ハンマーで殴る人
カラッとした森林道路を、50人乗りのバスが、ケーブルカーなみのローギアで、坂をぐいぐい登っていく。セカンドギアとサードギアが交互に入り、我々は右に左に大きく流されていく。内臓に、重力が働き、しばらくぶりに私たちのテンションを下げていく。外はまだ6時だというのに、すっかりとまっ暗になってしまった。私は、なぜこんな所にいるのだろうと考えた。
お盆休みの間、パートのおばちゃんが休むため、私は代わりに孤軍奮闘したのだった。連続120日出勤を終え、今帰ってきた。特に終盤は、2交代で、つまり16時間や12時間労働が続いた。そのため、私はさすがに気力を失っていた。上司は、『ありがとう』と赤い目でいい。
『当分、ゆっくりしてええから。次の出勤日には、電話ちょうだい。2週間までやったら休んでええから。』
と死んだ顔で、つぶやいた。上司はあと5日ほどで記録を更新し、連続出勤を150日まで延ばすらしい。新店がオープンして以来、忙しく休みがないのは、しかたがない。シーズンが終われば、飲食店は客足が一気になくなってしまうので、明日から、私は無用なのだ。
私は、家にかるとシャワーを浴びた。バンバンにむくれあがったふくらはぎに水がかかり、水圧の中で、ふるえる足を止めることもできない。シャボンにまめれた体を、上から下まで水が落ちると、汗を含んだシャボンが排水口に吸い込まれていく。私は、今憎まれ口を聞く力もなく、ただ流されでる水流の中で苦労人たいな顔をしてたたずむしかなし。私は、、体中の冷たい水をタオルでふき取り、ドライヤーで髪を乾かす。目覚まし時計を11時間後にセットし、ベットにバタンとキューし、そのまま、深い眠りの中でバタ足を続けた。私は、下へ下へと潜っていく。深い深い海の中で、仁王立ちして、数メートル先の15センチ定規をじっと見ている。マンションのベル音が何度も何度も鳴り、知らない間に、誰かが私の体を揺り動かしている。
『とっとと、起きーや、くそやろう。』
私は、びっくりして、目の前の大きな人影に、肘をぶつけ、布団を投げつけた。布団の間より、人影がはっきりと見え、友人のハンマーがニヤッと笑い、正座している。私は、ビクビクした心の臓を大きく握りしめ、息を吸い、呼吸を整えると。
『なんでやねん。』
と大きく叫んだ。
バスの中は、外国人観光客が半分、現地の住人が半分、乗っている。運ちゃんは、東アジア特有の歌謡曲を、デカデカと車内にかけて
悪びれるでもない。エンジンは、ナナメ30度の斜面で、うなり声をあげながら、ウインチを引っぱり込み、砂ぼこりを上げ続けた。私たちは、ぐるぐると回りながら、頂上を目指す遠心力の中心で、うとうとしている。
山の上にある遺跡を見に行こうと言ったのは、ハンマーだった。
『この町は、何もない町や。』
とハンマーは言い、ガイドブックをパラパラとめくり、ドライヤーで靴下を乾かしながら。
『情緒もくそもない。生まれ故郷みたいや。』
と付け加えた。確かに、ガイドブックに載っている昔風の建物は、一軒、二軒あるのみで。今では500年前に都があった気配はない。この国でも、すっかりと共通化したチェーン店とガソリンスタンドが町の中心にどかっと腰をおろしている。メインストリートから、同じ形のコンクリート住宅がびっちりと並んでいた。私たちは異文化の中で、大きな『あくび』をしに来た観光客に過ぎないのだら。ハンマーは、ガイドブックを見ながら、
『この頂上にある遺跡に行くで。』
と言った。私は、何も考えていない。そのあと失語症のハンマーは、何もしゃべらず、ガイドブックで現地語を覚えている。我々には、少し暇すぎるのかもしれない。
まったく、あの時と、同じトーンだった。ハンマーは、
『明日から、旅行に行くで。』
と暗い6畳間でつぶやき、体を起こして、『何をいっとるんだ。君は。』
と私は、うなるように言った。目覚まし時計を確認すると、13時間、ぐっすりと寝たことが理解できた。ハンマーは、私の部屋でコーヒーを入れ始めている。
『近頃、ハンマーが、しきりに無口になったって聞いたけど、ホンマ?』
と私は、彼に尋ねた。昔の友人たちの噂話で、そんな近況を聞いていたのだ。彼は10秒考えたあと、
『仕事がら。』
とだけ言い。20秒後にびっくりするくらいの笑顔で、
『言葉がでてこんのや。』
と付け加えた。
山の頂上にある遺跡に向かって、バスの遠心力の中で身をまかせていると。この国の中心が、この遺跡で。らせんの眠気やらすべてが、ひし形の象形文字になって、定められていると感じる。
私の隣の席で、ハンマーは、ゲストハウスで知り合った日本人に、一方的に話しかけられている。失語症の影響によって、彼は、泣き虫な気持ちからか、あきらめの気持ちからか、彼の話を黙って聞く、一人の人間にしかすぎない。
昔の彼は、一言も人にしゃべらさないくらい、饒舌で、今のふてくされたハンマーは、私にとって非常に、魅力的だ。
ゲストハウスで知り合った『日本人』というのは、我々が食堂で、アイスコーヒーを楽しんでいる時に来た。大きな旅行ケースで、がらがらと入って来て。『部屋はないか。』とゲストハウスの社員に詰め寄っている。いかにも無遠慮な男に、デニムの半袖シャツを着た社員は、ok okと白い歯で、何度も笑った。運悪く、どのゲストハウス、ホテルも旅行シーズンで空き部屋がない。偶然この町で、陸上のアジア大会が行われるせいで。さらに、ここら一帯のホテルの料金を上げ、旅行者たちは、今、不運の声をあげることも出来ない。今、町は、一年で一番人口が増えている。日本人は、しっかりした英語で、デニムシャツの兄ちゃんに話をぶつけている。
複雑な文法のシャパニーズイングリッシュと現地人が話すシンプルなイングリッシュを何度も聞きながら。会話の流れが自然に頭に入ってくる。日本人は、部屋はないか?と言い。デニムは、悲しげに『ない』という。しかし、ドミトリー、つまり、日本でいうカプセルホテルのように、大部屋で寝るベットは空いているという。その説明やら、部屋を実際見に行ったりしているのだ。ドミトリーには、ドレッドヘアのイングランド人や、酒ばかりあおっているカナダ人、卒業旅行のオーストラリア人3人組が陣どっていた。日本人は、そこで一緒に寝ることに大きな生理的抵抗を感じているのだろう。
デニムの人は、何度もこう言うのだ。
『シングルルームやダブルルームも満室で空きはない。いつ空くかもわからない』
と。すると日本人は、
『空きの予定はないのか?どこか近くにシングルルームは空いていないのか』
としつこく繰り返している。付け加えるように『あと、休みは4日しかなないのだ。』と言った。日本人のいきり具合と、デニムの投げやりな態度が、その会話を長引かせている。
この日本人は、その後も『いつ空き部屋はでるのだ。』と言い、デニムは何度も『分からない。』と言った。私は、なぜこんな国まで来て、こんな気分の悪いコーヒーを飲んでいるのか。少し前から同じようにイラつき出したハンマーが、私に一言、
『ドミトリーに変わろうか。』
と言った。一貫して失語症ぎみのハンマーは、私にそう自己主張したのだ。我々のダブルルームをドミトリーに変更して、あの滑稽な日本人に、これ以上の恥をさらしてほしくないということだろう。ストップ、ザ 、日本その時だ!私は、勢いよく席を立った。軽やかに湿度をまとった風が、私の背中を押してくれるように感じた。
山の頂上まで、あとどれくらいだろう。休憩所でマイルドセブンを一本吸いながら、私たちは、バスの再出発をもっている。観光客や現地の乗客は、ジュースを飲みながら、運転手が晩飯をくい終わるのを待たなくてはいけない。森には、多くの隙間があり、空気の流れは、一定ではない。無地の黒いポロシャツを着た運転手は、野菜チャーハンと魚の煮物
を、ゆっくりと食べている。ぬっくりあごを引き、小さくスープに舌をつけ、飲み込むようにスープを口に入れた。習慣としての食事の手順を、まったく正しくする運転手。
樹林がほそぼそとした根をおろし、隣のテーブルでは、赤いプラッチックスツールの上で
、うんこ座りした、この村の若者がフライドチキンをクリクリと食い尽くす。10分もすると、運転手がバスに乗り込み、クラクションを二度鳴らした。さあ、出発しよう。食事はとうに終わったのだ。
ゲストハウスの受付カウンターで私は、
『ツインルームでよければ、譲りますよ。』
と、その日本人に言った。
『私たちは、ドミトリーに移りますから。』
とデニムマンにも、目を見ながら伝え、数秒おいて、その日本人は、
『いやあ!本当に助かります』
と何度も、くったくなく言うと。、その旨をデニムマンにも再度伝えた。
私とハンマーは、ドミトリーへ荷物を動かした。ドミトリーは20畳程の部屋に、2段ベットが並んでいて、別段、圧迫感なかった。部屋ではオーストラリア人3人組が迎えてくれた。互いに自己紹介だけして、2、3会話のキャッチボールをすると。私たちは、日記や旅のスケジュールをつけ始める時間へと移った。ハンマーが、失語症であまりしゃべらないので。私は、ぶつぶつ、一人でしゃべつている、
『じゃあ、とりあえず明日は、デニムマンに荷物を預けて、遺跡の町で一泊やなあ。ホテルは、結構あるみたいやしなあ。靴下とパンツだけて、ええやろ。持って行くんわ。』
相変わらす、バスの中で、ハンマーは、日本人に話しかけられている。あの日本人が、しゃべっている。ハンマーは、静かに聞いている。
『保険の仕事を、ずっとやっとんですよ。保険会社ゆうても、いろんな部署にまんされましたで。なんやろねえ。まあ、出世コースからは、はずされてますけどねえ。出世コースは、法人相手の仕事とか、新しい保険商品をつくりよる。僕は、事故処理の苦情やらなんやらでねえ。いかに金を出さんかっていうつまらん仕事ですわ。人から嫌われる仕事。長年やっとると思いますけど、保険っちゅうのは、これ、『宝くじ』といっしょでねえ。システムが『宝くじ』ですねん。ちゅうのも、そうでないと、あんな大きなビルは建ちませんよ。どんなけコマーシャルしてます?その中でも、一番おもろいんが、生命保険ですわ。普通の宝くじは、運がよければ当たるわけですやん。生命保険は死なんと当たらん。これおもしろいでしょ。』
ハンマーと私は、薄暗い部屋の中、コーヒーを飲んで、ゆったりしている。ハンマーは大きなリュックサックを持ってきていて。バンコク行きのチケットをポケットから取り出し、私に渡した。明日の夜の便のチケットだ。そういえば、一年ほど前に、何かそんな約束をした気がする。
『そやなあ。行こーや。九月は絶対休みやし!おお行こーや!』
と酒を飲みながら叫んだか。ハンマーはまだあの頃は、失語症気味じゃなかった。ただ、一日中誰にも会わない仕事やし、日に日に、気が滅入ると何度も言っていた。『じゃ、準備しとくしー』と笑いながら言ったのだった。
確かに、明日から私が、長い連休に入るのは真実なのだ。私が行かなくても、ハンマーは、チケットを、キャンセルして、一人で東南アジアまで行くに違いない。よし、私も明日から行こう。
『ビルマにでもいくか。』
と私が言うと、
『そんな国は、ないんですよ。』
とハンマーは、ひきつりながら笑った。
思い出したように、道幅が狭くなったせいか。月明かりが消えたせいか。バスのスピードはゆっくりとなり、現地の乗客はすっかり眠ってしまった。このバスは、一体いつ着くのだろうか。出発時間は、6時半だったが、到着時間がよく分からない。海外に来ると永遠に到着などないのでは?と思う。観光客もおのおのが自分の時間を過ごしている。前方に我々がいて、後方に現地の人がいる。そのせいで、前方の我々が少々しゃべったり本を読んだりしていても、迷惑にはならない。おかげでハンマーは、保険屋のおしゃべりに付き合わされている。私は、後ろのフランス人と同じように、CD ウォークマンで、ボブ ディンを聞いている。旅によく合う。わかりやすくていい。自分がなぜここにいるのか悩わない。音楽に私は集中していく。
しかし、保険屋はミネラルウォーターをぐいっと飲み、ハンマーにしゃべり続けているのだ。
『生命保険ちゅうんは、死なんと金がもらえんでしょう。でも、死んだら金なんて使えへん。これが大きな矛盾なんよねえ。死なんと当たらへん宝くじを毎年、日本中が買いよるわけですわ!今も昨日も買い続ける。私が会社を休んでいる今も。別のいい方をしたら、本人の家族が早く死なんかなあと思って宝くじを買い続けよるんよ。不幸の宝くじを。実におもしろいね。希望と愛に満ちあふれてると思わん!』
父が、よく酔っぱらうと言っていた。
『仕事をするってことは、つまり何かになるってこと。警官だとか、不動産屋だとか、教師とか。そういったものになるってことは。その職業の目線から、世界を定義できるってことなんや。一人前になるってことは。』
そうに違いない。ボブ・ディランが今歌っている。この耳もとで!
『いつになったら一人前とみとめられるんだろう。』
少なくとも、この保険屋は世界の正しい定規を持っている。保険屋は、声を低くし、続ける。
『なぜ、こんな商売が成り立っとるかというと人間は不安の動物だからや。安心がほしい。すべての行動に保障や安心を、そうすれば、何一つ危険はあらへん。でも、そんなことは観念上の問題にすぎへんのであって。本当に大事なんは、時間や金ではないんけどね結局、私たちがうまくやってるんやね。保険を買う人と宝くじを買う人は、いつも同じやと思うよ。自分の中で単純化された想像で、予期された事件に、パニックにならへんようにしている。遠くの戦争には想像が働かないから、近くの保険ばかり買っている。でも、幸福の宝くじや不幸の宝くじを買っても、ほとんど当たらへんのや。何一つ事件らしい時間なんておこらへんで死ぬんや。動かない人には、幸福の宝くじも不幸の宝くじも決して当たらへん。でも、ええもんなんや。だってそれが宝くじやろ。彼らは、僕らのお得意さんや。』
私たちは、関西国際空港のロビーにいる?昨日の晩から、一日準備を続けて、パスポートを探したり、リュックサックに衣類を押し込んだりした。ぐちゃぐちゃの部屋に帰って来るのが、嫌なので、部屋を片付けた。会社にも2週間の休みを電話で申し出た。電話に上司が出て、
『忘れんうちに、今用紙書くわ。』
と言い、申請書を出して、一時間後に、
『もう、大丈夫やから。』
と折り返し連絡を受けた。
空港のロビーには、コンピューターの保険購入機がある。私たちは、まるでジュースを買うようにスイッチをおす。一番、安い海外保険が『ガタン』と出てきた。まったく空虚なロビーに、その音がヒビク。私は、オフィスチェアに座ってるみたいな気分だ。
なんだかんだ言って、明日から東南アジアだ。昨日までの生活から異文化へ飛び出す。さあ、昨日までの私と同じ、あの顔を見に行こう。ハンマーが飛行機の入り口へ向かって歩いていく。私は、ゆっくりと腰をあげ、雲の上から、この国を見下ろす心構えをした。
ハンマーがポテトチップスにコカ・コーラを飲みながら、保険屋の話を聞いている。
『私は、最近、不幸の宝くじが当たった人ばかり見とるけど、共通性はあるなあ。ああいう人は、偶然、保険に入っとった人が多い。注意深く保険に入った人は、事故をおこさんのよ。それだけ注意深いんやから。不幸な宝くじを当てるためには、保険に入ったことを忘れんといかん。そういう人は、本当に不注意な顔をしよるよ。これからも、この人には、いくつもの事故や事件があるんやろなあ。ついてないんが自分のせいやなんて、一つも考えてへんのよ!すべて人のせいにして、回避はまるで、できへんかったと考えているんや。私は、不幸は、招くもんやと感じてまうなあ。そういう奴に限って、保険屋のことをボロクソいいよるんや。』
バスは何度か停留所に停まった。そのたびに現地の人が順番に降りていく。町から帰る人たちは、今日一日何をしていたのだろう。チェック柄のシャツをおそろいのように着た人々が、一人一人と減っていく。最後の一人が降りると、観光客を残して、すべての人が降りてしまった。
地図を広げると、頂上まで町はなく、観光客は降りる準備を始めている。時刻は、まだ、8時半だ。ホテルもすぐ見つかるだろう。バスが大きくカーブを曲がり、終点の停留所に停まった。バスから降りる時、保険屋は、ホテルを予約してある。と言って右手を上げ歩いていった。
無機質に装飾された四角いコンクリートビルが立ち並ぶこの町。ガイドブックを見ながら、ハンマーは右をみた左を見たりしている。ガイドブックの地図だと、駅は、ハの字に道が通っているが、実際には、くの字にいがんでいる。川の流れをまったく無視し、地理を変えている。なんて適当なガイドブックだ。バスの運転手に、地図を見せても話が通じないのだから。
『ホテルの名は、リバーサイドなんやから、川沿いにあるんやろ。』
と私が言うと、ハンマーは、ずっと地図を見ながらイライラしている。ハンマーは、世界中の地理を頭に入れないと気がすまない。彼は深く考えこんでしまった。
私は、マイルドセブンをもう一本吸い。鉄条網のシャッターが閉まった商店街から、いく人かの気配を感じる。ハンマーは
『ここらに住んどる人が、どういう人か静寂でよくやかるんや。』
と昨日の夜、ゲストハウスのベットで言った。
『それが、観光ということだ。』
と私が、すべてをもらったように言うと。ハンマーは失語症なので無念とグウのネをあげてベットにへたりこむ。私はそんなことを思い出している。
いつの間にか外国人観光客はいなくなっていた。目的のホテルへ行ったのだろう。ポツンと二人残されてしまった。東の川沿いに行けばいい。まさしく、アジアの夜風に吹かれながら。一歩一歩、東に向かう。
ボコボコとした地面は、月明かりで暗くない。あたりのコンクリート平屋からは、テレビの音がもれている。夜道を歩き、今、月明かりが消えた。フッと人影が引っ込むと、また隅より小動物が首をあげた。私はびくっとした。なんだ犬かと思う。犬は小さく2、3歩、後ずさる。私たちは、気にせず2歩3歩と足を進める。私は息を吸い、さっきまでと同じ歩調で歩みを進める。その度ごとに暗い影がのそりと動く。犬の目が暗闇の中で光る。体感温度が35度を超えるこの国では、日中、野良犬たちは、へばっている対象でしかなかったのだが。今、私たちが見ている犬たちは、ペットショップのバカ犬並みの目の輝きをしているではないか。夜になると、夜行性ですっかり元気になったようだ。私はハンマーに
『ゆっくりいけば、大丈夫やろう。』
と言った。昔、家の近くのバカ犬が、何匹もいて、いつもケンケンと吠えていた。無視して通りすぎれば問題ないんやが。びびって通る人たちは、いつも襲われていた。あの時の私の体格は犬と同じだったが。もし、かみついてみろ、お前はいつでも保健所行きや。と思っていた。
私は『犬は犬だ』とハンマーを見た。ハンマーはビビっているが、私が冷静なので安心してついてくる。私たちは、同じスピードで歩き続ける。一番貧弱な手前にいる白い犬が、びびったようだ。喉の奥で詰まるようにグゥンと吠えた。すると他の犬たちも、グゥングゥンと小さく吠えだしている。私たちはスピードを変えずに歩き、
『あーあの川やろなー。』
とまったく相手にしていないふりをした。今まで何もせずに様子を見ていた灰色の犬が、右5メートル先まで来て、ウァン、ウァン、ウァンと黒い声をあげた。すると、一斉に犬たちが私たちの周りを取り囲んだ。ウォンウォンやらケンケンやら一斉に泣き出し。今にも飛びかかりそうだ。私は、
『大丈夫や!そのまま行こう。びびったらやられる。無視や無視。』
とハンマーに言った。私は、前方にいる犬や横にいる犬に、いっさい目を合わせず、一歩一歩、今まで通り歩き出す。まるで、犬の存在に気がついていないように。それでも、私の目の中には、いやでも犬歯か見え隠れする。意味なく吠える犬、私たちはよそ者に違いない。しかし、そこまで、吠える必要もないだろう。次次と犬が増え、なんとかくいるのまで合わせると、十匹もいる。私は、ひびっているのを悟られないように、頭の先から、足の先までのふるえを息を止めることでおさえた。
彼らのテリトリーを離れると、犬たちは、ついて来ない。私は、ハンマーに、
『やばかったなあ。』
と言った。ハンマーの顔は、こわばったままで、深い緊張に覆われていた。私は硬くいかった間接を動かした。今まで感じなかったリュックの重さが、私の重心を一段下げたように感じた。犬たちは数10メートル後ろで、私たちの背中に向かって吠える。私たちは、振り返らない。金物屋もタバコ屋もとうに閉まっている。30メートル歩くと、私たちは、あることに気が付いた。また、別のテリトリーに入って
しまったようだ。こんな小さな町に、なぜ犬がいっいるのか。ねずみ色にぶらさがった犬が近づき、さあ、さっきの戦を聞いたよというが如く、1、2、3、4、5、一体何匹いるんや。私はハンマーに言った。
『さっきと同じ方法でいこう。無視や無視。』
5メートル先に距離をとった犬たちが吠える。泣き出した赤子のように通じない言葉、存在、血、匂い、何一つだって、保証されない。そして、一匹の空気の読めない馬鹿犬が私たちのふくらはぎ数センチ手前で、死ぬほど吠えている。体が犬に触れる。いつかまれたっておかしくない。これでもかと、恐ろしい音が、街中に響く。20匹ほどの犬が、私とハンマーに道を譲る。私は指を伸ばし、ついに彼らのテリトリーを抜けた。私は、さっきまで体の中にあったものが、もうないと感じた。決して、大丈夫とはいうまい。
三つ目の5-6匹のテリトリーに入った。その時、私たちには、もう戦う力もなく、手にも、足にも力がなかった。ハンマーは、疲れはてて、タバコをふかしながら歩いている。犬は、なくなることをやめない。私たちが、テリトリーに入ること、この国へ入ったこと、そのことを許さない犬たち。私は、旅をして頭のネジが一本足りなくなったと思った。神経がまいっている。
黄色く『リバーサイド』と書かれた看板を見つけた。私たちは駆け足でホテルへ近づき、重くきついドアを開けた。私たちは、半べそをかきながら、このホテルがいくらであろうと泊まろうと思った。私たちは、フロントの人に
『メニードッグ、ドッグ、デンジャーでした』
と口々に言い。ホテルのキーをもらう。フロントの人はこの国の人が見せるくったくのない笑顔をした。我々の恐怖を理解したように。
部屋に入る。入り口で私は、シャワーを浴びるわと言って、水しかでないシャワーを浴びる。ふるえる足が止まった。開放されたのだと今始めて感心した。私は、喜びの声をあげる。血をとびちらさず、生き抜けた喜び。シャワーから出てくると、ハンマーは、
『ほんま、やばかった、やばかった。』
と同じことを何度もいい。私も
『ほんまやばかった、マジで、マジで。』
と何度も繰り返した。
朝起きてホテルの朝食を食べる。トーストにコーヒー、目玉焼きはどこの国でも同じだろう。昨日のフロントの人は、もう帰ったのだろうか。姿が見えない。
遺跡への観光は、バイクでするのが普通らしい。この国では、外国人は免許がなくてもバイクに乗れるとのこと。取り締まる法律がないというが意味がわからない。ガイドブックにも、そのことが書かれている。
私たちは、レンタル代400円を払って、遺跡へ向かう。遺跡は土着的な文化の集合体だ。他の文化の影響を受けてなくおもしろい。さすがに、バイクだとあの褐色のレンガで固められた、何世紀も前の集合体が、2.3時間で見れてしまった。私たちは、大きなモニュメントの前で、西日に浸っている。
中央から伸びる廊下、左右に広がる広間、それと平行する石の段差は一体何に使ったものだろう。儀式の中央にそびえたつ、土着の神様が、この国の人らしい無表情で座っている。雲の陰が、遺跡にかかっている。石が表情を変える。半分くずれかかったブロック。
この地方には、遺跡のほかに、何一つ古いものは残っていない。掃除されることなく、横たわるのだから、これは歴史というより、文化の残骸のようだと思った。
私たちが、ホテルに帰ると、フロントの人が来た。昨日は大丈夫だったのかとニヤッと言い。
『隣の丘の病院に、日本人が運ばれたそうだ。お前たちは日本人だろ。』
と言った。続けて、
『背の高く、ひ弱な男らしい。犬に足をかまれたそうだ。』
とゆっくりとした口調で言って、最後に、
『お前たちは、日本人だろ。』
と再度、尋ねた。私たちは、
『そうだ。』
と返事した。私は、
『きっと、あの変な保険屋が、犬にかまれたんやろ。』
とハンマーに言った。ホテルの東側の丘には白い病院が建っている。ハンマーが、
『バイクの返却まで、2時間はあんで。見舞いに行こか?』
と言った。もしかしたら、私たちが保険屋の立場であったのかもしれないのだ。
私たちは、バイクに乗って丘の上を目指している。5分もすると、白いホテルが見え、小さな石段を超え。ハンマーが受付まで行き何かを話している。通された部屋には、右足を紐で上にあげたままの保険屋がいる。私たちは、ニヤッと手を振り
『大丈夫ですか。』
と声をかけると、保険屋はびっくりした顔をし、少しうれしそうに見えた。
私たちは、自分たちも犬に襲われたことを話したり、いつ犬にかまれたかを聞いたりした。ホテルの前にいた犬にやられたらしく、狂犬病には、とりあえずならないので安心した。保険屋は、最後にこう言った。
『でも、健康保険が使えへんから不便や。仕事で、私が会う人は、保険を買った人だけなんやなあ。保険の仕事をしとって、初めて気付いたんやけど。本当についてへん人は、事故にあっても、保険に入ってないことや。なんで、海外保険に入らんかったんか?すっかり忘れとった。会社を出た時から何も考えてへんかった。保険なんて。』
ハンマーと私は、ホテルのアドレスを教え、何かあれば、ここに居ますからといって部屋を出た。ハンマーは、くっくっと一人笑いをかみ殺している。病院を出ると、今までの失語症が嘘のように、私に向かって、快活にしゃべり始めた。彼の饒舌ぶりは、自転車乗り場まで続き、底抜けの楽しさは、この国の太陽の明るさと比例していると感じた。
丘の上から、原付のカブでおりていく。私は今、ここで事故したとして、あの安い保険で、何が保障されるのか?あまりに薄い緑の森の中で、ゆったりと体を斜めに倒しながら、絶対にこけるものか!と私は、思った。
完