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望月晴が、学校を去ることになった。まさか、そんな日が来るなんて、思ってもみなかった。終業式の日に担任から伝えられ、本人も淡々と別れの挨拶をした。
「晴さん! 転校するって本当なの?」
「ええ。夏休み明けに、他県の高校へ編入することになったの」
「ええ? 嘘でしょ?」
「やだ! 行かないで!」
学期最後の大掃除が始まる前に、噂が本当なのか他クラスから何人も確認に来て、ちょっとした騒動になった。
「私もみんなと別れるのはとても残念に思っているわ。でも、もう掃除の時間だから行かないと」
いつもの笑顔で彼女がそう言うと、みんな逆らわずにそれぞれの持ち場に散っていった。
私の担当は比較的楽な階段と踊り場で、割り当てが一人だったことに胸を撫で下ろした。一人なら、考え事をしながら作業しても、何も咎められない。
私は彼女が嫌いだ。嫌いだったはずだ。なのに、いざ、いなくなると聞いたら、動揺を隠すことができない。
私の教養のなさに蔑みを露わにしていた同級生は、成績が上がるなり話しかけてくるようになった。蔑みこそしなくても遠巻きにしていた同級生は、成績が上がるなりやたら持ち上げてきた。
蔑まれていた頃も、成績が上がってからも、態度が変わらなかったのは、彼女だけじゃなかったか?
弱っている時は、誤った判断をしがちになるし、善意を善意と捉えるのも難しくなる。
でも、ある程度回復した今、私はもう彼女の存在に傷ついていないのだと、ようやく気づいた。
だからって、何をするという訳でもないけれど。
気がつけば、ずいぶん長いこと掃除をしてしまっていたらしい。階段と踊り場はやたらぴかぴかになっていたし、周囲の人はもういなくなっていた。時計を見て、驚愕する。
掃除道具を返却すれば、後は帰るだけだ。道具を所定の位置に返し、教室に戻る。入ろうとした瞬間、中にいた同級生の声が聞こえた。まだ誰かいるということにびびってしまい、思わず入るタイミングをうかがってしまった。
「……もういなくなるから言うけど」
一人がぼそりと言う。
「なんか、いい子すぎて、本音が見えないっていうか、ちょっと苦手だったの」
「実は、私も」
「いっつもみんなの中心で、ちょっと煙たかった」
一人が口火を切ると、彼女達は、次々と、率直に、悪意をさらけ出し始めた。
それまでの話はわからない。でもこれは、明らかに望月晴のことだ。あんなにちやほやしてたくせに、ほんとは好きじゃなかった? あの子が嫌いなんて、私だけだろうから、そう思ってしまうことに余計罪悪感を抱いていたのに。そっと中を覗くと、私に蔑みの視線を投げたことなんかない、むしろ彼女の取り巻きに近い、穏やかに見えた子達が、罪悪感なんて微塵も覚えていない様子で話しているので愕然とする。
不意に、制服の裾をクイッと引っ張られた。
「も……!」
望月晴が、しーっと言わんばかりに唇に指を当てるので、口をつぐみ、言葉を飲み込む。
それを見て彼女は頷き、手招きするので、思わずついていった。
彼女が私を連れ出したのは中庭だった。私達が初めて会った場所。雪景色だったし、敷地が広いので、私は学校に慣れるまでそこが中庭だと気づいてすらなかった。
「優しいのね。傷ついた顔してる」
「優しくなんか……」
「少なくとも、正直よ。この学校の誰より」
そう言うと彼女は笑った。
「嘘がなくて、一緒にいて安心できるから、なかよくなりたかったの」
「安心……?」
「残念ながら、ああいう陰口を叩かれるのは初めてじゃないわ」
みんな彼女のことが好きで、嫌うなんてありえない。その前提が崩れただけでも動揺しているのに、悪意にさらされるのが初めてではないという事実は私に追い打ちをかけた。
「私は中等部からの編入生なんだけど、初等部からいる人達は特権意識が強くて、成金の娘はなかなか受け入れがたかったみたいね」
小学校の時に父の事業が当たって、記念受験したら受かっちゃって、お嬢様の仲間入りだねなんて、家族で冗談めかして言ってた、と彼女は笑いながら語る。
「『笑顔が嘘くさい』『裏があるんじゃないか』『いい子を演じて点数稼ぎ』、ここらへんが定番だったかな。そんなこと、全然考えてなかったから、びっくりして。『いつでも笑顔でいれば道は開けるよ』、そんな風に言われて育ったから、ただ笑ってただけなのに。とりあえず、予想外の行動を見た時、人は自分だったらこんな理由でそうする、と関連付けるものなんだな、と思った」
「古典的な言い回しだけど、自己紹介乙ってやつですか?」
「たぶんそう」
そう言って彼女は再度にっこり微笑む。
「しかも、全部さっきみたいに偶然立ち聞きしただけで、誰も私に直接は言ってこなかったし、接してる時はみんな好意的な態度に見えてたから、心の底で何考えてるのかわからなくて、怖かった」
誰とでもうまくやっていけると思っていた彼女でさえそんな扱いをされてしまうことに驚愕すると同時に、みんなから好かれるなんてありえないんだな、と悟った。
「その点、ユキちゃんはほんと正直よね。すぐ顔に出る」
「……うるさいな」
「あ、ようやく素で話してくれた! 褒めているのよ、あなたは信じられるって」
「そんなに、演じられてなかった、ですか」
「ええ。余裕あるやつに恵まれるなんてまっぴらとか思ってそうだな、って思ってた」
「……いい性格してる」
「あら! お褒めの言葉をありがとう!」
完全にバレてるし、嫌味で返してくるし、むかつくはずなのに、思わずつられて笑ってしまった。
「父の事業が傾いてね。幸い提携先が見つかったから、なんとか会社の存続はできそうなんだけど、ここの学費を払うような余裕はもうないの」
「そう、なんだ」
「だから転校するけど、私、絶対、このまま終わる気、ないから」
「ふうん」
「つれないなあ。ねえ、志望校はどこ?」
「なんで?」
「たぶん、同じだと思うけど、念の為確認したくて」
私が大学名を告げると、彼女はにっこり微笑んだ。
「入学式に、会場前で待ち合わせよう」
「え?」
「これからの過酷な生活が始まるんだから、励みの一つくらい、あってもいいと思って」
「なにそれ」
「合格しない限り行かないから、会っちゃったら、その時は諦めて友達になってよ」
「ほんと、一方的」
「ねえ! この賭け、乗らない?」
そう言って、彼女は私を射抜くようにじっと見つめ、私は目が離せなくなってしまった。
「賭けは、成立しない」
「そっか」
「だって、もう友達だから」
そう言った瞬間、彼女は今までで一番嬉しそうに笑った。
「祖父の言ってた通りだなあ」
「なにが?」
「本当にほしいものがあれば、普通の人が気を遣って引くところで、もう一押ししろ」
「迷惑な……」
「でも、今まで勝率十割だよ?」
「今までどんだけゴネてきたのさ」
「礼は失せず、変に遠慮するなってことだと解釈してる!」
ちょっと、どきっとした。今までの人生、仕方ないと諦めてきたことはたくさんあるけど、一押しする方向を知っていれば諦めずに済んだこともあるのでは、と思ったのだ。文化資本がなく、追いつめられた状態の私には、選択肢が見えなかっただけで。人に頼ったり、弱みを見せるのが嫌で、自分でなんとかする方法ばかり考えてきたけど、遠慮せずに訊ねてみれば、もっと適切な解決方法に辿りつけたのかもしれない。そんな可能性に気づいた。
「どうかした?」
「いや、ちょっと、今までの人生を振り返ってた」
「人が真剣に話してるのに、意識飛ばさないでよ!」
「いいじゃん。友達なんだから、それくらい大目に見てよ」
「友達っていえば丸め込めると思ってるでしょ?」
「うん。許してよ」
私はそう言ってにやりと笑い、手を出す。
「合格の願掛けも兼ねて、連絡先は聞かない。次は入学式で会おうよ、ハル」
「そう言いながら、自分が落ちないでよね、ユキ」
ハルが笑顔で私の手を握り返す。一年半後の再会を約束して、別れた。