鮫の平等
「ねえ、君は『平等』って何だと思う?」
終学活が終わってすぐ、さあ帰ろうと鞄を担いだ俺の前に鮫が飛び入ってきて開口一番そう言った。
「平等?」
「そう。びょーどー」
鮫は腕を広げて右足を軸にくるんと1回転。そしてその真っ黒な目を見開いて俺を見つめてきた。
「そうだな。みんなが同じだけの分量のものをもらえることじゃないか?」
俺はそう答えた。はっきり言って適当である。お腹も減ったし、早く帰りたくてたまらなかった。
「へーそーなんだー」
鮫が手を後ろに組んで俺の顔を覗き込んでくる。顔が近い。鮫の息が俺の鼻にかかる。それにたじろいだ俺はだるま落としのように椅子に落ちた。
「何だよ」
「いやー?」
鮫は口角を目いっぱい上げて笑っている。ぎょろりとしたその瞳は少し気を抜くと吸い込まれそうで、鳥肌が立つ。
鮫の目から顔を反らすと、鮫の視線とはまた別の視線を感じた。通路を挟んで隣の席からだった。委員長だ。
「何だ?委員長」
「いや?」
委員長は目を細めお地蔵さんのような慈愛顔を浮かべた。
「何だよ鮫みたいな返答して」
「いや、うん。鮫さんが何で笑っているのか分かる気がするんだ」
「え?」
「まあ見てなって」
委員長はそう言うと、A4の藁半紙から大、中、小3つの正方形を切り取って、慣れた手つきで何かを折り始めた。鮫はその姿をじっと無表情で見つめている。委員長はかなりの速度で3枚の正方形を全く同じ形に折り上げた。突き出した手と足、最後に外に頭頂部を外に折り返して作られたちょんまげ。
「おすもうさん?」
「そう。おすもうさん」
「どんどん叩いて取組でもするのか?こんなに体格差があったら勝敗は今から目に見えてるが」
「いやいや、それは後で。今は『平等』についての話だよ」
委員長は筆箱からMONOの消しゴムを3つ取り出した。
「何でお前同じ消しゴム3つも持ってんだ?」
「念のためだよ。消しゴムはたくさんあって困るものじゃないからね」
「そういうもんか」
腑に落ちたような、落ちなかったような。
委員長はおすもうさんを並べて机の上に置いた。
「今からこのおすもうさんたちにはパン食い競争をやってもらう」
「叩いて跳ねさせるのか?」
「違うよ。例えだよ」
「ぷくくっ」
鮫が口を押えて小さく笑った。俺は恥ずかしくなって大きな咳払いをした。
「で、パン食い競争が何だって?」
「パン食い競争、もちろんパンの高さは同じと仮定する。その時、当然有利なのは1番大きなおすもうさんだよね?」
「そうだな」
委員長は3体のおすもうさんをそれぞれ消しゴム1つずつの上に乗っけた。
「これで各おすもうさんに台が1つずつ支給されたことになる。これで戦況は変わるかい?勝機は『平等』になったかい?」
「……なってないな」
「そう。実際勝機を『平等』にするためには……」
委員長は大きなおすもうさんが乗っかっていた消しゴムを小さなおすもうさんが乗っかっている消しゴムに重ねた。大きなおすもうさんと中くらいのおすもうさん、そして小さなおすもうさんの高さがピッタリ等しくなる。
「これが本当の『平等』だよ。全ての人に同じだけのものを与えても、もともと有利な人がさらに有利になってしまうから、結局格差は無くならないのさ。鮫さんはこれが言いたかったんじゃないかな。ね、鮫さん?」
委員長が鮫を見つめる。俺も鮫の方を見た。鮫は木目調の床を黙って見つめて微笑んでいる。
「鮫?」
「……じゃないの」
「鮫?どうした?」
「ばああああああああああああああああああああああああああっかじゃないの!!??」
「鮫!?」
鮫は委員長を指差しながら叫んだ。ぎろついた目で委員長の目にその光線を焼き付ける。委員長は小さく「ひっ」としゃっくりのような声を出して後ずさった。
「あなた何様よ?そんな善意満ち満ちたえこひいきを大きいおすもうさんが許すと思ってるの!?」
鮫が委員長に詰め寄った。俺の顔を覗き込んだ時よりももっと顔を近づけて、その真っ黒な目を見開いた。それでも彼女の黒目は全体が見えない。
「そんな甘ったるい『平等』が通じると思ってるなんて、おめでたい人ね!『平等』はそんな簡単に手に入らないし、弱者が楽をするためにあるものじゃないの!!弱者がもがいてもがいて、やっと手に入れられるものなのよ!!」
鮫は委員長を追い詰め、追い詰め、ついに壁のところまで後ずさりさせた。
「本当の『平等』を見せてあげる」
鮫はひゅーひゅーという息に混ぜてそう言った。机の上で呑気に起立しているおすもうさんたちの足下から消しゴムをかっさらい、委員長にそれを投げつけた。
「『平等』はね、我慢や犠牲の上に成り立つものなの。与えるだけで得られる『平等』は大草原で草を食む牛や馬にしかないわ。だから、本当の平等ってのはね」
鮫は自分の筆箱からはさみを取り出した。そして大きなおすもうさんの胸から上と、中くらいのおすもうさんの首から上を――切り落とした。
「ひっ」
委員長が小さく跳ねる。小さなおすもうさんの高さと同じ高さに切りそろえられた2体のおすもうさんを一瞥し、細かい呼吸を繰り返しながら、教室を勢いよく走り出ていった。
太陽はすでに地平線の下へ潜ってしまっている。わずかなオレンジ色の光が夜の黒と溶け合って、地の底から湧き出るような紫色が空に広がっていた。
鮫は、はさみを持ちながら立ち尽くしている。
「みんなの夢が叶えば良いなんて、どうしてあんなにぬけぬけと言えるのかな。助け合えば何でも何とかなるって思ってるのかな。みんなが挫折して、夢をあきらめれば、同じ痛みを分け合える最高の仲間が生まれるのに。どうしてみんなそれに気づかないんだろう」
窓の外の鈍重な景色を眺めながら鮫はそう言った。
俺はその背中を見つめながら言う。
「お前、そんなにさみしいのか」
鮫は振り返って俺の目を霧のかかった空ろな目で見つめた。
「ひねくれてることは、分かってるんだよ」
鮫が手に持ったはさみを喉元に突き立てた。俺は思いっきり鮫の懐に踏み込んで、はさみを持った右手をがっちりつかんだ。
鮫の手は冷たく、力ははさみを支えるための必要最低限の力しか入っていなかった。俺は鮫の手首をひねり、鮫の手からはさみを引き離しにかかる。
「痛いよ。女の子の手はそんなやってつなぐものじゃないよ。つかむところも違うし、力も強すぎ」
「はさみを離せ」
「……」
「早く」
「……」
鮫の手から完全に力が抜け、はさみが床へ落ちる。床の木目の中心に小さなくぼみができた。
鮫の手に指をからめる。今度はやさしく。さっきひねったのをいたわるように。
「帰るか」
「うん」
鮫は小さくうなずいた。
「家はどこだ」
「田園調布」
「金持ちだな」
「でしょ」
鮫は小さく笑った。俺が初めて見た鮫の純粋な笑顔だった。
拝読ありがとうございました。