第九章
第九章
(どうやったら儂等もこの未来のように豊かになれるんじゃ。)
目が覚めても信長は、このことが頭から離れなかった。
昨日家康と会い、いつかは戻れることに安心した。吾郎の話によれば天下統一もそう遠くはないらしい。
次は国に帰って未来のような豊かな暮らしを実現することを考えていた。
(天下を取って、皆が豊かな暮らしができてこそ安泰な世の中が出来るんじゃ。どの国も喰うにさえ困らなければ無駄な領地争いなど無くなるんじゃ。
国に戻る前に未来の豊かさの素だけは調べておかねば。
そうでなければ、ここに来た意味も無いんじゃ)
「いってきまーす」
優太と吾郎が玄関にいた。普段は優太より遅く出かける吾郎も今日は朝9時からのミーティングのために一緒に出かけるという。
昨日の夜半から降り始めた雨が多少勢いを増している。傘をさしながら出かける二人を見送った由紀は、玄関のドアをロックするとリビングルームへと向かった。
優太の声を聞いてか、信長がちょうど部屋から出てきた。
「あっ、おはようございます」
「毎朝あの二人はどこへ出かけていくんじゃ?」
「吾郎は仕事ですけど、優太は学校に行っているの。」
「がっこう?」
「そう、他の子供達と一緒に先生から勉強を教えてもらう所。今の時代は大体二十歳過ぎまでは学校に行って、それから働き始めるの」
信長を伴いリビングルームに戻った由紀は、信長のための朝食の準備に取り掛かった。
「皆仕事もせずに二十歳まで勉強を教えてもらうのか。働き盛りにもったいないの~。それ程までして一体何を学ぶんじゃ?」
「最初は文字や文章の書き方、読み方に計算のやり方、科学や自分の身の回りの社会や歴史の勉強。他に楽器を演奏したり、絵を描いたり、工作したり、体を動かしたり、かな。それから先は段々難しくなってきて個人個人の興味でもっと奥深く勉強していくわけ」
「そんな事を二十歳迄学んでどうなるというんじゃ、ただ飯食って」
「どうなるって・・・逆に最低限の知識を身につけておかないと仕事をやっていけないのよ」
「野良仕事なら誰だって出来るじゃろ」
「そうだけど、今の時代は仕事を選べるから。楽しく働けた方がいいでしょ」
(楽しく働く・・・)
信長は腕を組んだままソファに座ると、その上で胡坐をかいた。
「では優太は二十歳まで仕事もせずに勉強だけしてれば良いという訳か?」
「勉強だけって訳じゃないけど、多少遊ぶことも社会経験だし」
「豊かじゃの~。
儂等の子供達は皆六つを数えれば仕事を言いつけられるんじゃ、しかも休み無しに毎日。何故未来はいい大人が二十歳まで遊んで暮らせるんじゃ?」
由紀が信長のコーヒーを運んできた。
そしてそれをソファの脇のサイドテーブルに置くと、トレイを胸に抱えたまま話し始めた。
「言われてみればそうですよね~。
一言で言うと、生産能力が向上したためかなぁ。文明の発展とともに、昔と比べて少ない人手で多くの物が作れるようになったから。
例えば農業だって、色んな機械が発明されたことで、田植えや稲刈りなんかの作業が、昔と比べたらずっと簡単に、少人数で、それでいて早く終わるようになったでしょ。それに加えて稲の品種改良や農薬の発明で収穫量もグンと増えたから。結局少ない労力でたくさん穫れるようになったことで現代人に時間的な余裕が出来たんだと思うの。」
「ならば更にそれに加えて二十歳過ぎまで勉強などせずに、もっと早くから働き始めて、もっと多くの人手で、もっと多くのものを生産したら、もっと豊かになるではないか。」
「ん~でも必要以上に物を生産すると逆に市場で価値が下がっちゃうのよ。そうなるとせっかく頑張ってたくさん作っても結局収入が減ることになってしまうの。だから農家で野菜が取れすぎたりすると、全部を収穫して売るんじゃなくって、一部は収穫せずに畑でそのまま腐らせたりするの。程々が一番いいのよ。」
由紀の説明は物が多すぎて困った経験の無い信長には難しい話であった。
「豊作を祝うどころか、わざと腐らせるだと・・・・」
「ええ、取れすぎたりするとね。お米だって農家はもっとたくさん作れるのに、調整して作らないようにっ、てお達しがあったりするんだから」
「出来るのに作らせない・・・・」
信長の国では皆、昼夜休み無く必死で働いている。にも関わらず喰うために、いや生きるために汲々としていた。
(未来人は出来るものも敢えて作らん・・・
それどころか出来すぎたら捨てる・・・
儂等は毎年熱心に豊作祈願をやるんじゃ・・・
この差は何じゃ。
機械の発明か?
電気を作り出すことか?)
「あっいけない、トースト!」
由紀は慌ててキッチンに戻ると大慌てでオーブントースターを開けた。
「あ~あ、やっちゃった~。ごめんなさい、また焼直しますから」
部屋の中に焦げた臭いが広がり、煙を上げたトーストを由紀は熱そうに指先で取り出すと、キッチンシンクの角のごみ入れに捨てようとした。
「待て待て、それをどうするんじゃ」
「えっ?こんなになったら食べられないし、新しいパンを焼きますね」
「多少焦げたからといって捨てるやつがあるか。儂が喰う」
「え~美味しくないですよ」
「良い、良い。儂にくれ」
由紀は焦げた二枚のトーストを皿にのせて運んできた。
「本当に大丈夫ですか、美味しくないと思うんだけど。ほんと熱いから気を付けて下さいね」
信長は口をすぼめてトーストに勢いよく息を吹きかけた後、おもむろにそれを口に入れるとバリバリと音を立てながら食べ始めた。
「ふむ、焦げたくらいが味があって良い」
(ホントかしら)
「これを一々捨てておったら儂等の飯など大半は捨てねばならんぞ」
口の中に残ったトーストをコーヒーで流し込むと、更に苦さは倍増した。
キッチンに戻りサラダの準備に取り掛かった由紀に信長が改まって話しかけてきた。
「由紀殿、先ほどの続きじゃが、段々と収穫量が増える話、一度儂にこの国の歴史を教えてくれんか?」
「えっ?」
由紀の手が止まった。
「天下を取ったら、ここにある豊かさを儂等の時代でも叶えたいんじゃ。何をどうすればこれ程豊かな世の中になるのか学びたいんじゃ。飢えてる皆に少しでもよい暮らしをさせたいんじゃ」
(なんだ)
由紀がサラダ用のトマトを切りだした。
「そうですね。でもそれって歴史って言うより現代文明がいかにして発展してきたかが知りたいわけでしょ?」
「それもある」
「それもって?」
「もひとつ儂の未来についても実は知りたいんじゃ」
再び由紀の手が止まった。
「・・・大丈夫かな」
「何がじゃ」
「だってそれって、いいことばかりが書いてあるわけじゃなくってよ」
「構わん、知りたいんじゃ」
由紀は信長をみつめながら考えた。
近代化については教職に携わっていた自分でも教えられると思う。
しかし織田信長の将来を、本人を目の前にして歴史として話して良いものだろうか。しかも不幸な一幕が存在する事を分っていながら。
「吾郎が戻ってきてからじゃダメ?」
「早く知りたいんじゃ。それとも何かまずい事でもあるのか?
ここに居る限りいつかは分かることじゃ」
(それもそうだけど・・・)
「ちょっと待ってて。二階に何か適当な本が有るかどうか調べてくるから」
由紀は二階の吾郎の書斎に入り本棚をひととおり眺めた。
そして携帯電話で吾郎を呼び出した。
「もしもし、私だけど、今平気?・・実は殿が日本の歴史を知りたがっているの。近代文明の発展に興味があるって言ってるんだけど、殿自身の未来も教えてくれって。どうしよう」
書斎の小さな窓に雨粒が激しくぶつかり、外の景色が歪んでみえた。
「そんな事したら歴史が・・・・・」
突然のこの由紀からの相談に吾郎も思案した。
(おかしな事にならないのかなぁ。SF映画のように、一つの過去が変わると、ドミノ倒しのように次々と新しい歴史に塗り替わって、最終的に全く違った現代になったりするとか)
「殿が言うには、いつかは分かることだって言うのよね」
「そうだよね。う~ん」
(殿が自分の運命を知った途端に今迄の歴史がリセットされて、この世界が全く違うものに変貌するなどということが起こり得るだろうか?
その瞬間に自分がこの世からいきなり消え去るなど有り得るだろうか?
・・・・
待てよ、そもそも天が自分如きに世の中の歴史を変えるなどという大それた権限を与えてくれるだろうか?)
とてもそうは思えなかった。であればこの行動で歴史は変わらないのだ。
「仕方ないんじゃないの。現代に殿が現れた以上いつか自分で調べようと思ったら出来ることだし」
「じゃあどうしよう」
「とりあえず優太の部屋に漫画で見る歴史の本があるでしょ?まずはあれを読んでもらったら?大まかな流れも分かるし、そんなにどぎつい内容でもないし。でもそれで近代文明云々がわかるかなぁ。
いいよ、今晩夕食の時にでも僕がその辺の話はするから」
そもそも信長を自宅に招き入れたい、と言ったのは自分である。由紀にトラブルを押し付けるわけにはいかなかった。
電話を終えた由紀は優太の部屋へ行き、本棚から漫画で見る歴史シリーズを全巻抱えると、足元を覗き込むようにしながらゆっくりと階段を降りていった。
信長は手持無沙汰だったらしく、テーブルに置かれたままの由紀のスマホには指紋の跡がベタベタとついていた。
「まずはこれを読んでみたらどうかしら?大まかな過去からの歴史がわかると思うから。」
由紀はスマホを横目で見ながら、抱えてきた本をまとめてドサッと信長の前に積み上げた。
一番上にあった第一巻“古代史”を手にとった信長はパラパラとめくり始めた。
「随分と分厚い書を何冊も持ってきたかと思えば、中身は大部分が絵なんじゃ。面白いのぉ。これなら読めるわい」
「殿、現代文明について知りたいなら、一番最後の文明開化の巻を読めば良いと思うんだけど」
「いや、折角じゃ。順に沿って見ていった方が理解しやすいじゃろう」
「でもそんなことしたら・・・
本当に大丈夫?
自分の未来を知ることはとても怖いことなの。後悔しない?」
「大丈夫じゃ。人はどんな形であろうといつかは死ぬんじゃ。それだけじゃ」
戦国時代に生きる信長には覚悟があった。
椅子にドッカと座りなおすとテーブルに両肘をつきながら早速読み始めた。
再びキッチンに戻った由紀は、カウンター越しにチラチラと信長の反応を窺った。
ちゃんと読んでいるのか、ただ絵だけを追っているのか、信長は興味深そうに次々と読み進めている。時折目を細めながら本との距離を測っていた。どうやら細かな文字が見難くそうだ。
由紀が黙ってサラダをテーブルに置いても手を付ける様子もなかった。
ようやく第四巻の室町時代・戦国時代の巻に行きついた信長だが、特段変わった様子も無く黙々と読み進めていた。
そしてしばらくすると信長が何やら空で数え始めた。
ページを戻し、もう一度眺め直すと今度は指折り数えていた。
(儂は光秀に謀られるのか)
信長は本能寺での明智光秀の謀反を知った。
(今からあと七年か。十年も無いんじゃ。
しかし何故光秀が・・・・
だがそうと知った以上成敗しておかねばなるまいな。
しかしここに居る限りはそれも出来ん。
はてどうしたものか)
信長は意外に冷静だった。
四百年後の今ここにいる自分を思うと、本能寺での出来事はあまりに現実味の薄い歴史のように思えたのだった。
心配そうに信長の様子を眺めていた由紀は、予想外に冷静な信長をみてほっと胸をなでおろした。
(でも内心は相当ショックだと思うわ。知りたいって言うから見せてあげたけど、なんだかやっぱり可哀そう)
信長は自身の運命を知った後もペースを落とすことなく読み進めていた。
(秀吉も家康も策士じゃのぉ。
二人とも儂の後に天下を治めたんじゃ。
しかも徳川の時代は三百年か・・・・
ふ~ん)
江戸時代までを読み終えた信長は天井を見上げた。
(も一度きちんと考えるんじゃ。)
ようやく肝心の近代史までたどり着いた信長だが、本を眺めていても内容が頭に入ってこない。この最終巻は時間をかけはしたがパラパラとめくっただけで閉じてしまった。
この信長の気も漫ろな様子をみて再び由紀は心配になった。
(誰だって自分の運命が不幸に終わると知ったらそうよね)
信長は冷えた残りのトーストを口にしながら由紀に向かって話しかけた。
「由紀殿、もちっと詳しい書物はないかの?
これでは大雑把過ぎてようわからん」
(やっぱり気になってもっと詳しく知りたいんだわ。でも・・・)
「歴史小説は吾郎がたくさん持っているけど、ちゃんとした歴史の本って無いのよね。パソコンでもっと詳しく調べようと思えば出来るけど、今日の午後はPTAで学校に行かなきゃいけないの。吾郎が帰って来てから教えてもらいましょうよ」
(あまり深く知るより今日はこの辺で切り上げておいた方がいいのよ)
出かける用事があると言われたらそれまでだ。
「ならばしょうがないのぉ」
しばらくして部屋に戻った信長は、蒲団の上に寝転がると天井を見ながら思いに耽った。
(光秀が過ちを犯したんじゃ。
それで儂が未来に送られて来たんじゃ)
夕方吾郎が帰宅すると早速由紀に今日の信長の様子を尋ねた。
「殿、どうだった?」
「特に驚いて暴れたりとかは無かったけど、でもやっぱりショックだったと思うわ。本人は別に何も言ってなかったけど」
「だよね、自分の運命を知ったら誰だってショックだよね。今晩はまず慰めてあげなきゃいけないかな」
いつの間にか寝入ってしまった信長は、由紀からの夕食の知らせを受けて部屋を出た。
既に優太も吾郎もテーブルについている。
由紀が午後から出かけていたため、今日の献立はカツカレーと野菜スープという簡単なものだった。
優太はテレビのアニメ番組を見ながら既にカレーを食べ始めていた。
吾郎は椅子に座った信長の目の前のグラスにビールを注いだ後、自分のグラスにも三杯目のビールを注いだ。
無言でそれに軽く口を付けたところでようやく吾郎が信長に話しかけた。
「殿、もう少し詳しく歴史を知りたい、って聞いたんですけど」
信長は勢いよくビールを口に注ぎ込むと、カタン、とグラスをテーブルに置き、吾郎を正視した。
「うむ、そうじゃ。
・・・・
吾郎、何で光秀は儂を討ったんじゃ?」
(うわっ単刀直入にきた。やっぱり気になっているんだ)
テレビを見ていたはずの優太が急に信長の方へ振り向き、ついで由紀の方を見やった。由紀は黙って優太に頷いた。
いきなり核心に触れたテーマに吾郎は焦り、信長の視線を避けるように空になった信長のグラスに再度ビールを注いだ。
「・・・実は、その件については今でも諸説あるんですよ。明智光秀が個人的な恨みで殿を・・・何て言うんですか・・・討った、という説や、実は彼が天下を狙っていた、という説や、他の黒幕がいて唆されたんじゃないか、とか。今でもそれは謎なんですよ」
「そうか」 信長がぼそっと呟いた。
「逆に殿に心当たりはないんですか?」
「・・・・・・儂もわからんのじゃ。あいつは確かに一見従順そうに見えて、実は何を考えておるのか分からんところがある奴なんじゃ」
「はぁ、そうなんですか・・・」
「・・・このままいくと儂は後七年しか生きられないんじゃ」
「どういう事ですか?」
「天正十年に儂は死ぬというんじゃ、今は天正三年じゃ。」
吾郎も由紀もつい頭をうなだれ信長の話を聞いた。
「そういう事ですか。
はぁ・・・・・
確かに自分がもし殿の立場だったら結構落ち込みますよね、分かりますよ。
でも、あまり深刻に悩まないで下さいね。人生何が起こるか分からないですから」
「・・・・・・・・・・・」
下手な慰めだった。
「わっはっはっは~ 悩んでなんかおらん」
(えぇ~)
「考えてもみろ、吾郎よ。
儂がこの未来に来なかったら天正十年に死んでおった、という事に過ぎんのじゃ。
だが謀反を知った今となってはそんなことはさせん。
光秀なぞもう相手にしておらん。奴を討ったら儂の天下は続くんじゃ。
儂の運命を儂が変えるんじゃ。
そして今度は、秀吉や家康が天下を取る前に燦然と輝く儂の時代を築くんじゃ。
儂はなぁ、吾郎、国に戻ったら五百年の織田時代を作るんじゃ。
徳川でさえ三百年ではないか。
わっはっはっは~
儂がここに現れたのは、もう一度天下を取れという天の指示じゃ。
未来文明を持って帰って一気に新たな天下統一を果たすんじゃ。
わっはっはっは~」
信長の大きな笑い声に驚いた優太が再び由紀をみやった。由紀は黙って首を横に振っていた。
信長が急に真顔でテーブル越しに吾郎の方へと乗り出してきた。
「だから、頼む。そのためにも未来の知恵が必要なんじゃ。どうか儂に未来の豊かさの素を教えてくれ。」
ドスン、と椅子に座り直すと信長はようやくカレーに口をつけた。
「おぉ~辛いが旨いの~。こんな味は初めてじゃ」
信長はせっせとスプーンを動かしカレーを口の中にかき込んでいった。
「教えてくれ、吾郎。何で未来はこんなに豊かになれたんじゃ。
天下統一の後には、豊かな生活が必須なんじゃ」
信長の口から米粒が飛びだし吾郎の頬をかすめた。
(何てポジティブな性格・・・・)
信長のめげない性格に、失せていた吾郎の食欲が回復することは無かった。
それにしても由紀や吾郎の心配を他所に逞しい信長だった。
ふぅ~と溜息をついた吾郎は、予め帰りの電車の中で考えてきた今晩の講義を始めることにした。今日の生徒も信長を含め三人だ。
「最初に言っておきますけど、殿が言うような即効性のある何か豊かさの素があるわけじゃないんです。でも殿が本気で五百年の織田時代を考えるのなら、きちんと考えていく必要があると思うんです。
一言で近代化、と言っても、実は非常に多くの要素が重なり合って発展しないと現代のようにはなりません。
そもそもの発端は、今から二百年ほど前にイギリスという国で産業革命が起きて、そこから一気に工業社会に変化して行ったんです。その流れを踏襲した日本も、それまでの農業中心の社会から、工業化に向かったことで、現代のようなたくさんの物や製品に囲まれた生活が実現できたんです」
「工業か」
「そうです。そしてその工業化への原動力となったものが蒸気機関なんです」
「なんじゃ、それは」
「湯気の噴出す力を動力として使ったんです」
「湯気が生活を変えたのか?」
「そうなんです。蒸気の力を使って様々な工業機械や機関車などの動力に変換することを発明したんです。生産性がグングン上がったのは、蒸気機関の発明に因るんです」
「たかが湯気が」
「そう。何が革命かというと、新しい動力の発明で人間の何十倍もの強力な力を生み出すことに成功したんです。殿の乗った電車も昔は蒸気で動いていて、その当時の機関車でも馬や人間の何十倍もの力を持ちながら、馬や人間の何十倍もの速さで移動することが可能になったんです。この動力を色んな所に利用することによって、それ以前より圧倒的に少ない人数で圧倒的に早く処理することが出来るようになったんです。今では僕等が寝ている間でも機械が代わって仕事してくれるんですよ。殿の時代の人々が汗を流してやっていたような仕事は、今は全部機械がやるんです、しかももっと効率よく。あんな辛いことは、最早人間がやらなくて良いんです。殿の時代の人々を思うと可哀そうになりますけどね。」
(可哀そう・・・)
「だから蒸気機関を利用した色んな機械が殿の時代にあれば、そりゃあ役に立つと思いますよ。そうなれば多くの民衆が、今迄の牛や馬と同じような単なる労働力としての扱いからは脱却できるわけですから」
「牛と馬と同じ・・・
何か儂等を馬鹿にしておらんか?」
「いえ、いえ、そんなつもりは無いですよ。ただ、そういった類の作業からは早く解放してやった方が良いと思いますよ。人間の本来の力はそんな処に費やされるべきじゃ無いと思うんです。もっと創造的なところに向けるべきだと思うんです。まあ殿の時代にそんなこと言ったって始まらないですけど」
(何か癇に障る言い方じゃのぉ)
「また蒸気機関の話に戻りますけど、じゃあ蒸気機関が考案されたからといってすぐに作れるかというと、その前提として鉄を作る技術だったり、鉄を作るための燃料の調達が必要になってくるんです。良質の鉄をつくるには木炭ではなくて石炭を地中から掘り出すこともやらなきゃいけない。
そういう意味では近代文明を教わったからといって、すぐに実現することは難しいと思いますよ」
「儂等にも近江の国友に腕の良い鍛冶集団がおるんじゃ。鉄砲を作れるんだから、そこそこの技術はあると思うぞ。奴らにやらせるか」
「・・・そうですか。
当時の鍛冶職人の技術がどの程度かは僕には分からないんですけど、より大きな機械を作るためにはそれなりの製鉄工場も必要だし、そもそも蒸気機関の仕組みを学ぶ必要があります。更にそれを利用した機械に関しても。
これは殿が学んでいかなきゃいけない。やりますか?」
「儂にわかるかのぉ・・・あまり学問は好きじゃないんじゃ」
「じゃあやっぱり産業革命も難しいですね」
「待て、書物にまとめて儂にくれんか。それを肌身離さず儂が持っている、というのはどうじゃ?」
「こればっかりは分からないですね、そんなことが出来るのかどうか。唯一頭の中に知識として蓄えておくのが一番現実的なような気がするんですけどねぇ。
やっぱり、現代文明をいきなり戦国時代に持ちこうと思っても土台無理な話なのかなぁ。それなりに科学技術の蓄積があって初めて出来る事なんですよ。いきなり戦国時代の人達が、蒸気機関を作り上げるなど、とても、とても。
ということで近代文明講座は終わり、かな」
「待て待て、そんなに儂等のことを見下したりせんでもよかろう。儂等の時代だってそれなりに皆一生懸命考えて生きておるんじゃ。」
「いや、別に見下したりなんてしていませんよ。ただ文明の発展を一足飛びにやろうとしても無理があるなってことを改めて感じたわけですよ。
出来れば僕だって昔の人達の役に立ちたいと思いますよ。何の楽しみもなく、ただ生きるために食うような時代だったわけですから。」
(こいつぅ・・・)
「吾郎、出来ない話をグダグダと聞きたい訳じゃないんじゃ。儂等なりにできる豊かな世の中作りに関して聞きたいんじゃ」
(ムッ)
「わかりました、じゃあ教えてあげますよ。
そもそも農業の生産性をあげるだけなら肥料や農薬を勉強すればいいんじゃないですか。持って帰れるものなら、品種改良された稲や作物の種だとか、病気や害虫駆除のための農薬そのものだったり、その配合表だったりとか。まぁ持って帰れるとは思えないけど、仮にこれがあれば農業ではすぐに効果が現れると思いますよ。」
「お~それは良いな。じゃが持って帰れたら、の話じゃな」
この晩は圧のこもった吾郎の説明に疲れて早めに寝床に就いた。
(儂等は皆が不幸か?
苦しいながらも日々の生活の中に楽しみも有るわ。
吾郎め、生きるために食っているだけ、なんぞとぬかしおって。
不愉快じゃ)
(しかし儂が本当に五百年の織田時代を目指すのであれば、吾郎の言う通り皆を豊かにする仕組みを作らねばならんなぁ。
儂等なりの産業革命を起こさねばならんということか。
一度帰ってみなければ分からんが、いずれにせよ、まずは湯気か)