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「ねぇモエ、あれが見える?」
手摺りに寄りかかったまま器用に居眠りしている彼女の肩を、人さし指でそっとつついた。
「なあに? どうしたの? もう終わったの?」
彼女はいつものとおり、のんびりした甘い口調で言うと、にこっと笑ってわたしを見た。本当にのんびり屋さんだね、モエは。おっとりして穏やかな彼女は基本的に誰にでも優しい。わたしはそんなモエが大好き。
「海を見てほしいの。あれ、何だと思う? モエにも見えるかな」
モエの長い睫毛がくるっと上を向いた。
「ほら、あれだよ」わたしは海を指差した。
「黒いものがいっぱい浮いているね。船なのかな……。でも、どうしてあんなにたくさん集まっているのかな。アオイ、わたし今までこんなの見たことないよ。なんだか恐い……」
優しい微笑みを浮かべていたモエの横顔が少し曇った。
「やっぱり何か変よね。みんなに知らせようか?」
「うん、それがいいと思うよ」
わたしは振り返って、呼びかけた。
「ねえ、ねえ、みんな! 海を見て! あれ、何だと思う?」
「えっ? なに、アオイ?」「どうしたの?」「なんなんだ?」「アオイさん、何かあった?」
「ほら、沖に見える黒い点。ものすごい数でしょう」
みんなこっちに来た。
「なんだあれ?」「ごま粒みたい」「きっと船だろう」「いったい何があったの?」「黒いね」「あんなの見たことない」「ただのゴミだよ」「胸騒ぎがする」「不気味だ」
みんな口々に言い合って、屋上は騒然となった。
「天体望遠鏡で見てみよう」
大きな声がした方を見ると、ショウが天文ドームを指差していた。彼の隣にはユウキくんがいる。
みんな、一瞬で静かになった。
「モエさん!」
ショウがモエを呼んだ。
「はーい」と返事をしたモエは、ショウとユウキくんが立っている所に走って、一緒にドームに向かった。他にも何人かついていった。
モエが入口のカギを開けると、ショウたちは一気に中に入った。
少し待つとドームが開いた。中からショウの声が響いた。
「漁船のようなものが40隻ほど見える。どの船にも人が…… 黒い服を着た人が乗っている」
漁船のようなもの? 黒い服の人たち?
「よくわからない! ショウ、船は何をしてるの?」
わたしはドームに向かってそう叫んだ。
「それが、さっぱりわからない。漁をしているようには見えない。貨物船でもない。客船には見えないのに、とにかくたくさんの人が乗っている。一隻に100人以上だ。ああっ、すごい勢いでこっちに向かって来た。速い、速すぎる」
海を見たら、彼の言うとおりだった。黒い船が急に動き始めた。 船が向かっているのは、もしかしてわたしたちの街の港?
天文部室からショウたちが出てきた。みんなが自分の意見を言い合った。
「あれは普通の船じゃないよ」「そんなにたくさんの人が乗ってるなんて異常だ」「映画のロケ?」「難民?」「宇宙人の侵略?」「たぶん港を目指してる」「上陸するんじゃないの?」
誰も本当のことはわからない……。けれど、普通ではないと誰もが感じている。
「ショウ、大変なことになるかもしれない。警察かコーストガードに連絡した方がいいんじゃないか、職員室で事情を話して、学校から」
ユウキくんの、落ち着いた声だった。
「おまえの言うとおりだ。俺もそう思う」
「みんなはここに残ってくれ! 俺とユウキは下に行って通報してくる」
でも、わたしたちはショウを先頭に、クラス全員がダダダダッと階段を駆け降りた。
「失礼します」
1階の職員室に入った。5人ほどいた先生たちに屋上で見たことを伝えた。けれど、どの先生もショウの話を信じてくれない。
職員室の窓からは松林が邪魔して海が見えない。担任のカドタ先生は、
「たくさんの船? それがそんなに珍しいことなのか? 海なんだから船なんがいくらいてもいいじゃないか。何の問題も無いだろう? 誰も困らない」
と断言してテレビのスイッチを入れた。でも、それらしいニュースはしてなかった。
「ほら、ほら、ほら! 何も起こっていないぞ。黒服が100人乗った黒い船? 何十隻も? どこか遠くから来た船が漁をしているだけなんじゃないのかぁー? それに、手で網を引っ張り上げるなら一隻に20人も30人も人手がないと無理なんだぞ。この前テレビでやってたから先生は知ってる。さあ、戻った戻った。もうリハーサルを始めてもいい時間じゃないのか? 期待しているからなー」
カドタ先生はあきれ顔でそう言い放った。わたしたちはすごすごと職員室を出た。屋上に戻る気にはなれない。自分で警察に通報する気にもなれなかった。わたしたちは行くあてもなく校舎の外に出た。「第88回グローブ学園高校文化祭」という大きな横断幕が渡された校門が見えた。松林に遮られて、ここから海を見ることはできない。
あたりには派手な看板がいっぱい立ってて、イベントを準備するたくさんの生徒でごった返していた。でも、誰もあの黒い船団のことは知らないんだ……。わたしは、隣にいるショウに話しかけた。
「ショウ、どうする? とんでもないことが起きかけているって、それはわたしにもわかるけど」
「アオイはどう思う。あの船は何をしているのか、何がしたいのか、俺にはさっぱりわからないんだ。港を目指しているとしたら、その理由はなんだろう」
「わからない。でも、ここで話していても何もわからない。ショウは何が起きているのか、事実は何なのか、はっきりさせたいんじゃないの?」
「ああ、もちろんそうだ」
「港に行ったらもっと詳しいことがわかるかもしれないよ。行ってみる?」
「そうだな。行ってみよう」
ショウはそう言って笑顔を見せた。そしてユウキくんの方を振り向いて、「港に行ってみないか?」と誘った。ユウキくんは低い声で、「行こう」と返事をした。
ショウはクラスのみんなに「俺はこれから港に行く。どうしても行きたい人だけ一緒に行こう。それ以外の人は屋上で準備を続けてほしい」と大声で叫んだ。
「行きたいと思ってたんだ」「連れて行ってほしいな」「一緒に行こう」「気になって、文化祭どころじゃないよ」
40人全員が港に行きたがっている。わたしたちはみんなで港へ向かった。
「近道を行こう」
ショウを先頭に、地元の人しか通らない海岸沿いの細い道に入った。ところどころ畑の跡があって、コスモスがたくさん咲いている。
海に突き出した半島を横切って林を走って、小さな峠を越えて、下り坂の途中、松林の切れ目から、見えた! たくさんの黒い船が港に入っていく。
「港にパトカーが来てるぞ!」
「ほんとだ。消防車や救急車も」
港には、警察官も、消防団も、あんなに!
「ショウ、こんなの初めて見た。普通じゃないよね」
「俺もそう思う。見ろ! 港が黒い船で埋まっている」
「さっきの船よ」
「アオイは恐くないか?」
「恐い? 恐くはない。好奇心の方が強いかな。ショウは何を恐れているの?」
「それが、よくわからないんだ」
「珍しいね。いつもはどんどん進むのに。事実を知るためならどこにだって。そうでしょう? 新聞記者の卵さん!」
「事実を知りたくないわけじゃない。何の理由もないのに体が震えて足がすくむ。……こんなことは生まれて初めてだ」
「ショウ、止まって!」
立ち止まった彼の胸に、一発、パンチをお見舞いした。
「やったな!」
彼がパンチを返してきた。手加減しているのがわかる。彼の拳を両手でバシッと受け止めた。彼が笑う。わたしも笑った。
「アオイ、もう大丈夫だ。震えていたのが嘘みたいだ。行こう! みんなに追い抜かれてしまった。追いつこうぜ!」
「いいわ、競争よ!」
ショウとわたしはダッシュした。彼に敵うわけないんだけど、全力で走る。
港のゲートを抜けて岸壁に近付いた。トラックの排気ガスを濃くしたような変な匂いがしおかぜに混じってる。たくさんの黒い船が岸壁に横付けている。
どの船もペンキが剥げていて、黒と言うより赤茶けた錆の色。船には黒い服を着た人たちがこぼれ落ちそうなほど乗っていて、呻くような声が聞こえてくる。
一番大きな船のデッキに黒い眼帯をした大きな男。その男は、岸壁に立つ3人の警察官と大声でやりとりしている。
話しているのは世界共通語といってもいいほど多くの国の人たちが理解できる言語。わたしたち全員が義務教育の頃からずっと学んできた遠い異国の言葉だ。少し遠くて内容は聞き取れない。
「アオイ、ものすごい数の人だね……。これは本当にすごいよ」
「ねぇショウ、聞こえる? 黒い服を着た人たちが喋っている言葉、どこかで聞いたことがあるよね」
「本当だ。隣のA国と、その隣のB国の言葉に似ている」
すると、近くにいたユウキくんが、「あれは確かにA国の言葉とB国の言葉だよ。どちらも強烈な独裁国家だ。その二つの国の人たちが同時に船で大量に渡ってきた。なんだか引っかかる。ショウはどう思う?」と言った。
「俺にはよくわからない。ユウキ、おまえはこの事態をどう思っているんだ?」
「実は僕にもよくわからない。ここにいて新しい情報を得よう。警察官がこれだけいるから余程のことがない限りだいじょうぶだ」
「余程のことって、どういうことだ?」
「黒い船がここに来たのは何か目的があるからに違いない。目的がわかれば、何が起きるか想像できる。でも、肝心の目的がわからない」
「目的か…… なんだろうな」
「なんだか恐い」
モエが小さくつぶやいて、泣きそうな顔になった。
「だいじょうぶだよ、僕がついているから」
ユウキくんがモエの手を握った。わたしたちは埠頭の真ん中へ移動することにした。
いつもは何もない所に大きなテントが張られている。たくさんの警察官が無線機や電話を使ってどこかに何かを連絡していた。
一番威厳のある警察官がその中心にいた。その人は受話器を耳に当てて、見えない誰かに一生懸命頭を下げて、「どうか人道的な配慮を」と大声を出していた。
ショウがテントに行って取材してきた。黒い船に乗っているのは、海の向こうにあるA国の遭難漁民と、その隣のB国から脱出した政治難民らしい。昨日の嵐で吹き寄せられた……というのが公式な見解なんだって。
「本当にそうならいいんだ」
ユウキくんはそう言って黒い船をにらんだ。
「それってどういう意味なの?」
「アオイさん。もし黒服を着た人たちが難民を装ったテロリストだったり、軍人が遭難漁民のふりをしていたらどうする?」
「それは大変……。でも、こんな田舎の港に来てどうするの?」
「住民を人質にして何かを要求するつもりだとしたら」
「……考えすぎよ」
「俺もアオイと同じ意見だ。おまえは考えすぎだ」
「そうか。不安にさせて悪かった」
指揮所から大きな拍手と歓声が湧き上がった。警察官たちが喜んでいる。ショウがテントに行って聞いてきた。「政府の人道的な配慮で難民と遭難漁民に上陸許可が下りた」とのことだった。
政府ってわたしたちの国の偉い人たちのことだよね。……ということは、黒い船殻たくさんの人たちが降りてくるんだ……。わたしにも何かできることがあるかもしれない。大変かもしれないけれど、役に立ちたい。
「グローブ学園高校を収容施設として提供することになった」という声が指揮所から聞こえてきた。
「大変、ロミオとジュリエットが……」
モエはユウキくんの手を握ったまま、困ったようにわたしを見つめた。
「そうよね、あんなに一生懸命に準備したのに。とても残念」
ああ、みんなで頑張ってたくさんの衣装を揃えたのに……。でも、人助けのためなら仕方ないよね。
警察官が数人、一番大きな黒い船に向かって走っていった。黒い眼帯の男と話している
警察官に何か伝えたみたい。
黒い眼帯の男が笑顔を見せた。男は警察官に向かって手を振りながら船の中に消えた。
長い汽笛が鳴った。黒い船から長い板が岸壁に伸びて、降りてくる人たちは誰もが黒いマントのようなものを着ていた。みんな最初はゆらゆら揺れていたけれど、しっかり歩き始めて、血色がよくて体格もいい。思い描いていたイメージとは全然違う。
警察官と消防隊員が黒い服の人たちに穏やかに声をかけて誘導している。たばこを渡して火を点けたり、ペットボトルを配ったりいろいろお世話しているのは街の消防団の人たち。
岸壁に横付けできない船の人たちは、船から船を渡ってどんどん上陸してくる。
でも、何か変。これだけたくさんの人がいるのに、老人と女性と子供の姿が見当たらない……
「ねえ、お年寄りと女の人と子供たちの姿がないよ」
ショウを見上げて疑問をぶつけてみた。
「言われてみたら、本当にそうだ。政治難民らしいから子供はともかく、女性が一人もいないのはおかしい」
するとユウキくんが、
「確かに若い男ばかりだ。それも体格がよくて元気にあふれている。どう考えてもおかしい。彼らは遭難漁民かもしれないけれど、難民ではない」
と断言した。
「いったい何なの?」
モエの声は震えていた。
「とにかく、気をつけた方がいい。モエ、僕のそばから離れないで」
ユウキくんはモエの手を握り直して、彼女の耳元で何かささやいた。
でも、難民はいないってどういうことなのかな。後で聞いてみよう。今はモエを安心させるのに忙しいみたいだし。
わたしはショウの制服の裾を引っ張った。
「ねぇショウ、どう思う?」