1 産気
主人公誕生編です。物語でいえば第0章にあたります。執筆し、製本した本の文をそのまま写したので表現が細かいです。
空間エバンヌ カムルデス国領 首都ディスカレーンにて 季節 秋
カムルデス城に北風が吹いた。
風は正門から入り建物中を駆け巡り従者達の緊張を更に高めさせた。人々はそれぞれの場所で時を刻み過ぎていくのを待ち、落ち着かなくて城の中を心配そうに見上げる者もいた。
まだ夜も明けぬ日と日の狭間、深夜に近いこの時間に城が眠らないのは珍しく、しかも中にいる人全員が静寂を守り礼儀正しくそこに留まった。彼らの目は全て1つの場所に集められていた。聖なる月ではなく、噴き上げる噴水の水やそこにある彫刻でもない。少なくとも夜の大地を照らす月と星群は目を引く筈だが。
向ける先は上の五階テラスだった。
(カムルデス城内 フロア 5 王家寝室)
「うっ……」
若く長紫髪の女性が五階寝室のベッドに寝かされ、召使いと王に仕える医師に産母らがその周囲に立ってそれぞれの仕事を行う中、王カムルデスはその輪で唯一苦し気に息をついた。彼は何もすることが出来ないからだ。
この場所を照らすのは部屋の周りに置かれた無数のランタンだった。産母は女性の痛みを和らげる為に声を掛けて深呼吸を促す。従者は王の命令に従いつつ自分の意志で滲み出る汗を白布で拭いていた。医師は女性の手触れて脈拍を計り、王にこまめに報告する。
「エルエン……」
カムルデスは女性に対して呼び掛ける。
女性はうっすらとだが苦しそうに目を開けてその碧眼の瞳で見つめ返す。
「お父様……」
「お前は怖くはないのか?私はどちらになるのか心配で怖いのだよ」
王は大理石の床の上で膝を折りベッドの上に手を置いて下を見つめながら尋ねた。
「私は……」
答えようとしてまた陣痛に襲われてうめき声を出した。思わずベッドのシーツを握りしめて耐える。痛みが引くと改めて言い直す。
「私は何も恐れません。この子がどんな子であろうと私の子供です。受け入れる覚悟はもう出来ていたわ」
半ば彼女は目をきつく閉じた。閉じた瞼から一粒涙がポロリと汚れなき白い肌を伝って落ちた。
それを見たカムルデスはすかさず励ましの言葉を掛けて痛みを和らげようとする。すると彼女は言った。
「ごめんなさい。私は間違った選択を選んでしまったのかもしれない。お父様に迷惑を掛けてしまって……」
カムルデスは首を横に振って娘の手をそっと握った。
「今更言っても遅いぞ。それにお前は悔いはないのだろう?私はただお前が幸せであればそれ以上は求めることはしない」
少し微笑みながら彼女の名前を口にする。
「エルエン……」
なぜこうも子供が問題にされるのには理由があった。誇り高き身の上であったが人の目からは全くの別物である。彼らはとても差が歴然とした夫妻だと誰もが口にするだろう。カムルデス王家の娘エルエンの夫は……。
「エルエン、もう少しの辛抱だ。あと少ししたら彼は来る。数十分前に向こうへ魔法電文を送ったから」
そう言い残してカムルデスは寝室の外に引き下がろうとした。
「お父様、何処へ?」
エルエンが呼び止めるとカムルデスが振り向く。ランタンの火がゆらゆらと揺れて奥に彫られた王家の紋章の黄金竜が輝き、振り向いたカムルデスと一緒に彼女を見返す。竜は身を案じるように翼を広げて今にも彼女の元へ飛び立とうとしている。
「ちょっと外の空気を吸いたい。ごめんよ」
王は血色のいいエルエンの頬を優しく撫でると寝室から慌ただしく出ていった。
「姫君、大丈夫ですか?」
彼女の付き添いの長年共にいた侍女が王と交代して引き継いだ。この侍女はエルエンと一年歳上であったが家族を持ち、子供に恵まれていた。それ故に置かれている状況が良く分かっていた。更には彼女の友人でもあった。
「ええ、大丈夫よ」
顔を歪めながら持ち前の精神力で目の前の敵と戦った。
エンダー、貴方は今何処にいるの?大空の翼となって力強く羽ばたいているの?私は貴方の為に待っているわ。私達の子供が産まれてくるのを二人で見届ける為に……。
日を越える時が近付き始めて風向きが北向きに変わったことを悟った。もうすぐ彼が来る。翼と風と共に……。
(カムルデス城 フロア 5 テラス)
「彼はまだ来ないのか!!こんな大事な時に遅れて来ようとは。もし人間であったら許さなかったところだ。スレイル、エバンヌ大陸に知らせを送ってから何時間経った?」
カムルデスは苛立ちながら大陸使節に向かって怒鳴った。哀れな使者はこの怒った王の呟きを聞く羽目になって自分のせいでないのに頭を下げていた。服のズボンの下辺りを靴で踏んで対応しているのだからそれ相応の苦労が生じたのを何気なく物語っている。
使節はその努力の跡を仕方ないことだと受け止めたが、肝心の王はそれよりもやってくる彼の方を気に掛けてテラスから北の空に目を凝らして無視だった。
「我が君、今ちょうど四時間程かと……」
憤りを見せるカムルデス王に向かって震える声で告げた。その他余分な言葉を控えてそれからは口をつぐんだ。
「遅いな……」
歯ぎしりして腕を組んだ。娘が出産間近だというのにエンダーは何処にいるのだ?竜の首都ウェーンドからは距離があるからな。でも彼の速さならば……。カムルデスは再び使節に新たな命令を下そうと口を開けた。
その時突然、遠くの彼方から甲高い咆哮が耳に入ってきた。
まさかと王はじっと北の大陸へ続く水平線をずっと見据えた。従者と使者はかすかな咆哮に反応せずに王の行動に首を傾げるだけだった。
王は以前に竜笛の音を聞き、それを理解していたので唯一竜の接近に気付いた。次に腰ポケットから百年以上昔の遺物、ウェーンドの竜笛に手を掛けて取り出し、口に当てて吹いた。普通の大人には聴こえない超周波の音色が一帯に響き渡った。
数十秒すると北の果てから小さな鳥が見えた。鳥はゆっくりと翼を羽ばたかせ、こちらへ一直線に飛んでくる。近付くにつれてその姿が段段と大きくなっていくのでカムルデス以外の人間は本能的に後ずさる。
「陛下、まさか……」
王は驚く従者達に目を向けず、竜が答えを返したときから鯨同士の会話のように高い声と笛で言葉を交わした。笛は自分の位置を知らせる信号だった。
城の前まで迫ると鳥の正体は竜であると誰もが分かった。力強い咆哮を轟かせて大海原を渡った竜は城の上を大きく輪を1つ描いてカムルデスの頭上を楽々と飛び越えた。
凄まじい衝撃が下に降り注ぎ、窓ガラスがギシギシと悲鳴をあげ、人々は風圧でよろめき中には転んで倒れる者もいた。
ザッ。
翼が風を切る音と共にその巨体が月明かり注ぐ大理石のテラスにどんと降り立った。巨体故に城中が揺れた。
竜は慌てふためく人々を尻目に広げられた翼をたたんだ。鱗の色はコバルトブルーで雲の切れ間から覗く三日月が鱗を宝石のように美しく輝かせる。翼にはグレーと紫の斑紋が散っていていて更に美しさを際立たせる。そして彼の鼻先には三日月の刃が伸びていた。
そして長い棘のついた尾を身体に巻き付けるとカムルデスの方に長い首を伸ばし振り返ると彼の前に頭を垂れた。
従者達はその光景を黙って見守る。
「よく来たな。我が娘の愛人、エンダーよ」
カムルデスは堂々と向かい合い、竜に話し掛けた。
「お会い出来て光栄です。カムルデス王陛下」
エンダーは低く、しかしはっきりと人間の言葉で答える。
「何故遅れをとった?」
カムルデスは厳しい口調で問いただす。
「エルエンと産まれる子の安全と無事を祈る為にウェーンド神殿にいました。遅れてしまったことを深くお詫び申し上げます」
謝罪のつもりで再度頭を下げる。竜が人間に頭を垂れるのは戒めるべきことだったがエンダーは本意を示す為に破った。
カムルデスはエンダーに近付いて垂れた頭に手を触れる。
「面を上げよ」
エンダーはその言葉のままに頭を上げると王は小さく笑顔を見せる。
「それならよい。正当な理由だ。そこまで本気で娘を愛せるのなら私は十分。たとえ相手が人でなくても……」
「彼女は必ず守っていきます。竜の心とこの力にかけて」
竜は低く唸り、カムルデスに誓った。
「彼女が中で待ってるぞ。行ってやりなさい」
王は時間を削ってしまったことを自分で悔やみつつ、エンダーに中に入れと促した。彼の巨体がテラスの大半を占領したため、端にいた彼は身動き出来ないのだった。
エンダーは城を壊さないように従者によって開かれた大窓から慎重に中の寝室に入った。中に入るなりエルエンがベッドの上で横たわっているのを見てその名前を呼びそこに駆け寄った。カムルデスもそれに続く。
産母と侍女は入ってきたエンダーの姿に逃げ出しかけたが、彼だと判ると対応も柔軟に進んだ。エンダーは彼らに挨拶と感謝の言葉を述べ、彼女らもそれに答えた。
「エルエンの容態は?」
エンダーは侍女に尋ねた。
侍女は彼の巨大なブルーの瞳に見据えられて一瞬だけ怖くなったが見つめる目がとても優しいことを知ると人間同士同然の会話に切り替えた。
「一応は大丈夫です。でも陣痛から破水して既に四時間経っていますがまだ……」
竜は長い身体でベッドの周りを取り囲み、彼女に顔を近付け、三日月の刃で傷つけないように柔らかい鼻先を白い肌に押し付けた。
彼は自分の存在に気付かないエルエンが心配だった。ウェーンドから休息もせず飛び続け疲れ果てて息切れしていた。
「エルエン……」
呼吸を落ち着かせながら半ば枯れかかった人間の声で名前を呼んだ。ここまで長く、速く空を飛んだのは今までになく、身体がだるかった。
翼は一度たたんだものの、激痛で閉じているのが辛く迷惑と知っていながら、この状況の中だらりと大きく広げ使った筋肉を休ませようとした。
苦しい……。
エンダーは心の中で呟いた。ずっと彼女を見下ろしているのに視界がぼやけ、立っているという感覚がまるでなかった。
でも、エルエンが頑張っているのに自分が先に力尽きるのは情けない。それに彼女の方は正気を失いそうな痛みに四時間も耐えている。自分の経験を遥かに越える試練に挑んでいるから絶対に……。
エルエンは険しい顔で目を開けて竜を見た。
「エンダー……」
汗にまみれた手で押し付けられた彼の鼻づらを撫でた。
「ようやく来てくれたのね。ずっと今か今かと待ってたわ」
彼女は大きく息を吐いて溜まった空気を出した。辛そうな表情が和らいで笑みをこぼした。エンダーもそれを返す。
「私の為に待たなくても良かったのに、ウァルナ……」
「この夢が叶う瞬間を一緒に見届けたかったの、ネグラン」
お互いのもう1つの名前呼び合った。いつもお互いを確かめる為に使った前世の名前。これが二人を支えていた。一度は届かずして終わった夢……。今それが千年以上の歳月を経て叶う嬉しさは例えることは出来ないだろう。二人でしか……。
「五千年の時が過ぎて、本当に幸せになれるなら……」
エルエンは再発した痛みにうめく。
二人は前世でも恋人同士だった。遥か五千年前に同じ姿を纏って……。
この物語は本当に長いです。そして無限の可能性を駆使して話を展開していくつもりです。