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第八章

第八章


吾郎の熱のこもった現代文明講座が終わり、翌朝からは由紀が信長の教育担当となった。

由紀は吾郎と結婚するまで杉並区の小学校の教員をしていた。

信長がいつ元の時代に戻ることが出来るのかは分からない。いや戻れないかもしれない。いずれにせよ現代に暮らしていく以上最低限の知識は必要だと考えた。

由紀はまだ捨てずにいた優太の一年生、二年生の教科書と図鑑を持ちだし、家事の合間を縫って少しずつ信長に教え始めた。

最初はひらがなにカタカナに数字、更に生活に密着した貨幣や年月日、時刻の単位などから始めていった。

信長も、いつか戻れることを信じて現代文明を可能な限り持ち帰りたいとの思いで、まずは非常に熱心な生徒となった。


二人で勉強を始めて三日目の朝。乗り物図鑑を眺めていた信長がキッチンで朝食の後片付けをしていた由紀に話しかけた。

「由紀殿は、儂が現れた日の事を覚えていると言ってたの」

「ええ、テレビのニュースにまでなった位ですから良く覚えていますよ」

「儂をもう一度その場所に連れて行ってくれんか?」

「連れていくのは問題ないけど。でもまた追い回されたら困るでしょう?」

「むら雲は残して行くし、今の儂の恰好だったら大丈夫じゃ。実はあの場所に行けば、国に戻るための何か手掛かりが掴めるんじゃないかと思うんじゃ。こうやって勉強することも大事じゃが、このままではいつ国に戻れるかも分からんし」

「まぁそうですね、一度は行ってみてもいいかもね。だったら今日の午後にでも行きましょうか。ついでに一緒にデパートに連れて行ってあげる、私も久しぶりに銀座で買い物もしたいし」


キッチンで後片付けを終えた由紀は、早速出かける準備に取り掛かった。信長の外出用にと、予め通販サイトでジーンズ、Tシャツとスニーカも買い揃えていた。

「多分サイズはあうと思うから一度試着して見てください」

信長は、初めてはくジーンズの風通しの悪さとスニーカの圧迫感を訴えてみたが、洗面台の鏡に向かって外出の準備に忙しい由紀は、すぐに慣れるからと取り合わなかった。

Tシャツを前に信長がもじもじしていると由紀が化粧を終え戻ってきた。

「あら、まだTシャツに着替えていなんですか?」

「これを着るのか?」

「今日はこれしか買ってないんだからしょうがないでしょう。何か問題でも?」

その言葉に押されて渋々身に着たものの、信長のTシャツの胸元には大きなボン・ジョヴィの顔がプリントされていた。

(何故に儂が異国人の顔を胸に貼って歩くんじゃ。知ってる奴らがおったらとてもこんなものを着て歩けんわ)


現代に現れて以来の初めての外出だ。

阿佐ヶ谷駅から中央線で神田まで行き、山手線に乗り換え有楽町まで行く。信長は初めて乗る電車が到着する様子をじっと見つめていた。車両が目の前を通り過ぎ、その中にはぎっしりと人が詰め込まれている。何百人と乗っているだろう、それでいて極めて滑らかに駅に滑り込んできた。

(一度にこれだけの人を乗せて移動出来るとはたいしたもんじゃ)

ドアが開き、その中から勢いよく人々が押し出されてくる様子に思わず信長は後ずさりした。

由紀の後に続いて電車に乗り込み、ドアが閉まると同時にガラス窓に顔を張り付けて外の動く景色を眺め始めた。

「同じ電車でもこの何倍も速く走る電車があるのよ。新幹線って言うの」

由紀が背中越しに小声で話した。

「例えば東京から尾張までは二時間もあれば着くの、しかも千人位の乗客を乗せて」

信長は外の景色から目を離すことなく由紀と会話した。

「凄いの~。儂等が移動するならたっぷり十日はかかるぞ。兵糧部隊も必要になるし準備だけでも大変じゃ」

(こんな物が儂等にも有ったらの~。鉄砲を運んでくれるだけでも大助かりじゃ。いやいやこれで敵陣に突っ込むだけでもはや無敵じゃ)

由紀が輸送力の凄さを説明し、信長は戦車としての潜在能力に感じ入った。

普段、前から後ろに流れる景色しか見てこなかった信長は、真横に高速で飛び去る景色を夢中で追いすぎて軽い電車酔いを起こしてしまった。


有楽町駅で降りると、歩道は溢れんばかりの通行人でごった返していた。由紀がその人混みを器用に避けながらどんどん前へと歩く一方、慣れない信長は何度も立ち止まり、人にぶつかりながら歩かねばならなかった。今まで人を避けながら歩く必要などなかった。ただ直進するだけで自づと道が開けたものだった。


数寄屋橋の交差点に到着した信長は、歩行者信号が青に変わると小走りで中央付近まで行って周囲を見渡した。

わずか数日前のことであるが、現れた瞬間は途方もなく広く感じられた交差点も、今再び立って周囲を見回してみると、以前程の広さは感じられなかった。

「本当にこんなところに突然現れたってわけ?」

「そうじゃ。川を渡ろうとしてむら雲が躓きおって、気付いたらここにおったのじゃ」

信長は一歩一歩地面を踏みしめながら人々の往来の中、手掛かりを探し始めた。

信号が変わりそうになると由紀にうながされ歩道に戻り、また信号を待って中央へとやってきて同じ事を繰り返した。しかし地面はどこも固く国への戻り道などありそうにも無かった。

由紀にとっては随分無駄な時間に思えたが、信長にとっては唯一この場所が過去との接点なのだ。帰りたくても帰れない。黙々と下を向いたまま手掛かりを探し続ける信長が次第に可哀そうに思えてきた。


何度か往復を繰り返した後、ただ交差点で佇む由紀の隣で信長が急に顔をあげ周囲を見渡し始めた。そしてその表情がみるみるこわばっていった。

「どうしたんですか?」

「奴じゃ」

信長は俯き加減に由紀の手を引くと足早にソニービルの方へと歩きだした。

「奴が儂を見ておるんじゃ」

由紀は歩きながら後ろを振り返ってみると、交番の警官がこちらを見ていることに気付いた。

「奴らに追い掛け回されたんじゃ。もうここには長居はできん。今日のところは諦めじゃ」

交差点を何度も行ったり来たりしながらうろうろしていたから不審に思われたのかもしれない。丸腰で家来も誰もいない信長は潔く撤退を決めた。

結局手掛かりになりそうなものは何も見つけられなかった。

横断歩道を渡り終え、更にしばらく警官の様子を観察していた信長は、彼らが追ってくる様子の無いことに安堵した。


「大丈夫ですよ。別に悪い事しているわけじゃないし。じゃ、デパートに行ってちょっと涼みましょうか」

交差点で30分は過ごしただろうか。そろそろ退屈してきた由紀は一度休憩したかった。

「いや、ここまで来たついでじゃ。例の庭園にも連れて行ってもられんか。」

「・・・・・あぁ日比谷公園ね。そうね。買い物した後から行くのも辛いから、そっちから先に行きましょうか」

この日も蒸し暑い午後だった。歩くには距離があったが、かと言ってタクシーに乗るほどの距離でもなかった。

結局日比谷公園まで歩いた二人は、公園に着くと一旦ベンチに腰掛けた。

飲み物が欲しいと言い出した由紀は、信長にベンチに座って待っているよう伝えると、再びその場から去って行った。


一人になった信長が公園の様子を探ろうとキョロキョロしていると、隣のベンチから老人が声をかけてきた。

「信長殿でおられますな?」

ここで信長を知っている者などいないはずだが。

「貴様はだれじゃ」

「家康にございます」

「何と、家康とな!おぬしも未来に来ておったか!」

「はい、どういう訳かこの世に迷い込んでおります。ここで再び殿にお目にかかれるとは思ってもおりませんでした。

実は先日、信長殿が必死でこの公園に逃げ込まれてくるのをここで見ておりました。遠目でもあの井出達は間違いなく信長殿じゃと。あの時は大層驚きました。あ~殿も私と同じようにこの世に来られたかと」

「あの時の騒動をここで見ておったのか?しかし一人でこんなところに居るとは慣れたもんじゃの」

「はい、どうやら私の場合二度目のような気がしております。」

「どういうことじゃ」

「私もよく分からないのでございます。元の時代に戻った時には何もここでの事が思い出せないのです。しかしこの世に再び戻って来ると、前の時代の事も良く覚えておりますし、以前も来たことがあることを思い出したのです」

「で、教えてくれ。どうすれば国に戻れるんじゃ」

「それが、自分でもどうすれば戻れるかは分からず困っております。ただ、ここにくる直前も、この世から国に戻った時も、どういう訳か、飯を食っている時に限っての事なのです。しかも献立はいつも天婦羅で」

「何じゃそれは」

「魚や野菜を油で揚げて食すものにございます」

「ふ~ん。儂は戦の最中にこの世に出てきたのじゃ」

「人それぞれなのかもしれませんな~。そうそう、羽柴殿ともこの世でお会いしました」

「何?猿も来ているとな?」

「今はもう戻られたでしょうな。一度きりしかお会いしておりませんが。羽柴殿の場合は、女子と戯れている時に、と申されておりました」

「うーむ。わからんの。今日は何か国に戻る手掛かりがないかを確かめにここに来たんじゃ。二回目のおぬしも分からぬか」

「残念ながら」

「だがいつかは戻れるんだな?」

「恐らく。しかし、いつ、どうすれば戻れるかはわかりませぬ」

「ふーむ、悩ましいのぉ~。だが戻れるとなれば幾らか気が楽になるわ」

「気長に待つことですな」

「気長に待つなど儂の性分に合わんのじゃ、おぬしも知っておるであろう。それはそうと、おぬし随分老けたの~」

「はい、今は齢六十三になりましたゆえ」

「ここではおぬしの方が年上なのか」

「どの時代からこの世に飛び込んでくるか、なのですかな」

「不思議なことがあるもんじゃ」

「まったく。ただこの世も随分と面白い世界でございますよ。楽しんでいかれたらどうですか」

「ふむ、素晴らしい世界じゃ。儂は未来に来て驚きっぱなしじゃ。大した世の中じゃ」

「随分と発展しておりますな。まだ私などこの社会に溶け込めずに戸惑っております。しかし信長殿のお召し物を見るに、すっかり未来の社会に溶け込んでおられるようで」

家康は自分の和服姿に比べ、信長のTシャツにジーンズという井出達を褒めたつもりだった。

「じろじろ見るではない。世話になっている家人が用意してくれたんじゃ」

信長はそう言いながら、さりげなく胸元のボン・ジョヴィを両脇で隠そうとした。


由紀が飲み物を抱え戻ってくる姿がみえた。

「おっ、連れが戻ってきた」

信長と家康は由紀の歩いてくる様をみながら話し続けた。

「ところで家康よ。おぬしは今どこで寝起きしておるんじゃ」

「はい、そもそもここ東京は私が幕府を開いた江戸が発展してできた町でございまして、知っている場所も多ございます。かつての家臣の子孫も多くおりますゆえ、泊まる場所には不自由しません。いや~江戸がこれほど大きくなるとは、我ながら先見の明があると申しますか。なんでもここ東京は、日本で一番大きな町だそうですよ」

“カチン”

「ここはおぬしの・・・。儂の尾張は今どうなっておるんじゃ」

「え~それは大層大きな町になっておるようですよ。ただ東京の次に栄えているのは、羽柴殿が拓かれた大阪だそうで」

“カチン、カチン”


「お待たせしました~」

信長のもとへ到着した由紀は、となりのベンチに座っている老人をちらりと見た。

「家康じゃ」

信長がぶっきらぼうに老人を由紀に紹介した。

「えっ?お知り合い?」

「あ~。徳川家康じゃ。由紀殿は知っておるか?」

家康は無言のまま二ヤニヤと笑っている。

「えっ、あの江戸幕府を起こした徳川家康、、さん?」

「いかにも」

家康が胸を張って答えると、その脇で信長は益々不機嫌になった。

(またおかしな人が。しかも今度は徳川家康。いったいどうなっているのかしら)

信長は由紀に頼んで菊池家の住所をメモ書きしてもらうと、それを家康に渡して一方的に別れを告げた。まだ話し足りなさそうな家康はベンチに座ったまま二人の後姿を追った。


信長と由紀は次の目的地のデパートに向けて歩き出した。

「本当に徳川家康なの?」

「多分そうじゃ。儂の事を知っておって向こうから話しかけてきた」

「多分って、殿は家康さんを知ってるんでしょう?」

「知ってはおるが、あんなに老けた家康を見るのは初めてじゃ。ここでは奴の方が年上なんじゃ。しかし嫌な奴じゃ」

家康との間に何があったか知らない由紀は、不機嫌な信長をみてそれ以上聞くことを控えた。


再び銀座まで歩き、由紀に連れられるがままデパートに到着すると、信長は入り口の手前でぐっと上を見上げた。巨大な箱型をしたその建物は、その堅牢な造りといい、切り立った高い壁といい、城としての要件を満たしていた。

(こんな城ができたらの~。どこからも攻めようが無いはずじゃ。まず見事じゃ)

デパートの中へ入ると、その外装とは打って変わり、眩しいほどきらびやかで、大勢の人々で賑わい、そして不思議な匂いがした。

三階までが吹き抜けになっている天井の高さに信長は驚き、ここでもしきりと上を見やった。

(未来人は一体どうやってこんな巨大な箱を作り上げるんじゃ)

巨大な空間には太い柱が疎らに何本かあるだけで、この高さを保持していた。


初めてのエスカレータには戸惑いながらもうまく乗れた。

「人の代わりに階段が動いてくれるんじゃ、慣れれば便利なものよ」

独り言のように呟く信長の横で由紀はクスクス笑った。何にでも素直に驚いてくれる信長を見るのが楽しかった。同時に現代人であることの優越感も満たされた。

「とりあえず最上階まで上がり、順に降りていきましょう。そうだ、お腹もちょっと減ったし、お昼ご飯を食べていきましょうよ。一番上にレストランフロアもあるし」

二人で12階まで上がると、そこには昼をとうに過ぎているにもかかわらずいくつもの店先に依然として行列が出来ていた。

「この階は、全部食べ物屋さんなの。何か食べたい物があったら言ってくださいね」

寿司に懐石、フレンチにイタリアン、タイ料理に中華と様々なレストランを一通り見て回ったが、信長にはそれぞれの料理が何であるのかは当然理解できなかった。ただショーウィンドウに飾られている料理の種類の多さと、それぞれの店に押し寄せている客の数に驚いていた。

結局由紀に決めてもらうしかなく、由紀はすぐに入れるステーキハウスを選んだ。

「殿の時代にもお肉は食べてたんでしょう?」

「何の肉じゃ?」

「ここでは牛肉がメインかな」

「もう二十年も前じゃが南蛮人に勧められて飯に混ぜて食ったことはあるがの。牛はあまり食わん。そもそも獣肉はあまり食わんのじゃ」

「ふ~ん。じゃ現代のお肉料理を食べてみましょうよ。何事も経験だから」

「別に構わん。儂は特に好き嫌いがあるわけでもないし。ただ薄味はいかん。あとは由紀殿に任せるわ」

由紀はメニューを見ながら、自分はヒレで、信長にはサーロインを注文した。

程なくしてそれぞれの焼けた鉄板の上にステーキが運ばれてきた。

「私達はこのナイフとフォークを使って食べるの。最初は慣れないかもしれないけどこれも経験。さ、食べましょ」

由紀がステーキを小さく切りながら口に運ぶ様子を見て、信長も早速食べ始めた。

(随分と野蛮な食い物じゃのぉ。

しかし、切れ味の悪い事。

お~ぉ、血が滲みだしてきた、なんと生々しい)

信長にはよく切れないナイフで無理やり押しつぶすようにして血が滴る様が我慢できなかった。

店のスタッフが通りかかりと、その足を信長が止めた。

「すまんが、もっと切れ味の良い刀をくれんか?」

「はぁ?」

「ちょっとぉ~、何言ってるんですか」

慌てて由紀がスタッフに取り繕った。

「何か御用ですか?」

「いえ、大丈夫ですから。すいません」

スタッフは再びテーブルを離れていった。

「刀って。ナイフはあまり切れすぎても逆に危ないからこの程度なんです」

「しかし、こうも切れんとイライラするんじゃ」

「お願いだからここは大人しく我慢して食べてください」

以降信長は黙って食事を終えた。


店を出た二人は、エスカレータで下の階へと降りていった。

どの階にも所狭しと陳列されている物すべてが売り物だという。

それらの商品の量の多さに、これでもか、という豊かさを見せ付けられた思いがした。

どの階も信長の時代の栄えた町通り以上の人混みで混雑し、それらが幾重にも積み上がってこの巨大な箱が出来ているような錯覚を覚えた。

家具売り場ではその家具の艶と優美さにみとれ、貴金属売り場ではその眩い輝きに見とれ、香水売り場では由紀にならってサンプルスプレーを噴射してその強力な匂いにむせた。

服飾品売り場では、首の無いマネキンにギョッとして立ち止まった。

(首くらい付けておいたら良かろう。しかし趣味の悪いことよ)

戦国時代の人間にとって、首が有るか無いかは特別な意味を持っていた。

一階には海外有名ブランドをはじめとする様々なテナントショップが店を連ね、多くの人で賑わっていた。

信長の頃の「座」は、一部の寺社や商人によって既得権として支配されていて、新たに店を出そうにも不自由であった。信長は開かれた商いがこのように人を集めるのだと納得し、将来の栄える城下を夢見た。


エスカレータで下りきったところは地下の食品売り場だ。そこはとても地下とは思えないほど明るくて活気に満ち、信長が今までに見たことも無い果物や野菜が並べられていた。

(なんと豊富に食い物が。誰も喰うに困らない時代なんじゃ)

夏だというのに蕪や白菜、牡蠣、しいたけなど季節外れの食材までも並んでいる。

(いまどき白菜や茸は無かろうに)

由紀は信長の背中を押しつつビニールハウスや養殖技術を簡単に説明しながら先へ進んだ。

(未来人は、野菜や魚までも自分達の思い通りに調達しておるんじゃ)

隣の飲料品コーナーでも初めて見る酒や、綺麗な色をしたジュースに混じって、これまた多くの種類の水が売られていた。由紀に聞けば、ただの自然の湧き水だという。

水道からあれだけ透明な水が湧いているにも関わらず、しかもトイレで惜しげもなく流しているにもかかわらず、人々はただの自然の湧き水を買うという。

未来人の価値観が判らなくなった。


信長が広い地下街を一々立ち止りながら感心している間に由紀は夕食の買い物を手際よく済ませた。


デパートでの買い物を終え、二人は再び電車に乗り込むと、信長はまた向かいのドアの正面に陣取り電車からの風景を眺めていた。そのドアの右隅には中学生らしき女の子が立ったまま一人でハンバーガーをほおばっていた。

(行儀の悪い)

由紀を含め周囲の人々もその様子を見ながら心の中で最近の若者を憂いた。

信長も彼女をじっと見ながら、視線が合うと、また急に外を見るふりをした。

(豊かなんじゃ。こんなおさな子でも腹が減ったらこうやって好きな時に立ったままで腹を満たすことができる時代なんじゃ)

信長はおいてきた国の民等を思い出し、そして憐れんだ。彼らはせいぜい一日二食、それもたっぷり水で薄めた粥をありがたそうに鎮座して食べるのだ。


阿佐ヶ谷駅から中杉通りを歩き、早稲田通りまでいくと、並木で覆われている空の視界が開ける。

夕方になるといつも東の方角から飛んでくる飛行機が何機も見えた。

この日は晴れているにも関わらず、ちぎったような雲が南北方向に点々と並び、飛行機はそれらの雲の間から見え隠れしていた。

(変な雲)

ちょうど雲から出てきた飛行機を指さしながら由紀が信長に話しかけた。

「あそこにちっちゃく動いて見えるものがあるでしょ?あれ飛行機って言うのよ」

「儂が最初の晩に蛍もどきとしか言いようがなかったものじゃ。飛行機か」

「そう。空を飛んで移動する乗り物なの。ちっちゃく見えるけどあの中にも何百人もの人が乗っていて、さっき乗った電車なんかより十倍以上早く移動できるの。凄いでしょ」

「すさまじいの~。月まで行く未来人じゃ。空を飛んでも不思議じゃないのぉ」

驚くことに慣れてしまったのか、由紀から手渡された買い物袋が重いのか、信長の反応が薄い。

「で、あれに乗ってどこへ行くんじゃ?」

「日本各地に行く人もいるし、海を渡って外国に行く人もいれば外国から来る人もいるのよ」

「由紀殿も異国に入った事があるのか?」

「何度か行った事はあるわ。遠いところでも飛行機だったら半日もあれば着くし」

「折角この世に来ておるんじゃ。いつかは儂も異国にも行ってみたいもんじゃ」

由紀の海外旅行の話を聞いているうちに菊池家の門が見えてきた。


夕食時に、今日の出来事を吾郎に話した。

「えっ徳川家康に会ったって!? 

でも織田信長がいるんだから徳川家康がいてもおかしくないよね。今度会ってみたいなあ」

「僕も会ってみたい」

優太さえも徳川家康を知っていた。

「ふん、別に会うほどの者では無いわ」

ここでも由紀や吾郎が興奮するほど信長は不機嫌になった。

「秀吉も来ていたと言ってたぞ」

「本当ですか?我々が気付かないだけで、実は過去からは色んな人達がタイムスリップして来ているのかな。でもどうしてそんなことが出来るんだろう?何か天の神様から使命を貰ってきているのかな~特別な人達だけが」

織田信長に豊臣秀吉、そして徳川家康がこの現代に姿を現しているとなれば、もはやタイムスリップは菊池家の中では既成事実と言ってもよかった。

この晩は、この話題で持ち切りだった。


信長は、家康と現代であったことよりも初めての外出で体験した数々を思い起こし、布団に入ってからも寝つかれずにいた。

(この四百年の間に蓄えてきた文明の凄さよ。電車もデパートとやらも大したもんじゃが、あの溢れ出るように並べられた商品の数々。本当に豊かなんじゃ。誰もまず喰うに困ることの無い世の中なんじゃ。一方儂等は毎年飢えで何人もが死ぬんじゃ。何をどうすればこんな豊かな世の中になるんじゃ。一体どこから手を付けていけば喰うに困らん世の中が出来るんじゃ)



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