JANUS
「お前、なんでまだ生きてんの?」
僕は・・・・・・・
穏やかな日の光が差し込み、どす黒かった闇を切り裂いた朝。
僕は顔を顰めた。
・・・失敗した。遮光カーテンにしておけば良かった。
居心地の良い暗闇は、忌々しくも眩しい光に払拭されてしまった。
これで今日もまた、鬱々しい一日が始まる。
僕はゆっくりとベッドから降りて、足取りも重く階下へと向かう。
「あら、おはよう。今、起こしに行こうと思ったのよ。」
朝餉の匂いとともに運ばれてきた言葉に、僕はおはようのあいさつを返す。
そんな僕の目の前に、ほんのりとキツネ色になったパンを皿に乗せて置く。
テーブルの上は、すっかりと準備が整っていた。
僕は無言で席に着く。
甘い匂いのするコーンスープに、僕の気分は更に沈んでゆくのだ。
思わず洩れそうになった溜息とともに飲みこんだスープは、ほんのりと甘く・・・・。
始業の鐘を聞きながら、僕は正門を抜ける。
誰の姿もない昇降口で上履きに履き替えて、階段を上ってゆく。
教室の前、僕の足は一旦止まる。そして、目を閉じて深呼吸。
目を開いと時には、僕は別人のように口元に笑みを浮かべているだろう。
1・2・3・・・。
教室の後ろの扉を開け、振り返る生徒と教師におどけて言う。
「えへ。すみませーん。寝坊しちゃった~」
その瞬間、生徒たちが一斉にどっと笑う。教師も呆れながら、苦笑する。
いつもの光景。いつもの朝。いつもの嘘。
へらへらと笑う僕の顔。仮面を張り付けたみたいに、ずっとそのまま。
「早く席に着け、あ~罰としてXXページを訳せ。」
生ぬるい罰則。それでも僕は、ヘラヘラ顔のまま言うのだ。
「えーー、マジで。誰かヘルプミーー。」
慈悲を請うが如く、両手を胸の前に組むと更に教室内は笑い声に包まれるのだった。
ああ、僕、鬱陶しい。
次の授業でも僕の仮面は剥がれない。
猿回しの猿のように。ケタケタケタケタ・・・・壊れた玩具が笑うように。
仮面をどんどんと上塗りしてゆく。けして剥がれないように。
休み時間、ふざけて僕をど突きまわすクラスメイト。ヘラヘラと笑う僕。
いつもの光景。いつもの時間。いつもの・・・・。
違う。いつもと違う。
僕は眼だけを動かして、違和感を探す。
・・・あっ。
わははと無遠慮な笑い声が響く中、唯一人、彼だけは笑っていなかった。
背けられた顔。何の感情も表わしていない、顔。何も写してはいない、眼。
知らない、クラスメイト。
学年が上がって編成されたクラス。既に二週間が経とうとしていた。
にへらとした僕を眼の端に捕えると、彼は静かに席を立つ。
そして、無表情なまま通り過ぎる瞬間、口が開かれた。
「・・・消えろ。」
ボソリと呟かれた一言。僕を虐げる言葉。僕に向けられた言葉。
その時、僕の心がきゅうううと震えた。
・・・キエロ・・・・
ジワリと僕の心にその言葉が染渡ってゆく。
・・・キエロ・・・・
僕は、打ち震える。
僕は彼を見た。しかし、僕が見たのは遠ざかってゆく後ろ姿。
その日から僕は、今までにも増しておどける。
何度も何度も態と近くを通る。殊更、お調子者を演じる。
なのに、彼の眼は僕を捕えない。
無感情の顔。仮面を外した、僕の顔の彼。
そうして、僕の中のナニカが少しずつ、少しずつ壊れていった。
外した事のない僕の仮面。
だらしない表情で、情けない表情で・・・道化者の。
違う。こんなんじゃない。本当の僕はこんなんじゃない。
僕は僕の生き方が嫌いだ。
僕は僕が死ぬほど嫌いだ。
僕の部屋に鏡はない。
出来るだけ鏡を覗かないようにする。
そうしないと剥がれてしまうから。
嫌で嫌で嫌で。
僕は僕を見たくない。
彼を知ってから、春が過ぎ、夏が過ぎ秋が訪れた。
文化祭の準備の為にクラスのほとんどが残っていた。
目に沁みるような、夕刻の臙脂。
僕は、そっと教室から離れて屋上へと向かった。
屋上に用があった訳じゃない。追いかけてきたのだ。
気だるそうな後ろ姿が、屋上の柵に寄り掛かっている。
僕は、ゆっくりと近づいていく。
この時、僕は気がつかなかった。僕の仮面が無くなっていた事に。
彼は振り向く。
ちらりと僕を捕え、一瞬のうちに視界から削除した。
しかし、無視される事はなかった。
彼は言ったのだ。
「お前、なんでまだ生きてんの?」
僕は足もとから震えてしまった。
怖かったんじゃない。嬉しかったんだ。
僕の口元が自然に弧を描く。仮面ではない素顔のままで・・・。
彼は続ける。
「じゃあな。」
片手をひょいと上げて、初めて笑った。
もう、充分だよね。僕は、もう解放されてもいいよね。
僕は、僕の最後の瞬間にはじめて心から微笑む事が出来た。
僕は今までの人生で一番の解放感を味わっていた。
パタンと屋上の扉がしまる。
僕はふわりと空気に身を任せる。
僕が最後に聴いたのは、彼の本当に楽しそうに笑う声だった。
あは、あはははは。
「莫迦なやつ」
ぽそりと呟かれた言葉は、臙脂から濃紺に変わりゆく廊下に吸い込まれていった。