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9-2    


「車を奪うからユウキはここで待ってて」


「わかった。気をつけて」 


 わたしは何気ない様子で運転席側の窓に近付いた。運転手はまだわたしに気付いていない。建物の四隅を警備しているはずの黒服は見えない。運転手側のフロントドアに背を向けて立ち、後ろ手にドアハンドルのあたりをコンコンと軽く叩いた。この状態でドアを開ける運転手はいないらしい。


 窓を開けるモーター音。3秒後、振り向いて消音器付きピストルを突っ込む。運転手の胸に引き金を引いた。男は大きく体をのけぞらせ、反動でハンドルに覆い被さって動かなくなった。危ない。運が悪ければクラクションが鳴るところだった。


 ユウキを手招きして運転手をトランクに押し込む。ユウキには男と一緒に入ってもらった。そっとトランクを閉め、運転席に滑り込んだ。


 この車はオートマチックミッション。車の運転は訓練小隊で教えてもらった。慌てずにシートとミラーを調整する。エンジンを始動させると静かにアイドリングを始めた。セレクターレバーをドライブにしてアクセルをゆっくり踏むと、大きな車は、ゆるやかに動き始めた。


 車寄せを出たとたん、激しい雨に打たれて前が見えなくなった。ワイパーのスイッチを入れる。邸宅前の国道を通って北に向かえば巨大地下壕へ続く登山道の入り口へ着く。そこまでは車で行く予定だ。距離は約80㎞。燃料計は満タンを示している。左のウインカーランプを点灯させてゆっくり門を出た。


 道を走っている車はまばらだ。どの車もライトを点けていない。カトリーヌが言っていたとおり、敵の車は右側通行だった。わたしたちの国のルールとは反対なので気をつけなければ。街の外れには検問所があるはず。将官旗を掲げている車はクラクションを3回鳴らして徐行すればフリーパスと教えてもらったけれど不安だ。


 ワイパーは動いているが雨が激しくて前がよく見えない。登山道の入り口まで2時間以上かかりそうだ。敵は間もなくあの邸宅の異状に気付くだろう。


 白い立哨ボックスが見えてきた。検問所だ。スピードを落とす。念のため消音器付きピストルを握る。弾はあと3発残っている。


 赤と白に塗り分けられた遮断棒が下りていた。更に近付くとサブマシンガンを構えた4人の黒服がこちらを向いた。そのうちの一人が足を一歩前に踏み出し、×印が描かれた丸いプレートを掲げた。この車を止めようとしているのだ。逃走したことがばれたのだろうか。いえ、まだ早い。クラクションを鳴らせばいいんだ。


 フォン、フォン、フォン


 カトリーヌに教えてもらったとおり3回鳴らした。黒服たちがきびきび動いて遮断棒が上がった。ほっとしてアクセルを軽く踏む。


 しばらく進むと道幅が広くなった。時々トラックとすれ違う。土砂降りの雨のおかげで車内は相手には見えないはずだ。後ろにも前にも車は走ってない。けれどあの邸宅を出発してから1時間半も経っている。そろそろばれているはず。でも焦ってはいけない。事故をしたり道に迷ったりしたら取り返しがつかない。


 大きな左カーブを曲がった。たぶんここだ。車を停めて地図を確認する。カトリーヌが教えてくれた道をみつけた。すぐ右折して車の幅と同じくらいの細い林道に入った。しばらくするとかなり急な上り坂が現れた。激しい雨で前がよく見えない。大きなボンネットに視界が遮らてどこに道がついているのかよくわからない。深い轍にハンドルを取られ、エンジンが唸った。後輪が滑って右から岩壁が迫ってきた。左側は崖。このあたりは谷底まで100m以上あるはず。ガードレールも縁石もない。落ちたら終わりだ。アクセルを絞ってじりじり登る。


 急な下り坂になった。セレクターレバーをローにしたけれど、エンジンブレーキはあまり効かない。フットブレーキを踏むと車が勝手な動きをする。恐い。


 汗だくになりながらハンドルを握りしめて必死にコントロールする。けれどついに道を塞ぐ大きな岩に阻まれてしまった。


 登山道の入り口まではまだ遠い。ドアを開けると一瞬でびしょ濡れになった。車の後ろに回ってトランクを開けると、ユウキがピストルを構えてわたしの心臓をぴたりと狙った。


「ユウキ、わたしよ」


 彼はほっとした表情を浮かべて銃口を下げた。


「アオイ、計画どおり進んでいるみたいだね」


「少し遅れているけれど今のところ順調よ。ここからは一緒に歩きましょう」


「わかった」


「車を処分するから手伝って」


「抜かりが無いな」


「これも作戦なの。ほぼ予定どおりだから安心して」

 

 カトリーヌありがとう。あなたのおかげでここまで来ることができた。もう異変は察知されているだろう。できるだけ早く遠くに行こう。わたしたちは車を押して谷に落とした。起伏の激しい荒れた林道を歩いて3時間後、細く険しい登山道に入った。ここから巨大地下壕まで20㎞。険しい山道が続く。


 3㎞ほど歩いて一つ目の峠を越えた。もう少し先に行けばセルフディフェンスの守備範囲だ。なんとかして巡視隊に会いたい。わたしたちは食料も通信手段も持っていない。


 雨の勢いが弱まってきた。濡れた岩の上はツルツル滑る。靴擦れができて、これ以上歩けないほど痛い。


「ユウキ、靴擦れが痛くて……。靴下だけで歩くことにする」


「靴が小さいのかい?」


「大きいの。変なところに足が当たってるみたい」


「靴を脱いでごらん」


 岩に座って編み上げ靴を脱いだ。ユウキはしばらく靴の中に手を入れて何かを探るように動かした。


「足を見せてごらん」


 彼はわたしの両足から厚い靴下を丁寧に脱がせた。そして何かを確かめるように大きな手でゆっくり撫で始めた。あたたかい手。でも……


「ユウキ、くすぐったい!」


「アオイ、もう少し我慢して」


「くすぐったくて死にそう」


「足に異常はない。靴をちょっと調整すればなんとかなるよ。山岳部の先輩に教えてもらったんだ」


 彼はポケットからバンダナを取り出すと微笑んだ。


「これ、使ってもいいかな?」


「あっ。それは……」


「そう、君にもらった誕生プレゼントだよ。これをつま先に詰めるんだ。切ったらちょうどいいサイズになる。もったいないけど役に立つ。いいかな?」


「ええ、お願い」


 彼はナイフでバンダナを真っ二つに切ると左右の靴に詰めた。


「アオイ、足を入れてみて」


 濡れた靴下をよく絞って履いて、靴に足を滑り込ませた。


(かかと)を靴に密着させてごらん。ほら、こうするんだ」

 

 ユウキは靴の爪先を空に向けて、踵で地面を軽く蹴った。わたしも同じようにした。それから彼は私の靴のつま先を何度か押して靴紐を調整し始めた。かなり絞っていく。だんだんぴったりになってきた。


「これでいい。ちょっと歩いてごらん」


 岩場に立ち上がって足を踏みしめた。痛くない……。岩の上をぐるぐる歩いて感触を確かめた。とってもいい感じ。これなら大丈夫。


「魔法でも使ったの? 別の靴みたい。ありがとう。助かった」


 いつのまにか雨は上がっていた。この時のわたしは心に余裕ができていたのかもしれない。疑問に思っていたことをついユウキに聞いてしまった。


「ユウキ、あなたはわたしを助けるために来たの?」


「当然だ」


「ありがとう。ユウキの気持ちはとても嬉しい。でも、もうわたしのためにあなたの身を危険にさらさないでほしいの」


「どうして?」


「とても申し訳なくて……。わたしを助けるために5人も犠牲になったってある人から聞いたの。あなたも危なかった」


「5人……。確かに5人だ、間違いない。アオイ、実は……。いや、やめておこう」


「ユウキ、どうしたの? 言えないことでもあるの?」


「いや、そんなことはないけれど」


「何なの? 何があったの? わたしに教えて」


「実は、救出隊の隊長はスズキ中尉だったんだ」


「えっ」


「中尉はアオイを絶対に助けると」


「まさか、そんな……  ユウキ、嘘でしょう。嘘だよね。嘘だと言って、お願い!」


「アキラ、ハルキ、サツキ、アカリ……。みんな君を助けたいと願って志願したんだ」


「アキラたちも……」


「アオイ…… 君の気持ちはわかる。僕も悲しい。僕はスズキ中尉やアキラたちを助けることができなかった。信頼できる人たちが、一度にこの世から消えてしまった」


 ああ…… 大切な人たちが……わたし一人のために……


「ユウキ、ここから先はあなただけで行って」


「なんだって?」


「もういいの。もう終わりなの。終わりにしたいの。ああ、もういや、いやなの。もう、こんなことやめたい……わたし、もう歩かない。あなたは生きて。わたしはもうだめ……」


 わたしは岩の上に突っ伏して泣き崩れた。


「アオイ、何を言ってるんだ。スズキ中尉やアキラたち聞いたらどう思う? ショウやモエだって君に生きてほしいと願っているはずだ。君の命は君一人のものじゃないんだ!」


「わたし一人のために、わたしが生きるためにたくさんの人が死んでしまったのよ。もうこんな世界はいや。一人にしてほしい。もう誰のことも仲間だなんて思わない。もう誰とも友達になんかならない。もう誰のことも好きにならない。もう誰も愛さない。友達になっても仲間になっても好きになっても悲しみが大きくなるだけ。好きになればなるほど悲しみが大きくなるなんてもう耐えられない。死んでしまったみんなにお詫びをしてこの世から消えたい」


 ユウキはわたしを膝の上に抱きかかえて、低い、落ち着いた声で語り始めた。


「みんな君を助けたい一心で志願したんだ。君を辛い目に遭わせたくない、君の喜ぶ顔が見たい、そう願って戦ったんだ。君に謝ってもらおうなんて誰も思っていない。君が生きていてくれさえすればいい。いや、違う。君は生きなければいけないんだ。君を救おうとして命を落としたのがぼくだとしたらそう思う。君はぼくの分も生きなくてはいけない。生きてほしいんだ。みんなそうだ。みんなぼくと同じことを思っているはずだ。死ぬほど苦しくても君は死んではいけないんだ」


 ユウキはわたしの目をじっと見て続けた。


「僕の瞳の奥には今、君がいる。わかるだろう?」


「……」


「これからも、もっとたくさんの君の姿をこの瞳に映したい。永遠に……。今僕が見ているアオイを最後のアオイにしないでほしい」


「ありがとうユウキ。けれどわたしはあなたを何度も窮地に追い込んでしまった。それがあなたの望む永遠へのわたしの答えなの。そんな惨めな永遠なんて永遠に滅んでしまえばいい。わたしはあなたを不幸にしたくない。わたしのことはもういいのよ」


 ユウキは何も言わなかった。彼の腕と胸のぬくもりが濡れた服をとおして伝わってきた。なんてあたたかいんだろう……


「アオイは何を恐れているんだ? よかったら教えてくれないか」


「ユウキが死んでしまうことが恐い。わたしを助けるためにあなたまで亡くなってしまったら、わたしは死ぬよりも辛いのよ。それでもわたしは平気で生きて行かないといけないの? そんなの無理。わたしにはできない」


「たとえ僕が君を救うために死んだとしても君は生きなくてはならないんだ。どんなことがあっても」


「……」


「もしも君が誰も信頼していなければ、誰も好きにならなければ、誰かを愛していなければ、自分のためにどれだけの人が死のうが何も感じないだろう。今君が苦しんでいるのは人を信頼しているからだ。人を大切にして、好きになって、愛しているからなんだ」


「……」


「アオイの苦しみは、人を愛する限り必ず乗り越えなければならない険しい山なんだ。僕は君が歩き始めるのをいつまでも待つ」


 ユウキは瞳に涙を浮かべていた。


「わたしが歩かなければ、あなたも歩かないつもりなのね」


「一緒に歩こう。アオイ、どうか僕の願いをかなえてほしい」


 彼はわたしの手を握ってゆっくり立ち上がった。わたしたちは再び歩き始めた。

 

 太陽がわたしたちを照らしている。歩いていると体が温まる。ユウキが靴を調整してくれたおかげで足は痛くない。わたしたちは黙々と歩き続けた。



 ◇



 日が暮れると明るい半月が昇った。月の光に助けられて固い雪に埋もれた沢を登った。早く巡視隊に会いたい。

 

 稜線に出た。両側がすっぱりと落ちた稜線の先に、大きく空に突き出したドームのような岩塊があった。岩の下には月に照らされた人影が見える。1,2,3,4,5人。


「ユウキ……人がいるわ。5人。ほら、あの大きな岩の下に」


「本当だ」


 さらに近付いて凝視する。見える。ああ! わたしたちの国の迷彩服!


「味方の迷彩服! きっと巡視隊よ!」


「アオイはここで待ってて。確認してくる」


「わたしも一緒に行く」


「気になることがあるんだ」


「何なの?」


「いや、なんでもない。たぶん僕の気のせいだ。すぐ戻る」

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