1-1 + 幕開け +
「アオイ、大変! ジュリエットの白いドレスが真っ黒になってるよ!」
ああ、これはロレンス神父の服だから黒くていいの。心配ないのよ。
「モエ! 目は覚めてる? それとも熱でもあるの?」
彼女の肩に手を置いて、めいっぱい背伸びして額に額をぴたりと当てた。ひんやり心地いい。熱はないみたい。
「これはモエが縫ったのよ。お願いだから思い出して」
モエの綺麗な瞳に瞳を近づけて、おもいっきり顔をしかめてみせる。
「あ、思い出した、これはジュリエットのドレスじゃなくて男の人の衣装よね」
モエの意識が戻った。彼女は嬉しそうに笑って、わたしをぎゅうっと抱きしめた。
「そうだよ。ロレンス、神父の、司祭服だ、よ。モエ、苦しい……」
「すっかり忘れてた。あーびっくりした」
そう言ってわたしを解放した彼女は、気持ちよさそうに両手を空に伸ばして太陽に顔を向けた。
モエはとってものんびりやさんの空想家。気が短くて現実的なわたしとは正反対。だから気が合うのかな、小学生の頃からの親友なんだ。彼女はクラスの女子で一番背が高くて、話をする時は身長165㎝のわたしでもちょっと見上げるような感じ。
モエはまるでモデルさんみたいなの。色白で優しい顔立ち。さらさらした長い髪。白いスカーフと紺色のセーラー服が似合いすぎるほど似合ってる。夜空を見るのが何よりも好きな彼女は天文部に入ってて、毎晩遠くの星とか銀河を見てるんだって。
グローブ学園高校は今日から文化祭。わたしたちの島国を大きな嵐が縦断した翌朝。空気は澄み切って、太陽はわたしたちを照らして微笑む。このまま永遠に平和が続くかのように。
文化祭は午後から始まるんだけど、きのうは嵐のせいで休校になってしまったから、今日はどのクラスも準備が大変。
わたしたちのクラス、1年2組40名はシェークスピア劇を上演する。朝一番に観客用の椅子を教室から運び上げて、校舎の屋上ステージの前に並べた。ステージと言っても、音楽教室の屋根が少し高くなってて、まるでステージみたいってだけなんだけどね。
今、それぞれのパートに別れて追い込みの真っ最中。わたしとモエは衣装の担当で、最終チェックをしているところなの。本番までに一度リハーサルがあるし、お昼ご飯も食べないといけない。わたしは食いしん坊だから、お昼抜きとかあり得ない。急がなくては……
「アオイ、次はロミオの青いケープ」
「OK!」
「はーい。それとね、今度こそジュリエットの白いドレス」
「ああ! それはロミオのシャツ……」
一人で準備した方が絶対に早く済むんだけど、こうやってモエと一緒に何かしていると心が癒やされて落ち着く。不思議だなあといつも思う。ちなみにわたしは演劇部員。部活でも大道具と小道具と衣装担当だから、こういうことには慣れている。
えっ、そんなにかわいいのになぜ舞台に立たないのかって? かわいいって言ってくれてありがとう。とても嬉しい。わたしが舞台に立たないのはね、悲しくもないのに泣いたり、おかしくもないのに笑ったりができないから……というのは言い訳で、絶望的に演技が下手なの。
じゃあ、なぜ演劇部に入ったのかって? それはね、中学生の時に大きな街へ行ってミュージカルを見て、強く惹かれたから。その頃はテニス部に入っていたんだけれど、高校生になったら絶対に演劇部に入るって決めたんだ。
舞台に立ってスポットライトを浴びるのも悪くないけど、舞台の背景をいろいろな色に染めるホリゾントライトも好き。茜色のライトは、絶対これは夕焼けよねって思ってしまう。現実的なわたしでだってその世界に入り込んでしまう。
青い色のライトは、そうね、明るい青だと青空。暗い青だと夜空かな。海の中かもしれない。じっとみつめていると宇宙の真ん中に浮かんでいるみたいだし、真っ青な海をどこまでも深く潜っているような気もする。舞台って本当に不思議。どんな世界だって表現できるから。
そんな特別な世界で、自分たちが準備した衣装や大道具や小道具が演技を引き立てて大活躍するの。舞台が生き生きしてるとドキドキする。躍動感のある舞台をみんなで作っていくのが大好き。演劇部は明日を上演する。この学校は死ぬほどシェークスピアが好きなんだと思う。ちなみに、去年は《マクベス》だったんだって。
そういえば、ハムレットにはとっても有名な『生きるべきか死ぬべきか、それが問題だ』というセリフがあるけれど、この問いに対するわたしの答えは『生きる』だ。わたしはどんなことがあっても生きる。どんなに辛くても、どんなに苦しくても、地球に誰もいなくなっても、たとえ一人ぼっちになってしまっても、わたしは生きる。実際にそうなってみないと本当のことはわからないけどね。
衣装のチェックは思ってたより早く終わった。でも、お弁当にはちょっと早いかも。あんまり早く食べると途中でおなかがすいて大変。もう少ししたらオニギリをひとつ食べよう。そろそろ最終の全体リハーサルが始まる時間だし、モエと一緒に海側の手摺りに寄りかかって、台本に目を通すことにした。キンモクセイの甘い香り。
「ねぇアオイ、とてもいい天気だね。海が青くてとってもきれい。暖かくて、ぼーっとなって、眠たくなってしまう」
「そうね。こんな天気がずっと続いてくれたらいいな」
「ちょうどね、今夜は満月なの。きっと綺麗な夜になると思うよ……。でもね、あと2週間したら新月になって真っ暗だから、おうし座の流星群がよく見えると思うなあ。そろそろシーズンが始まってるの。あの浜に一緒に見に行こうよ」
「んん……モエ、流星群ってなんだったっけ?」
「お星様が空からいっぱい降ってくるんだよ」
「あっ、思い出した。去年も見に行ったね、流れ星の大群」
「受験生なのに行っちゃったね」
「よくばって、いっぱい願い事したよね」
「ううん、ひとつだけだよ。グローブ学園に合格しますようにって。アオイはほかにもお願いしたのかなぁ」
「ふふっ、それは内緒」モエもわたしも願いは叶ったみたいだからね。「モエ、今年も行こう。でも、去年はとっても寒かったよね」
「寝袋を借りて持って行く。ねっころがって星を見たら暖かいよ」
そうか、モエの彼は山岳部員だった。
「ねえ、モエはユウキくんと一緒に見たいんじゃないの?」
「そうだよ。アオイもショウくんと一緒に来て。みんなで一緒に見ようよ」
ちょっと照れるけれど、わたしにも彼がいて、ショウって名前なんだ。バスケットボール部に入っていて、1年生なのに試合に出てる。彼はあまり日に焼けてなくて、どちらかというと色が白いんだけど、水泳も得意。
夏休みに街外れの砂浜に誘われた。わたしは泳ぎが苦手だからどうしようか迷ったんだけど、ショウは広い背中にわたしを乗せて泳いでくれた。平泳ぎでぐいっぐいっと青い波をかき分けていく彼は逞しくて、海がこんなに楽しいなんて知らなかった。「アオイはちっとも重たくないね、海の中では……」なんて余計なことを言わなければもっとよかったんだけど。
なぜ付き合うようになったかって? 高校に入学したら同じクラスに背が高くてかっこいい男の子がいて。憧れてたら、春の体育祭の後に告白されたの。それがショウだった。
体育祭で、彼はクラス対抗リレーのアンカーを走った。でも、最終コーナーで、ほかのクラスのアンカーがインから抜こうとして絡んで、ショウだけ派手に転んでしまったの。立ち上がって最後まで走り切ったけど、とても痛そうで……
わたしは救護係だったし無我夢中で駆けつけた。彼は膝に怪我をして血を流してた。ペットボトルの水で泥をしっかり洗い流して、丁寧に包帯を巻いてキュッと縛った。「これでだいじょうぶ!」って彼の目を見て言ったら、澄んだ目でまっすぐ見つめられて、ドキッとして急に胸が熱くなって……。彼もその時、「運命の人」って思ったんだって。
ショウは心も体も大きくて、そばにいると安心する。新聞記者になりたいらしいんだけど、彼の文章は難し過ぎて、よくわからないことがある。そんな時は「わたしにも分かるように書いてね」って注文する。
今日の彼は、ロミオのお父さんのモンタギュー卿を演じる。それはそれでとっても渋い役で悪くないんだけど、わたしはショウに、ロミオの親友のマキューシオを演じてほしかったな。クラス委員長もしているショウの、普段とは違う刹那的な姿を、演技でもいいから見てみたい。
わたし? わたしは看護師志望。高い技術と強い精神力を持った、患者さんに頼ってもらえる優しい看護師さんになりたい。わたしのお母さんはこの街の病院で看護師をしている。きっとその影響なんだと思う。
立派な看護師さんになるためにはスタミナだって大事。無理なダイエットはしない。だからそれほど痩せてないし、骨格がしっかりしてるから背の高さ以上に大きく見えるみたい。演劇部では力仕事が多いし基礎体力作りは運動部と同じくらい厳しい。わたしはいつもおなかをすかせてるの。 ……ああ、だからくいしんぼうって言われるのかなあ。本当はモエのようなすらっとした姿にあこがれているんだけどね。
「アオイ、どうしたの?」
「ううん、なんでもない。ちょっと考えごとをしてただけ」
わたしはくるっと体を回して背中を海に向けた。屋上の隅には銀色のドーム。あの中には大きな天体望遠鏡がある。ドームが載ってる四角い台座は天文部の部室になっていて、モエたち天文部員は放課後になると毎日楽しく星の話をしてて、毎週土曜日は望遠鏡で一晩中星を見てるんだって。
そういえば、モエは昼休みになるとユウキくんっていう彼と天文部室のソファーに座って、二人でのんびりお弁当を食べてるらしい。
ユウキくんは同じクラスの、ちょっとかっこいいけど無口な男子。「彼と付き合い始めたきっかけは何だったの?」ってモエに聞いたら、「私にもよくわからないの。いつのまにか二人で過ごす時間が長くなっていたの。ユウキくんと一緒にいると幸せ。彼もね、とても幸せだよ、いつまでも一緒にいようねって言ってくれるの。これって付き合っているってことなのかなあ、そうだといいなあ」って答えてくれた。「モエ、それは誰がどう見ても付き合ってるってことだよ」って言ったんだけど。
山岳部に入っているユウキくん。背の高さはモエと同じくらいだけど、逆三角形の厚みのある体格はとても威圧感があって、最初は少し恐かった。でも、モエに紹介されてじっくり話をしたら、真面目で落ち着いた人だったから安心した。
感情をあまり表に出さないユウキくんを見ていると、山に登って何が楽しいんだろうって思うことがある。重い荷物を背負って険しい山道を登るなんて苦しいだけのような気がする。ユウキくんの楽しみとか幸せって何なのかな。
ユウキくんに、「モエのことをどう思っているの?」って聞いたことがある。
そうしたら、「彼女は僕に優しさと愛おしさと、天体の法則の不思議を教えてくれる。一緒にいると、人として大切なことを感じることができるんだ。大切なことは、美しく生きることだ。僕は美しく生きたいと思う。彼女も美しく生きたいと望んでいる。僕たちは生涯を賭けてその望みをかなえるつもり」なんだって。
言葉が硬くて、真面目すぎるような気がするけれど、「モエと一緒に暮らしたい」ってことだよね。ずいぶん大胆な発言だなって思う。
そういえば、モエはユウキくんと一緒に山に登ってるって言ってた。山頂に寝転んで二人で一緒に毛布にくるまって、手をつないで星を見るんだって。天の川がとても近くにあって、信じられないほど綺麗らしいの。ロマンチストなんだね、二人とも……。モエとユウキくんの気が合うのはわかる気がする。きっとのんびりした彼女を、しっかりした彼が優しくサポートしてるんだろうなあ。
わたしとショウはそうではない。どちらも同じように気が強いから、たまにケンカする。他愛もないことばかりなんだけど、一度大ゲンカして大変だったから、それからは一晩置いて頭を冷やして、次の日に静かに話し合うことにしている。考え方が違うポイントがわかったら譲り合えるところを見つけて仲直りする。でも、中途半端なままではどちらも妥協しない、とわたしは思っているけれど、こんなにきつい性格のわたしでもつつみこんでくれる優しさ、というか理性的な思いやり、みたいなものがショウにはあるんだと思う。仲直りのきっかけはいつも彼が与えてくれるから。
最近、《男女の間に友情は成り立つか?》っていう話をしたんだけど、わたしは「無理」、彼は「成り立つ」って意見が分かれて、「友達だったら男の子と女の子が二人きりで泊まりがけの旅行に行ったらだめでしょう」ってわたしが言ったら、彼は「いや、そんなことはない、友人だから絶対心配ない」なんて言い張るの。
わたしは、「それは絶対おかしい」と思うから譲る気は全然ないし、二人とも感情的になってしまってお互い一歩も引かなかった。次の日、「アオイ、俺が友情だと思っていたのは、プラトニックな恋愛感情かもしれない」って彼が折れてくれたから落ち着いたんだけど、ショウはかなり考えて妥協できるところを見つけたんだと思う。だから何も言い返せなかった。
わたしは、好きになった人には抱かれたい。だから、ショウが言った 《プラトニックな恋愛感情》 なんてものが本当にあるなんて、その時はとても信じられなかった。
あっ、いけない、話が長くなってしまった。
「アオイ! どうしたの? さっきからぼーっとしてるよ」
「あっ、ごめんね。流れ星は4人で見に行こうよ。わたし、夜食とお菓子を持って行くから、モエには暖かい飲み物をお願いしてもいい?」
「うーん、何にしよう。ロイヤルミルクティーはどうかなあ」
「おいしそう! ああ 本当においしそう。飲みたくなっちゃった……」
「帰りに私の家に寄っていかない? 今日はアオイが大好きな焼き芋もたくさんあるよ」
ああ、焼き芋だなんて……。モエの家は『アフタヌーンティー』という名前の、とてもおしゃれな紅茶の専門店。いろんな種類の茶葉が置いてあって、お店で楽しむこともできるの。髭を生やしたかっこいいお父さんと、三つ編みを頭に綺麗に巻き付けた髪型――クラウンブレイドっていうんだって――がとてもよく似合う素敵なお母さんが暖かく迎えてくれる。
時々、モエの小学生の妹、メイちゃんが白いエプロンを着けて手伝っていて、「あーちゃん、今日は何食べる?」って聞いてくれるんだけど、あどけない笑顔と声がとってもかわいい。『アフタヌーンティー』の焼き芋は裏メニューではなくて、遠くから食べに来るお客さんもいるほどの人気メニュー。紅茶の専門店なのに変だと思うでしょう? でも、一度食べたら、きっとまた行きたいって思うはず。
「モエの言うとおりにする。……でも、また増えてしまうかも……」
「少しくらいいいと思うよ」
「そうね、焼き芋の魅力には勝てない」
「アオイは食いしん坊だからね」
「完璧なモエにそう言われると少し悔しい」
「ありのままでいいんだと思うよ」
「わたしがふんわり大きくなっても?」
「うん。私は全然気にならない」
ああ、モエ、そういう問題じゃなくて……
「おなかすいたなあ」
いけない、つい正直な気持ちが口をついて出てしまった。
「アオイ、私、チョコレート持ってるよ。食べる?」
「ありがとう。じゃあ、少しだけ……」
体をくるっと回して、わたしは再び海の方を向いた。モエと一緒に海を見ながら、板チョコをひとかけら口に入れた。甘みと苦みが一緒に溶け出して、おいしい。なんて幸せなんだろう……
さわやかな空気、海からの風、潮の香り……。灯台みたいに真っ白なこの校舎は、海を見おろす丘の上にある。ありきたりな表現だけど、本当に抜けるような青空。大道具を組み立てる音とセリフを練習する声が空高く響く。
「ああ、ロミオ! ロミオ! なぜあなたはロミオなの!」
「……ただ一言、僕を恋人と呼んでください。それが僕の新たな名前。これからはもうロミオではない」
台本に目を落として、すべての衣装を思い浮かべた。準備は完璧。ロミオもジュリエットもいつも以上に声がよく通っているから、今日の舞台はきっと成功する。でも、このチョコレート、どうしてこんなにおいしいんだろう。
「モエ、これ、家で作ったの?」
あれ? 静かだ。返事がない。台本から顔を上げると、モエは手摺りにもたれたまま居眠りをしていた。慣れないことをしたから疲れたんだね……
何気なく海を見渡した。遙かな水平線。空と海の青さが目にしみる。気持ちいい。
ん? 見慣れないものを見つけた。沖に、たくさんの小さな黒い点が浮かんでいる。
なんだろう? わたしはとても視力がいい。台本をかざして目を凝らすと、それは船だった。とてもたくさんの船……。漁船なのかな。
魚を追いかけて集まってきたのかもしれない。でも、どの船も真っ黒。わたしたちの国の漁船はカモメみたいに白く塗られているから、外国の船なのかな。黒く塗られた小さなタンカーやそれほど大きくない貨物船が港に出入りすることはあるけれど、こんなにたくさんの黒い船なんて、この街で生まれて今まで一度も見たことない。
屋上を海風が吹き抜けた。モエの髪が大きく揺れた。