第一章
第一章
平成二十八年六月二十五日(2016年6月25日)
じっとりとした暑い土曜日の午後の銀座である。
時刻は午後四時を過ぎ、午前中の抜けるような青空は既に白褪せ、太陽だけはまだギラギラとビル群を照り付けていた。
時折選挙カーが通り過ぎる以外は静かで日曜日ほどの人込みもない。ほのかな洋菓子の香りが漂う土曜日独特の弾んだ空気で賑わう数寄屋橋交差点でこの事件は起きた。
スクランブル交差点の歩行者信号が点滅を始め人々が足早に渡り出した頃であった。
“ドサッ”
「キャッ!」
ソニービルのコーナーから有楽町駅方面へと歩いてきた一人の中年男が強く突き飛ばされて激しく道路に転がった。周囲の人々から同時に悲鳴があがり、男は太陽で熱せられた地面から咄嗟に起き上がろうとしながら、自分の身に何が降りかかったのかを確かめようと不機嫌に振り向いた。
「痛ってー、何だよ全く。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ワォッ!」
男は起き上がるどころか大袈裟に尻餅をつき、焼けたアスファルトに両手をつきペタペタと後ずさりした。男の薄いベージュのチノパンの膝からは、転倒でうっすら血が滲んでいた。しかし男の視線は、膝を飛び越え、正面の物体にくぎ付けにされたまま動かすことができなかった。
男の視線の先には、ずぶ濡れの馬と薄く鬢を蓄えた武士の姿があった。
武士は右手に刀を下げたまま、突き飛ばされた中年男を見下ろすように大きく目を見開きその場に佇んでいた。
銀座の交差点のど真ん中に武士と馬が突如として現れた。
その瞬間を目の当たりにした人々は驚きの悲鳴をあげ、それが周囲へ伝わると、ずぶ濡れの武士と馬は三重、四重の人だかりを集めた。突き飛ばされた男も、周囲の皆もその異様な人物の突然の出現にその場から動くことが出来ない。
武士は片手に刀を持ったまま、もう一方で馬の手綱を引き寄せながら今度はグルグルと周りの様子を見渡し始めた。緊張しているような、警戒しているような、威嚇しているような、とにかく武士は周りを睨みつけていた。
信号が赤に変わり、車のクラクションの音に促された未だ交差点にいる人だかりは慌てて歩道へ向け移動していった。転倒男も片足を引きずりながら何度も後ろを振り向きながら歩道へと避難していった。
一方、武士と馬は依然としてその場から動くことなく、しきりに周りを見渡し続けている。歩道からその様子を眺める人々は、これから起こるであろう何かを期待しながら展開を見守った。武士と馬の脇を通り過ぎる車は物珍しそうにゆっくりと通り過ぎ、そのリアリティに満ちた武士の風貌を車中の話題にした。この交差点内の事情を未だ知らない後続の車からクラクションが鳴り始め、その音は次第にビル群の間で大きくなっていった。
この騒音に気付いた数寄屋橋交番の警官が、横断歩道上の異常事態を発見すると、すぐさま交差点の真ん中にいる人物に向かって叫び声を上げた。
「危ないじゃないか!何の撮影だか知らないが、すぐに移動しなさい!」
警官が左右の車を制止しながら小走りに近づき、そして武士の肩にまさに触れようとした瞬間である。
武士はおもむろに馬に飛び乗ると、大慌てで馬のわき腹を蹴りつけて走りだした。既に動き始めた車などまるで眼中に無いかのように徐々に速度を上げ、車と車の間を見事にすり抜けながら走り回った。ただどこかへと向かっている様子はなく、闇雲に走り回っているかのようであった。馬は嘶き、時折武士も叫び声をあげ、歩道で見物していた家族連れのすぐそばを走り去ると、その風と音に驚いた子供達が泣き出した。そしてその泣き声は銀座四丁目の交差点周辺で徐々に連鎖していった。
走行中に突然目の前に現れた馬で急ブレーキを強いられ、車同士の追突も起きた。だが事故の当事者達は追突そのものより、その珍しい光景を追うのに夢中で、互いに車から降りたものの背伸びしながら視線は武士と馬を追い続けていた。数寄屋橋交番から騒ぎの連絡を受けた築地警察署からの応援のパトカーがサイレンを鳴らしながら次第に集結してきた。
この間も武士は必死な形相で走り回っている。穏やかな土曜日の午後であるはずの銀座界隈が、この馬を乗り回す武士然とした男の出現により瞬く間に騒然となった。