雪と手
雪に色があるのだと初めて知った。手の平に落ちた時には透明な雪も、積もれば白いのだ。
おぼつかない足取りで河川敷を歩く。借りた長靴は少し大きく、気を抜くと転びそうになった。それでも履いてきた革靴がずぶ濡れになるよりはましだ。
何度か雪で凍った草に足を取られて滑りそうになったが、そこはぐっと力を込めて踏みとどまる。
『雪の新潟を見においで』
亡くなった祖母の口癖だった。冬の新潟、ではない。雪の新潟だ。雪が積もって真っ白な景色を見せたかったのだろう。
小阿賀野川の流れは穏やかで、束の間だが、今は厳しい冬だということを忘れさせた。自分の吐息の白さで気温の低さを思い出す。
一つ年上の姉と、夏休みにこの河川敷で遊んだものだった。しかし、雪の季節に来たことはなかった。
「まだ宿題が終わってへんのよ。また来年行くから」
冬になる度、電話口で繰り返される祖母の誘いを、その言葉で一蹴し続けた。
極寒の地で冬を過ごすより、自宅の炬燵で蜜柑を食べている方がよっぽど快適だ――それが本音だった。塾が忙しいからだの、宿題が終わっていないからだの、というのは祖母を傷つけないための優しい嘘のつもりだった。
「それになぁ……寒いのは嫌いやからなぁ」
雪のない土地で育ち、寒いのが苦手だったのもまた、本当だった。
祖母の訃報を聞き駆けつけた時、新潟はこの冬一番の冷え込みだったらしく、大雪で飛行機の出発が遅れていた。搭乗口のテレビで天気予報をぼんやり眺めながら、飛行機の運行再開を待った。自分のいる空港の上空は鈍い冬空だったが、雪が降りそうな気配はない。この空の向こうで雪が降っているのだと思うと、不思議な気分だった。結局、離陸するまで三時間足止めを食らうことになったのだが。その間、夏の新潟の景色ならいくらでも思い浮かぶのに、銀世界の新潟は想像することはついにできなかった。
新潟空港に着き、銀世界を目の前にしながらも、どこかその景色は遠く、身を切るような風と踏みしめた雪の軋みだけが自分をここに留めているような錯覚に陥った。今までの自分の生活と、雪とは縁がなさすぎたのだ。
迎えに来た叔父の車に乗り、祖母の家に向かうにつれ、さらに積もった雪は深くなっていった。叔父の運転は慣れたもので、ゆっくりとではあるが、着実に前へ進んでいた。
「先に京介の姉ちゃんから連絡あってな、母ちゃんと姉ちゃん、着くのは夜中になりそうだと」
名古屋の大学に通う自分が一足先に到着したらしい。ふぅん、とその言葉を聞き流すと、叔父の後頭部から再び窓の外へと視線を移した。雪はバタバタとガラス窓に打ち当たり、しばらくそこにへばり付いた後、風に吹かれてどこかへ飛んで行った。
懐かしい商店街を抜ければ、すぐそこに祖母の家がある。表の玄関ではなく、裏口から入るよう促され、俺は家の裏手に回った。裏庭には小さな畑があったが、手入れするものがいなくなったのを知っているのか、どことなく淋しげだ。
「いらっしゃい。外は寒かったろ。すぐにあったかいお茶さ入れるからね」
出迎えてくれるはずの祖母はもういない。代わりに俺に声をかけたのは叔母だった。
「ばあちゃんは?」
台所で湯を沸かす叔母の背に声をかける。
「仏間で横になってるよ。じいちゃんの傍がいいじゃろうと思って」
やかんから立ち上る湯気が、心なしか濃い気がする。お茶が入る前に祖母に会っておこう。そう思った俺は、荷物を居間に放り投げ、ダウンコートを脱いだ。コートの下は、喪服だ。荷物が増えるのが嫌で、喪服を着てきていたのだ。
「ちょっと手、合せてくるわ」
俺はひらひらと叔母に手を振り、仏間の襖を開けた。ひやりとした空気のその部屋には、線香の香りだけが満ちていた。
祖母は白い布で顔を覆われ、仏壇の前に横たわっている。小さな祖父の遺影が、愛おしげに祖母の体を見守っていた。
なぜか涙は出なかった。あれほど大好きだった祖母なのに。
リアリティのない雪景色が、祖母の死さえも自分の現実から引き離してしまっているのだろうか。ほのかに死の匂いがしているのに、それすらも別世界に追いやられていってしまう。
祖母はこんな世界で生きていたのか?
雪の中、自分を見失ってしまいそうなこんな世界を俺に見せたかったのだろうか?
思考が絡まり、どんどん自分の輪郭が希薄になる。雪の降る音に紛れて、ほどけて消えそうになる。
「京介、ここにいたんか」
背後から突然声をかけられ、俺の肩はびくりと揺れた。その少し後に、ほんのりと暖かな熱が背中を包んだ。
「ストーブ付けたさけ。母ちゃんらが来る前に風邪でも引いたらどないすろ」
叔父はそう言い、ストーブの灯を俺の体に寄せた。
「ばあちゃん、わざわざこんな寒い日さ逝かんでもなぁ。よっぽど京介に雪見せたかったんろか」
そう言って叔父は大げさに笑った。
「いつも雪の新潟に来いって言うてたもんな。結局、ずっと来れんかったけど」
ポツリと呟いた俺の頭に、叔父はぽんと手を置いた。
「京介はじいちゃんの生まれ変わりさけな。これ、ばあちゃんの口癖」
「え?」
「じいちゃんが亡くなってから、ばあちゃんさ、夢見たんって。真っ白な雪の中、亡くなったじいちゃんが小さい男の子の手を引いて歩いてた……っていう夢らしい。その後、京介の母ちゃんから、京介ができたって連絡受けたんて」
初耳だった。
「ばあちゃん、雪の新潟を京介と歩きたかったんかもしれんね。夢の中でじいちゃんがしていたみたいに」
その瞬間、雪に温度が宿った。
綿菓子のように浮遊していた雪は質量を帯び、しんしんと降り積もっては存在感を増していく。雪の降るこの町は、輪郭のない、あいまいな幻などではなかった。
「……俺、散歩してきてもええかな?」
「外、寒いけど大丈夫か?」
「うん、ちょっとだけやから」
「玄関の長靴に履きかえていき。京介の皮靴だと危ないから」
「ありがとう」
それから、お茶を入れていてくれた叔母にも一言言い残し、俺は再び外へと歩き出した。
ふぅと両手に息を吹きかけ、自分のぬくもりを確かめる。
この手で祖母の手を引いてあげられたらよかった、と今更悔やまれた。
祖母は確かにここにいたのだ。そして、幻のようなこの景色の中で、俺という形ある存在に触れていたかったのだ。
「遅くなってしもたけど、俺、雪の新潟に来たよ」
ふっと口の端が緩んだ。重力に抗えずに降ってくる雪とは逆に、俺の声はぐんぐんと空へ上っていく。
届くだろうか。いや、届いて欲しい。
なんとなく好きになれなかった雪の新潟だったが、今なら好きになれそうだ。
そう思えたら、自然と涙が溢れた。