第二章
第二章
天正三年五月二十一日(1575年6月29日)
武田軍と徳川・織田連合軍が設楽原で川を挟み睨み合っていた。
この地では既にひと月を越える攻防が繰り広げられている。
ここは長篠の戦いの戦場である。
この戦は武田信玄の死後、徳川家に寝返った奥平貞昌を討つため、武田勝頼が貞昌の拠点である長篠城を攻め落とすために起きた。徳川家康は新たな家臣となった貞昌を援護すべく、八千の兵と共に駆けつけた。しかし武田軍は一万五千の兵をもってこの戦に臨んできた。徳川家康は急遽織田信長に支援を要請し、度重なる使者を出向かせた末、ようやく信長は三万の兵を挙げて出陣してきた。
天下統一の手応えを肌で感じつつあった織田軍の援護は人数以上に頼もしかった。千人を超す鉄砲軍を全面に押し出すことで武田軍の騎馬隊を徹底的に牽制した。そこに昨夜の徳川方の酒井忠次の夜襲が功を奏し、長篠城を包囲する武田軍の鳶ヶ巣山の全ての砦が落ちた。この長期に及ぶ戦が決着しようとする朝であった。
「皆のもの、今朝、酒井が武田の砦を全て落として長篠城を救った。後は全軍で奴らを蹴散らすだけじゃ。もはや勝ちは我が方にありじゃ。今日の戦で決着をつけるよう、こころしてかかれ~!しっかりとわしに功を見せつけ~!」
既に勝ちを確信した織田信長率いる救援軍の興味は、褒賞にありつけるかどうかだけであった。我こそはここで手柄をと、荒ぶる武士、足軽、雑兵達は信長を囲み次々と雄叫びをあげた。
この尾張軍団の自信に満ちた雄叫びが山々に響き始めた頃、その木霊に呼応するが如く、ざわめく武田軍が近づいてきた。
本日の合戦の開始である。徳川軍は既に大久保忠世・忠佐兄弟を先頭に武田軍に対し戦を仕掛けていた。川を隔てて布陣していた織田軍は武田軍を迎え撃つために連吾川を挟み騎馬隊封じとして馬防柵を三重にも築き上げていた。武田軍の騎馬隊は威勢よく柵の手前までやってきたものの悉く鉄砲隊の餌食となっていった。それでも勇猛な武田軍は右翼、中央、左翼と三方に別れ、次々と攻撃を仕掛け、一度は馬場信春の率いる右翼隊が佐久間信盛の守る丸山の砦を落として優勢に立った。勝頼は潮時を見て退陣を示唆する馬場や山県らの家臣の意見を無視し、更に進軍の命を発した。しかしその深追いが災いとなり次々と鉄砲隊の餌食になり、しだいに劣勢を強いられる展開へと陥って行った。
この様子を眺めていた信長は、頃合良しと全軍で柵を抜けて総攻撃に出ることにした。連吾川は数日前の雨で多少水嵩があがってはいるものの、それでも深さ二尺(六十センチ)そこそこの小川である。大半の兵が渡りきったことを確認したところで数人の家来を連れた信長も馬に乗り、最後尾から雨で濁った川を渡り始めた。
勝利を確信した信長は、自信に満ち溢れた大きな動作で刀を抜くや、それを天に向けて突き刺すかのごとく振り上げると、良く通る声で気勢を発した。
「みなのもの、かかれ~!」
それを合図に後ろに付き添っていた家来達も信長を後にし、馬を一気に駆けさせた。
その直後、
信長の天に向けた刀の鉾先が光った。
それはまるで雲の合間の日の光を全て集めたかのごとく眩しく光を放ち、信長の頭上から幾筋もの鋭い光の束でその周囲を照らした。するとその光の傘下の馬は閃光に目を眩ませたかの如く、右前足の膝をガクッと崩したかと思うと、信長を背に乗せたまま大きな水しぶきをあげながら前のめりに転倒してしまった。
前に出て行った家来の何人かはその水しぶきの音に振り向き、
「殿!」
「殿!」
と呟く小さな声を重ね、互いの目を見やった。
信長の元へ駆けつける事を皆が一瞬躊躇していた。先を急ぐ思い以上に、浅い川での転倒を殊更大袈裟にすれば信長自身の機嫌を損ねてしまう。家来達は敢えて見て見ぬ振りをしながら前を向きなおすと、再び武田軍を目指し馬を走らせていった。
家来達において行かれた信長と馬は、実は何とこの深さ二尺程の川でもがいていた。信長は腰の丈ほども無い川の中で手足をバタつかせている自分を不思議に思った。水中の息苦しさを感じることもないが、どこを蹴っても川底に足がつかないのである。段々と体が沈み、ふわふわと水中を彷徨うような感触にとらわれながら次第に暗い闇の中へ吸い込まれていった。
川面にわずかな波紋を残し、誰にも気付かれること無く信長と馬は連吾川から消え失せた。
合戦は昼過ぎには武田軍を全て追い払い見事なまでの勝利を収めた。それぞれの無事を喜びながら勝利の興奮に包まれた織田軍の兵士達が意気揚々と引き上げてきた。信長からの労いの言葉を期待しつつ戻ってきたものの肝心の信長の姿がどこにも見えない。皆でいぶかしく思いながら側近の家来達は馬を駆け、辺りを探し回ったがその姿はどこにも無い。いくら気分屋の信長とはいえ合戦の、しかも勝鬨をあげるその場から姿をくらますとは。
信長の姿が見当たらないことが後続の部隊へも伝わり、兵士達の一時の話題となっていった。