます」

 と返事をした。

      ※

 同年、12月中旬。

 拓邦は、全人代及びその常務委員会の議事堂でもあり北京市中心部にある「人民大会堂」で、新疆ウイグル自治区で始まった社会改良政策を携帯電話のニュースチャンネルで知り、心の中で喜んでいた。

 ちなみに、その見出しのタイトルは『ウルムチの春』だ。

「僕のことを見習ったのかな? 我が友よ、僕のことを観察していたな」

 と言ったら3秒沈黙し、

「それにしても、僕のときはこんなに大々的に報じられていなかったが」

 と言った。

 拓邦は、ニュースチャンネルでの報道を見てこう言って、6秒間沈黙すると鼻から勢いよく息を吸い、

「こうしてはいられない。僕も今まで以上に頑張らないと……」

 と言い、自分の仕事場へ向かい始めた。そして同時に、

(しかし、僕みたいに調子に乗って堂々と行うべきではない。僕は、天命なのかそれでも今こうやって仕事をしているが、僕とは異なりすべてが破滅的に進まなければいいが……)

 と不安を感じていた。

 そして、その不安は現実のものとなる。

      ※

 翌2033年、来年度の一般会計予算の承認が主要議題の全人代の招集を控えた1月17日。

 北京市内の中心部にあり、共産党本部でもある「共産党中央委員会館」。

 現在ここの「小会議室」では、「共産党中央政治局常務委員会」の会議が行われていた。

 全国の共産党員を束ねるのが、全国の共産党員の代表で構成される党大会で選ばれた、定員300名の中央委員

会であることは建前だが、その会合の中央委員会総会は、基本的に年に一度しか開かれない。そのため中央委員

の中から、上級機関の「党中央政治局委員会」に出席できる定員45名の中央政治局委員が選ばれる。

しかし、この政治局委員会も月に1回しか開かれないため、45人の中から党中央政治局常務委員会に出席できる定員15名の政治局常務委員が選ばれる。この党中央政治局常務委員会は毎週1回以上の回数で開かれるため、共産党の最高機関となる。なお、中央政治局常務委員の定員はかつては7人だったが、どういうわけか数年前に15人に増員された。

2033年1月17日現在。

共産党は政権を握っているため、今行われている中央政治局常務委員会は、事実上の国家の最高機関だ。その事実上の国家の最高機関で15人の中央政治局常務委員は、円形のテーブルを囲んで党と国政に関する話し合いをしていた。

「では、私から提案があります」

 今、この会議を仕切っている人物は、前年の秋に開かれた党大会で、新たに選ばれた中央委員の中からその後の総会で、全国の共産党員のトップで「党総書記」そして「紅帝」の通称で知られる「中国共産党中央委員会総書記」に選ばれた金響世、61歳だ。現時点で、この国の最高指導者だ。

「提案と言いますと?」

 会議に参加している中央政治局常務委員の1人が響世に対してこう言った。

 響世は、話を続けた。

「今、我が党の新疆ウイグル自治区委員会が推し進めている、いわゆる『ウルムチの春』と呼ばれる一連の社会改良政策についてです」

 響世のこの言葉を聞き、残り14人の中央政治局常務委員は響世に注目した。響世は、ここにいる

中央政治局常務委員たちが自分に注目したことを確認すると、話を続けた。

「今、新疆で行われている政策は、昭拓邦同志がチベット自治区委員会書記時代に行った一連の文化政策と社会改良政策を、昭同志が行った以上に行おうとしています。昭同志が行った諸政策でチベット自治区はそれ相応の成果も出てきており秩序も安定しています。そして何より我が国からの分離独立を目指す勢力は取り締まると言っていました。だが、新疆ウイグル自治区委員会書記の杜同志からはそのような言葉は出ていません。また、あの自治区はイスラム教徒いわゆるムスリムが市民の主流です。世界は未だにイスラム教武装勢力の破壊活動に震えているが、このままいわゆる『ウルムチの春』が進むと、イスラム教武装勢力に我が国からの分離独立を目指す勢力が付け込まれる可能性もあります」

 響世はここまで言い切ると、持参したペットボトルに入っている清涼飲料水をある程度飲み、また話し始めた。

「今まで我々党中央は、政策の急進さに新疆ウイグル自治区委員会に対してある程度漸進的に行うようにと注意喚起をしてきましたが、彼らは耳を傾けていないようです。本来、党中央は絶対的存在でなければなりません。そのため、党中央の意向にこれ以上従わないならば……」

 会議に出席した響世を除いた中央政治局常務委員は響世に注目し、その全員が次に響世が言いそうな言葉を予想した。そして、

「どうなるかを、思い知らせなければいけません」

 響世のこの発言に中央政治局常務委員は、響世以外全員顔が青くなった。響世は言い切ると不気味な笑みを浮かべた。

 しかし、目は笑っていなかった。

      ※

 2033年、5月25日。

 新疆ウイグル自治区政府所在地のウルムチ市街。

 それは突然起きた。

 1人の男性ウルムチ市民が、何の理由もなく市街を歩いていた。

 すると、背後から何か轟音が聞こえた。その轟音の方向から大勢の市民が、その轟音の発信元から逃げるように悲鳴を上げて走っていった。

 その男性市民は、いやな予感がして振り返ると、そこには装甲車や機関銃等で武装した兵士を乗せたトラックが長い列を作って、その男性市民がいる方へ前進していた。

「じ、人民共和国軍だ!」

 とその男性市民は叫び、どこかへ走り去って行った。

 2020年代中頃までに「人民解放軍」が名称を変更した「人民共和国軍」はその後、ウルムチ市内はもちろん新疆ウイグル自治区全土と共産党新疆ウイグル自治区委員会館を制圧。そして、徹を含めた改革派幹部は人民共和国軍に拘束され社会的に抹殺された。

 人民共和国軍の新疆ウイグル自治区制圧と同時期。中央政府にあたる国務院は、新疆ウイグル自治区全域に3年間で全人代常務委員会の議決を経れば延長可能な戒厳令を発令した。

 この一連の出来事があった5月25日は「5・25」とも表記されることから、この出来事は「5・25事件」と呼ばれることになる。

      ※

 拓邦は、このことを全人代と同常務委員会の議事堂で北京市中心部にある「人民大会堂」で共産党の機関紙『人民日報』を読んで知った。今回の武力行使の正当化と賛美の内容の記事を読み進めていくうちに、拓邦は心の中で静かに憤っていた。

 その時、

「確か、この牧星輝という人物って昭同志と大学が同期でしたよね」

 拓邦と同じ、男性の全人代常務委員の1人が、拓邦が読んでいる新聞を、拓邦の背後からちらっとのぞき込んでこう言った。

 これに対して拓邦は、その全人代常務委員に向かって満面の笑顔で、

「だからどうだと言うんですか?」

 と言い返した。

 あまりの不気味さに、ちら見をしたその全人代常務委員は、

「い、いえ、別に」

 と言って顔を青くしたまま立ち去った。

 1人になった拓邦は、真剣な表情になり今まで読んでいた新聞紙を整え、新聞コーナーに収めて歩き出した。

 そして、心の中でこう誓った。

(このガチガチの党組織を生き残って力をつけて、今に僕が構想している政策を実行してみせる‼)

 その目には、真っ赤な炎が燃えていた。

      ※

 それから2年後の2035年、9月上旬。

 年に1度開かれる共産党中央委員会総会が行われている中国共産党中央委員会館。

 その中にあるお手洗い室の1つ。

 拓邦は、背広の胸に自分の名前が記されている紅蓮のバッチをつけて、1人そのトイレで立ちすくんだ。拓邦が今、付けているバッチの肩書の部分には「中国共産党中央政治局委員」と書き記されていた。

 拓邦は、突然1人お手洗い室の中で、

「いいやったあああっ。僕もついに中央政治局委員に……」

 とまで言い切ると、一旦深呼吸をして、

「ぬあったどおおおおおおおお!」

 と叫び狂喜した。「なったぞお!」と言っているのは間違いない。

 この日拓邦は、総会での選挙で中央政治局委員に選出された。

 中央政治局委員会は、共産党の組織規約によると、共産党はもちろん事実上国家の最高機関である中央政治局常務委員会のすぐ下で同委員会の決した議案を審議・議決と中央政治局常務委員の選挙を行う機関である。

 要するに拓邦も機が熟せば、その中央政治局常務委員に選ばれる地位に就いたということだ。

 拓邦は、お手洗い室の中で1人で狂喜していたが、やがて落ち着くと天井を仰ぎ、

「この国だけではなく、今自分が生きているこの社会と世界が健全な方向へ向かって行けるように、これからも努力をしよう」

 と言うと、お手洗い室を出ていった。拓邦が去っていき、お手洗い室に誰もいなくなると室内の電灯は一斉に消えた。

 なおこの会議で、金響世は次回の党大会の議案の1つを提出して承認を得ていた。それは共産党の党首の称号を、それまでの「中国共産党中央委員会総書記」から「中国共産党中央委員会議長」に変え、権威を高める目的のものだった。

 この日からわずか3日後に拓邦は、国家元首の中華人民共和国主席、通称、国家主席を兼任している響世に、国務院下の閣僚の1つである厚生労働部長に任命された。

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