第七章
第七章
翌日、日曜日の朝。
小学四年生の一人息子の優太を少年野球の練習に送り出すため、由紀は一旦7時に起きると、朝食を食べさせ玄関で見送った。そして昨夜の寝不足からすぐにまたベッドに戻り、再び目覚めたのは11時を過ぎた頃だった。リビングルームでは既にコーヒーの香りが漂うなかで吾郎がソファに寝転がりながらタブレットPCでニュースを読んでいた。由紀はマグカップにコーヒーを注ぐとキッチンに立ったまま仲間のお母さん達からの連絡メールに目を通し始めた。二人とも早朝の珍客、信長の今後の話を切り出したいと思いながらも、起きて早々この難題を話題にすることを躊躇い、普段と変わりない日曜の朝を過ごしていた。
その頃布団の中で信長もようやく目を覚ました。
横になりながら部屋を見渡し昨日からの状況が変わっていないことに失望した。
(一体どうしたことか。皆達は今頃どうしているであろう)
天井を見ながら昨日の激動の数々の出来事を思い返した。
(今日こそは一旦国に戻らねば)
ふん、と勢いよく起き上がった信長は、部屋を出ようとドアノブに手をかけた。
しかし扉が開かない。押せども、引けどもドアはびくともしない。
ドンドンとドアを叩く音に気づいた吾郎が部屋にやってきた。
「おはようございます。良く眠れましたか?」
ドアを開けるためにはノブを回すことを知った。
部屋への出入りさえ不自由する信長は再び郷愁に駆られた。
吾郎がリビングルームに向かう一方、信長は玄関から外へと向かった。
「殿、用足しでしょうか?」
「うむ」
「トイレにお連れいたします。厠をトイレって言うんです。別の国の言葉ですけどね」
吾郎がトイレの明かりをつけてドアを開けると、便座の丸い蓋が自動的に開いた。
そしてここからまた暫く信長の思考は停止する。
「これが便器です。随分おかしな格好に思われるかもしれませんが、この中で用を足してください。大の時はこう、小はこう」
吾郎が実際に身振りを交えて説明を始めた。
「で、終わったらこのボタンを押すと水と一緒に流れます。紙が必要な時はここにありますから。ドアを開ける時はこのレバーを下げれば開きます。分からない事があったら呼んでください」
吾郎がリビングルームに戻って行った。
一人トイレに残った信長は、便座に腰かけながら緊張し息苦しさを感じた。壁に据え付けられた操作板をじっと眺めはしたものの、風呂場の出来事もあり、いたずらに触れることは控えた。相変わらず吾郎の説明は半分も分からなかった。しかしそれを考えても無駄であることを実感していた。
(ここが厠なのか。むしろ良い匂いがするのは何故じゃ)
トイレットペーパーの白さ、薄さと柔らかさに感心し、立ち上がってボタンを押した際の大量に流れ出る水に見入った。信長の時代はただ用を足す場所を厠と言っただけである。すべきことは同じなのに何故かひどく大袈裟に思えた。
「おはようございます」
リビングルームに入って来る信長を由紀は爽やかなあいさつで迎えた。
この男が織田信長本人だとは未だ信じられない。しかし昨夜の振る舞いを思い返すと、吾郎が言った通り危険な人物ではなさそうだった。
となれば、取りあえず我が家の客人としてもてなそうと考えた。
吾郎が信長をソファに座らせたところで由紀は遅い朝食の準備を始めた。
トースト、スクランブルエッグ、野菜サラダ、コーヒー、ヨーグルト。
手際よくテーブルに並べ終えると、
「さあ、食べましょう」と信長を促し、自らも椅子に座った。
今朝の料理は昨晩とは一転して信長にとって見たことの無い物ばかりが食卓に並んでいた。
信長の戸惑う様子に、吾郎はまず自分で食べ、次にそれぞれが何であるかを説明した。その説明を聞いているのか、聞いていないのか、信長は見様見真似でフォークを使い恐る恐る口に入れては、何か呟いていた。
(餅か?・・・・いやまるで違う)
(鶏の卵か?・・・・随分雑な料理じゃ)
(焦げた茶に牛の乳だと・・・気色悪いのぉ)
(葉っぱを生で食す・・・腹を壊さんのか)
由紀は食事をしながらもさりげなく信長を観察していた。
実は敢えて今朝の朝食にこのメニューを選んだのには訳があった。
戦国時代からやってきた、という事が真っ赤な嘘であれば、食事に際してどこかで現代人の常識をうかつにも見せるはず、と思ったからである。
信長の時代には存在しない料理を出すことで、その反応を見てみたかった。
その反応はというと----
(やはりこの人は現代人じゃないみたい。食べ方もひどくもどかしいし)
由紀がそんなことを考えている一方、信長は戸惑いながらやっとで口に入れたいづれもがあまり旨くないと感じていた。
家のチャイムが鳴り、優太が練習を終えて帰ってきた。優太は早朝突然現れた不思議な訪問客の事をまだ知らない。
ユニフォーム姿の優太がリビングルームに現れると、吾郎は織田さんだ、とだけ紹介し、早くシャワーを浴びてきなさい、と促した。
「こんにちは」
優太はざんばら髪の中年ミュージシャンのような格好をした信長に軽く挨拶だけするとすぐにバスルームへ向かった。
食事を終えた信長はまず差し迫った問題を解決する必要があった。
「吾郎よ、何度も言うが儂はどうしてこんな事が起きてしまったのか到底わからんのじゃ。いまだに夢のような気がしてならないんじゃ。もっと未来の生活を見たい気持ちもあるんじゃが、話した通り戦の途中で儂一人がいなくなっておるんじゃ。まずは一刻も早く国に戻って、で、また出直してきたいんじゃ」
現代に多少未練を持ち始めたようだった。
「殿、お気持ちお察しいたします。ですけどすぐには難しいと思います」
「すぐには難しいとは?」
「単刀直入に言って、今の科学では簡単には出来ないということです」
「そこを儂が頼んでいるんじゃ。はなから出来ないなどと申すでない」
「申し訳ありません。でも無理だと言わざるを得ないんです」
「何故じゃ?無理と決めつけんでもっと親身になって考えてくれんか」
「殿、今の文明は、失礼ながら殿の時代に比べたら圧倒的に進歩しています。それでも生身の人間が、しかも馬と一緒に時代を行き来するなんて、考えられない出来事なんです。むしろどうしてそんな事が出来たのか不思議でなりません。考えても分からないんです。残念ですが今は元の時代に戻るなど無理だと思って下さい」
「じゃが、現にむら雲と儂はここに居るのじゃ。ここに来れたということは何か帰る策もあって然るべきじゃ。そうは思わんか?」
「理屈ではそうかもしれませんが、本当に現代の科学でも解明出来ないんです。もっと私も調べては見ますけど、一日や二日で解決できる問題じゃないんです。しばらくはここで生活することを覚悟して下さい。この家に居てもらって結構ですから」
「それはおぬしの考えじゃろう。もっと知恵のある者に尋ねてくれても良かろう」
吾郎がむっとした。
「聞かなくとも、誰の目にもこの件は、明らかに異常現象なんです・よ。私だって一通り学校で学んできていますから。考えてもみてくださいよ、歴史の中で人々が時代を行き来してたら、おかしなことになるでしょう?私じゃなくて他の誰かを頼りたいのならどうぞ。勝手になさっていただいて結構ですから」
険悪なムードが流れ始めた。しかし信長も食い下がって引かない。
しばらく吾郎との押し問答は続いた。
「お母さん、お昼ご飯なあに?」
着替えを終えた優太が二階から降りてきた。
由紀が優太の食事を作りにキッチンに向かうと、吾郎は信長との堂々巡りの問答を切り上げ、優太に話しかけた。この風変わりな客は大昔の時代からやってきたらしいこと、しかしそれは現代の科学からしたらあり得ないことで、それを調べる間しばらくはこの家に一緒にいることになるだろう、と説明すると、優太は最初こそ目を丸くしながら驚いた様子だったが、その後は別段疑うそぶりも見せず無邪気にこの珍客の訪問を喜んだ。車庫には馬もいるという。動物好きの優太にとって格好の遊び相手ができて喜びは更に増した。
そして我が家に信長がいることを友達には話さないよう付け加えた。口に出したところで恐らく誰も信用しないであろうが、昨日の事件も有り、再び騒動を起こすことを避けたかった。
吾郎が優太と話している間、帰る術が無いと言われた信長は、遠く昔の昨日を思っていた。
(今頃皆で儂を探しておるかもしれん。
このままここに居ったら儂は死んだことになるに違いない。
ようやく天下が見えてきたんじゃ、一刻も早く戻らねば今迄儂がやってきたことが水の泡じゃ。じゃがはたしてそれがいつになるやら)
一人で考えに耽っていると吾郎が改めて息子の優太を紹介してきた。
信長は現代の子供にどう接して良いかわからず不器用な愛想笑いを浮かべたまま優太の顔をじっと眺めた。
(儂らの子供達に比べ何と利口そうな。
ここでは儂も子供同然なんじゃ。いや、それ以下かもしれん。
なにせ未だこの世の中の勝手がまるで分かってはおらん。
しかし国に帰るためには何か手を打たねばならん。
吾郎は無理と言っても、何か策があるはずじゃ。
まずは儂自身がこの世界をもっと深く知ることか。
その上で儂自身も他人任せでなく策を考え出さねば)
信長は吾郎に顔を向けた。
「吾郎よ。今すぐ国に帰ることが難しいことは承知した。だが、そのままにしておくわけにもいかんのじゃ。儂がいないことが知れたらまた戦が始まるんじゃ。この現代とやらの文明を儂に分かるように説明してはもらえぬか。もっとこの世界を知った上で、帰る方法を自分でも考えてみたいんじゃ。わからん事だらけのこの儂に色々教えてくれんか」
「・・ええ、それはまあ喜んで。何でも聞いてくださいよ。きっと現代の文明にびっくりすると思いますよ。今はとにかく凄いんですから。でも何度も言うようですが、それでも帰る方法は・・・」
一旦気持ちの整理ができると信長の関心は一気に現代文明へと向かった。昨日以来、あらゆる物に関して聞きたいことは山のようにあったが、自分自身でもどこから聞いていいのかすら分からず、更に現代文明に対し、天正の時代からやってきた自分が何も知らないことが気恥ずかしく思えた。今、改めて聞くことを許されたような気がして信長は眼を輝かせながら部屋を見渡し始めた。
(それにしても明るい部屋じゃ)
信長がそう感じていたのは、照明自体の明るさだけでなく色彩の豊かさにもあった。信長の時代には存在しない初めて見る色が現代には溢れていた。食器、小物、花瓶やカーテンなどを彩るパステルカラーが部屋の中で光って見えていた。
(そして完璧な仕事じゃ)
更にそれらの形状の美しさにも見とれた。家具や小物を形どる直線、平面、曲線、球面はまるで神が創ったかのように完璧でどれも一切の歪みすら感じられなかった。
部屋の中の全てが信長の興味の対象であった。
その中でも最も気になっていた物がテレビである。実は昨日、あの大騒動で走り回っていた時に信長は既にビルの壁面に張り付けられている巨大モニターを目にしていた。信長にはそれが城の巨大な窓に見えていた。その窓からは巨人が顔を覗かせ大層恐ろしく思えたのだった。
大きさこそ違うがそれがこの部屋にもあった。
「まずこれじゃ。これは一体何なんじゃ?」
信長に言われ、吾郎がテレビをつけるとJリーグサッカーの試合中継が行われていた。
「これはテレビと呼ぶんです。不思議でしょう~」
画面をしばらく眺めていると、選手がアップで映ったり、俯瞰で球場全体の様子に切り替わったり、リプレイではスローモーションになったり、その慌ただしく切り替わる画面を正面で間近に見ていた信長は気持ち悪さを感じた。三半規管がテレビ用に訓練されていないのだ。
思わず視線を外しテレビの正面からそっと横へ回り込むと、今見ていたものは魔法の窓ではなく、それは単なる奥行きのない薄い板であることに更に驚いた。
「一体これはどうなっておるんじゃ?」
「これは離れた場所でやっている出来事や、過去の出来事を再現する機械なんです」
「何のために?」
(えっ?)
「何のためにこんなものが必要なんじゃ?」
「何のためって、他所でどんなことが起きているか興味あるでしょう?今やっているように家の中でサッカーの試合を見ることも出来るし、僕らは毎日周りで何が起きているかをテレビで見て知ることが習慣になっているんですよ。殿だって、他所の国で何が起きているか気になるでしょう?」
「全然気にならん。他所は他所じゃ。それを知ったところで何になる」
「えっ?だってそれがわかれば便利じゃないですか。たとえば武田軍が攻めてきたことがわかればいち早く対応できるじゃないですか」
「そんなもの見張りをつけておけば良いだけじゃ。そもそも他所で他の者が何しようがそんなもの勝手じゃ。そんな事にこだわっておったら時の無駄じゃ。そんな暇があれば自分達の事を考えるわ」
ニュースの価値がうまく伝わらない。ただ、言われてみれば漫然とニュース番組は見ているものの本当に必要な情報なのかと問われると考えるものがあった。だが400年前の信長に現代文明を否定されたようで気に食わない。
「う~ん。だったらこれで昔の芝居をいつでも自分の好きな時に見ることが出来るとしたらどうです?それがたとえ夜中でも。便利でしょう?」
「そんなもの、役者連中を城に住まわせておけば、見たい時にいつでも見れるわ」
「殿は出来ても一般庶民にはそんな事出来ないでしょう?屁理屈ですよ」
優太が二人の脇でテレビのリモコンを使ってチャンネルを次々と変えて見せた。
ニュースや時代劇、野球中継、TVショッピング、アニメ、そして昔の白黒映画の場面。
「待て、これは何じゃ?墨絵のようじゃ」
「あ~これは古い映画ですね。昔はまだ今のように色が再現できなかったので白黒ですが、技術が進歩してようやく本物の色が出せるようになったんです」
「ふ~ん、儂にはむしろ色を消し去る技術の方が凄く思えるんじゃが」
お互いの文明格差があまりにも有り過ぎてどうも話がかみ合わない。
信長に概論で説明してもなかなか理解してもらえない。
「そうだ、これを使って簡単にテレビの仕組みを説明しますよ」
吾郎はビデオカメラを持ち出して、信長がテレビに見入ってる様子や周りの優太や由紀の姿を録画しそれを再生して見せた。
「殿、これはどうです?」
「お、儂がおるぞ!これは儂じゃろう?儂がここにおるぞ!」
信長は思わずテレビに近づき画面を見つめながら叫んだ。
「これが見たままの様子をそっくり記憶させる機械なんです。ビデオカメラというんですけど」
更に吾郎は昔撮った優太の運動会のビデオを再生して見せた。
「これは優太の小さい頃の様子です。まだちっちゃいでしょ?」
「お~、一生懸命動き回っておるではないか!昔の優太と今の優太を一緒に見られなんてすごい技じゃ!」
信長が興奮してきた。
「後ろにいるこの人、もう亡くなった私のおばあさんなんですけど、このビデオカメラさえあればこうやって昔の元気だった頃の様子をいつでも見ることができるんですよ」
「これは凄いの!」
「でしょう~」
「これさえあれば墓など要らんというわけか。寺の墓なんぞ場所を喰うだけで何の役にも立たんと思っておったんじゃ。坊主は威張り腐ったおるし。そうか~先祖なぞ供養せずにここに閉じ込めておけばいいんじゃ。見事じゃ」
「・・・」
吾郎は信長の寺嫌いを知っていたので敢えて言葉にしなかったがビデオカメラが発明されても寺に墓は今もある。
「元々は見たままの様子をこのカメラでとって、その様子を信号として空中で目に見えない波に乗せて飛ばすんです。それをこのテレビで受けてそっくり再現するという仕組みなんです」
「ふ~ん。目に見えないんじゃわからんの。しかしなんでこんな薄っぺらい板がこのように動いて見えるんじゃ?」
「この原理の説明は少々厄介です。薄っぺらい板にしか見えないのですが実はこの板の中には、例えば、殿の領内の民衆が全員で一生働いてもやりきれないほどの仕事を一瞬でやり遂げるような機械が埋め込まれていると思ってください。これも目には見えませんけどね」
「そんなに凄まじい物なのか・・・」
理屈は全く分からないが、ただ今も昔の様子も自在にテレビで再生できる様子をみた信長は、こんな技をもった未来では、必ず元の時代に戻ることが出来ることを確信し興奮した。そして何とかこの技術を持ち帰りたいと思った。
「今度儂がこれを持ち帰ったら、儂等の時代でも使えるのか?」
「う~ん。カメラとテレビを一緒に持ち帰ることが出来ても電気が無いと使い続けることは出来ませんね」
「電気?」
吾郎は、現代の生活基盤を支える電気、水道、情報インフラなどを一通り説明しなければこの後の話が進まないと感じた。
しかし四百年前の人間にどう説明したら良いものか。吾郎は優太にも聞かせるつもりで説明を試みた。
「現代までの発明の歴史の中で、我々の暮らしに一番密着しているのが電気という目に見えない力なんです。これを使って、重い物を動かしたり、物を光らせたり、熱を発生させたり、物を冷やすことが出来るんです。家の中の機器の殆どがこの力によって動いているんです。テレビや天井で光っている照明もです」
「ほ~。儂等の時代でも作れるのか?」
「作り出すことは意外と簡単なんです。雷なんかも電気そのものですし。問題は電気を作った後にどうやってそれを蓄えておくか、更にそれをどうやって各家に送るか、これが技術の要なんです」
「ふ~む」
目に見えない力など見当もつかないが、それでテレビやビデオが使えるとなると必要に思えてきた。
次に吾郎は信長をキッチンの方へと案内した。
鍋に薄く水を張り、IHヒーターの上に置いてスイッチを入れた。
程なくお湯が沸騰し始めたところで鍋を上げてみせた。鍋の下に火が無いことを見せるためだ。
「これも電気の力です」
吾郎はヒーターの上に今度は自分の手をかざして熱くないことを示した。そしてまた鍋を置くと、再び湯が沸騰を始める。
「火の気がなくても湯を沸かせるのか・・」
「これは電磁調理器といって、この台の下では電気が小刻みに方向を変えながら流れているんです。ここに専用の鍋を置くと、鍋の金属中にも電気が流れてそれが熱に変わって湯を沸かすんです」
「・・・・・・・・・・」
吾郎は冷蔵庫からラップに包まれたご飯を取り出し、それを電子レンジに入れてスイッチを押して一分待った。ご飯を取り出して信長に手渡すとホカホカと温かい。
「不思議でしょう~?これも電磁波という目に見えない波の力でご飯を温めているんです。この波をおにぎりに当てると、そこに含まれている水分が激しく揺れて熱を持ち全体が温まるという理屈なんです」
「この箱に入れるだけで飯が熱くなるのか」
IH調理器具に電子レンジ。今迄煮炊きするとは火を使うことと思っていた信長は、生活の根本が覆される思いがした。
由紀も優太も普段何も考えずに使っていたが、その原理を知ったのはこの時が初めてだった。口には出さなかった。
次に吾郎は冷蔵庫から氷を出して信長に見せた。
「電子レンジとは逆に熱を外に奪うことによって、いつでもこのような氷を作ることが出来るんです。魚や肉もこの中に入れて凍らせておけば、腐ることなくいつでも好きな時に出して料理に使うことが出来るんです。この原理は・・・」
今迄滑らかだった吾郎の説明が途切れた。
コンプレッサーとか言う前に空気や気体といった存在をどの様に話そうかと悩んでいたのであった。これは意外と難問である。
「これはちょっとまた改めて説明します」
結局端折って現象だけを説明するにとどめた。
「それと、夏なのにこの部屋涼しいと思いませんか?これも冷蔵庫と同じ原理で部屋を冷やしているんです」
「たしかにこの部屋に入った時にひんやりと涼しいと思ったわ。部屋にも目に見えんからくりがあったのか。すごいの~」
現代文明の凄さを少しずつ理解してくれた信長の様子を見て、吾郎の調子も段々とエスカレートし部屋の中の機器を次々と説明していった。
次は電話。初めて出会った時に信長が大層驚いた代物だ。しかしここには刀はない。
吾郎のスマホから由紀宛に発信し、信長の肩を抱えて廊下に出ると、そのスマホを信長の耳元にあてた。そこからは由紀の話し声が聞こえてきた。
「これは携帯電話といいます。これを持っていれば、家の中だけでなく、日本中、世界中、いつでもどこでも誰とでも話が出来るんですよ」
「昨日はこれで由紀殿と話をしておったのか。こんな薄っぺらい板でそんな事が出来るのか。こりゃあ相当便利じゃ。これがあれば何日もかけて馬など走らせる必要も無いんじゃ。吾郎よ、これは儂等の時代でもは使えるのか?」
「いいえ、これも電気が必要ですし、信号を遠くに飛ばしたり取り次いだりする局という施設が必要になります」
(未来は凄いの~。夜も昼もなく光に満ち溢れ、死んだ人間が元気に笑い、火を起こさずに飯を作り、夏を涼しくし、誰とでも話したい時に話が出来る。昼夜も今昔も季節も居場所も関係なしにまさに自由奔放な暮らしじゃ)
信長はこの現代という世の中に存在する全ての物が欲しくなった。
(鉄砲なんぞを血眼になって手に入れるより、これらを持ち帰った方が余程価値があるわ)
そしてこれを持ち帰った時の皆の驚き様を一人想像してほくそ笑んだ。
お茶の準備を始めた由紀に信長が声をかけた。
「その水はどこから湧いてくるんじゃ?」
水道水のことだろう。
「私達の住んでいる東京は、遠くの山から流れてくる川の水をろ過して使っているんですよ」
「それを水道管っていう管で各世帯に配水しているんで、こうして家の中でも好きなだけ使うことが出来るんです」
吾郎が補足した。
「日照りでも枯れることは無いのか?」
「夏はやはり注意が必要なんですが、ダムっていう巨大な溜め池が各地にあるので無くなるということは滅多にありません」
昨夜の風呂にも、今朝のトイレにも、もったいないほどの透明な水がふんだんに使われていることを目にしていた。たかが水ではあるが信長はこれを見ただけでも豊かさを感じずにはいられなかった。それと同時に各世帯にこれを廻らすための膨大な月日と労力を想像して黙り込んだ。
夕食時、信長は黙ったまま言葉を発しなかった。
「殿、どうしたんですか?大丈夫ですか?」
「いや、未来文明の凄さに驚いて言葉が出んのじゃ」
吾郎はそれを聞いて嬉しそうに親子三人の会話に戻った。
実際信長は打ちのめされた気がしていた。
(凄い文明じゃ。目に見えん理屈ばかりでさっぱり解らんが確かに凄い。儂等の時代と物の考え方が根本的に違っておるわ。儂等は誰が見ても判るように力を誇示することが一番大事なんじゃ。殿様はその力を城の大きさと兵の多さで天下に示さねば安泰は保てん。しかし未来人はどうだ。見えない力をこれだけ賢く使って、誰に誇るともなく暮らしているではないか。奥ゆかしきことよの~)
更に夕食後も吾郎のデモンストレーションは続いた。
洗濯機や乾燥機、そして食器洗い機。
(こんな事まで機械にやらせるのか)
デジカメプリント写真
(帰って皆の写真を撮ってやったら驚くじゃろうな)
ワープロ
(筆さえも使わんのか。しかも達筆じゃ、機械のくせに)
Eメール
(声さえ相手に届ける未来人じゃ。手紙の必要ももはや無かろうに)
最後に吾郎は自信たっぷりに信長に言った。
「殿、これを見て下さい」
吾郎はパソコンを操作してグーグルアースを起動した。グーグルアースとは米国のGoogle社がインターネット上で提供しているサービスで、人口衛星、飛行機からの写真を統合し地球上のあらゆる地域も上から克明に見渡せる素晴らしい写真データベースである。これを操作すれば地球上のあらゆる場所を上から見下ろせるのである。
吾郎は最初に、宙に浮く地球を見せた。
「これが我々の住む地球という星です。地球は太陽の周りを一年かけて周っているんです。更に地球自身も一日かけて自転しています。日の光が当たらないところが夜で、当たるところが昼になるわけです」
吾郎は画面上の地球をマウスを使ってクルクルと回して見せた。
「こんな小さなの星の上に儂等全員が暮らしておるというわけか!?
こんな丸い形をしておるのか?下に居たら落ちそうじゃ」
「そう思うでしょう~。でも地球が回ってることで全ての物が地面に向けて引っ張られているんで誰も落ちたりしないんです」
「そんなものかの~。何やら下にいたら頭に血が昇りそうに思うんじゃがの~。ところでそもそもどうやって地球を外から見ておるんじゃ?」
「凄いでしょ。実は我々は既に地球から離れて宇宙に飛び出す技術を開発したんです。これは地球の外から実際に写真で撮って合成しているんです。月に行った人もいるんですよ」
「何と、月にか!どうやったらあんなに高くまで行けるんじゃ?
で、どうじゃった、月は?」
「今日は遅いんで追々説明していきますけど、ロケットという乗り物で行くんですよ。月の風景もまた今度見せますね」
(未来人は月に行く・・・)
信長は、現代文明の空恐ろしさを感じた。
(こんな奴らと戦っても絶対勝てん。
こやつ等から見れば儂等の戦など童戯じゃ)
吾郎は唖然とする信長を他所に操作を続けた。
宇宙に浮かぶ地球からドンドン地上に接近して日本、東京、阿佐ヶ谷地域、そして我が家に到達してみせた。
「これが我が家を上から見た様子です」
そして得意げに信長の方へ振り返った。
家に居ながら地球をクルクルと回転させ、世界のいたる所へもその上空から見下すことが出来る。神の領域であった。信長は地球が丸い様子に驚き、更にその中の日本が如何に小国であるかを知った。
信長の世界観はこの時に少し変わり始めた。
次々に現代文明の粋を集めた機器の説明を受ける信長であったが、今日吾郎に見せてもらったものは、めずらしいというより想像を遥かに超えた奇跡であった。
信長の時代では不便とさえ感じていなかった事すら解決されていた。