24.abandon
このままゆっくりと死んでいきたい。
そんな風にいつも思っていた。
障子紙を破るのが嫌で立ちつくしてたら、いつの間にかそれは鉄壁の要塞になっていた。僕なんかじゃ、破れるわけない――弱くて惨めで臆病な、そんな自分に酔っていた。耳に深々と刺したイヤホンからは、爆音が直接脳味噌と心臓を揺さぶって何もかも忘れさせてくれる。
けれど最後の「感動」の壁は破らない。うっかり泣いたりなんかしてしまったら、折角鈍らせた感覚が、現状認識と一緒に蘇ってしまうから。
だから僕は、いつも冷笑していた。
「へえ、あんた結構カッコいいわね」
そんな風に、モニターの向こうから話しかけられるまでは。
最初、僕はただぼんやりとしていた。アニメとか見てたんだっけ? それとも、ドラマCDとか入れっぱなしにしてた? いぶかしげに眉をひそめると、その声はまた話しかけてきた。
「あんたよ、あんた。しかめっ面してないでちょっとは喋ったらどう?」
偶然だ。いや、いたずらか何かだ。音声変換ソフトか? でも、じゃあ、僕の表情なんか――そんなの、あてずっぽうに決まってる。
「あー、あたしにあんたの顔が見えてないって思ってるでしょ。黒髪ショートで青いフレームの縁なし眼鏡、鼻の右側に二個ほくろついてる。信じた?」
唖然とした。それから恐怖がせりあがってきた。
ここは僕の部屋なのに。僕の空間なのに。どうして得体のしれないものが、僕を見て、僕の生活に割り込んでくるんだ?
――壊される。
僕はとっさに、電源ボタンに指を伸ばした。が、
「ちょっと待って」
強い制止の声に引きとめられた。
「あたし、あんたに提案があって来たのよ」
「提案……?」
思わず口に出してから、しまった、と思ったが、遅すぎた。女の声が華やぐ。
「やっと答えてくれた。そう、提案。ていうか勧誘かな。あんたもこっちに来ない?」
こちらに会話を強要するようなテンションだ。僕はプライバシーに土足で踏み込まれる嫌悪感に吐き気を覚えながら、しかし諦めて返事をした。
「こっちって?」
「こっちはこっちよ。二次元の世界。あんたがいつも見てる世界だよ。食いぶちのために稼ぐ必要もない、肉体がどうとか拘ったり悩んだりしなくてもいい。自由になれる世界だよ。好きでしょ?」
僕は笑ってしまった。女が言っていることは、あまりにも非現実的で、そしてベタなSF設定だ。二次元の世界に入る?
「やれるもんならやってみたいよ」
呟くように言って、ブラウザを閉じた。今起こったことがなんなのかは考えたくなかったが、夢とか何かのいたずらとか、とにかく下らないことには違いない。ハッカーか何かにやられたのだとしたら、パソコンを買い替えないといけないかもしれない。
「ねえ、待ってよ」
ブラウザが、勝手に立ち上がった。
「嘘じゃないってば」
「……」
これは、いよいよタチの悪いウイルスか何からしい。侵入された実感が沸いてくると、不安と怒りとで奇妙にどこかが醒めた。声が再び制止をかけてきたが、今度はためらわず電源ボタンを押す。――が、シャットダウンできない。
「話を聞いてってば」
どうする。とりあえず放っておくべきか。
「ねえ、退屈なんでしょ。その世界、楽しい?」
いや、コンセントを抜いてしまえばいい。しばらくしたら勝手に電源が落ちるはずだ。
「自分も世界も全部嫌いで、なんにもやる気が出ないみたいなとこにいて楽しい?」
けれど僕は、椅子に座ったままモニターを眺め続けていた。
「こっちに来たらいいよ。もうやることがなくて退屈とか、そういうのないから。だってやらなきゃならないことなんてないもん。変な引け目なんか必要なくなるんだよ」
女の声は次第にゆっくりとした調子になり、甘い響きを帯びてくる。
「ねえ、来なって。あんたもどうせ、自分がダメ人間だって思いこんでるタイプでしょ。大丈夫だよ。勘違いだって。体があって現金があって、そんな世界にいるからそういうこと思いこまされちゃうんだよ。ほんとはね、あたしたちはみんな自由なんだから。そうだよ、何やったっていいじゃん。好き勝手やれないで、なんで生きてる価値があるっての」
僕は返事をしなかった。これはウイルスだ。知らないうちにマイクとかカメラとか、いろいろ仕込まれていたに違いない。僕はいつの間にか膝の上で拳を握りしめていた。
「ねえ、決められない? 簡単だよ、全部捨てればいいんだから。捨てたいでしょ」
「……違う」
「え?」
僕の返事がよほどうれしいのか、女はまた少し声のトーンを上げた。余計に腹が立つ。
「僕はダメ人間だ」
「だから、それは思い込み……」
「僕はクズだ! 人間のクズだ! 自分じゃ何にも決められない、好きなことも嫌いなことも、何もしたくないクズなんだよ!」
しばらく、おかしな沈黙が漂った。これがもし、すべて僕の妄想か何かだったら、とんだ間抜けな光景だ。
「……じゃあ、来ないの?」
返事があった。おかしなことに、少しほっとした。
「辛いのに、来ないの?」
「いいや。行きたい」
「え?」
今度は、心底不思議そうな声だった。
「行けるもんなら、行くよ。そうさ、僕はクズだから、多分ここじゃ何もできない。今まではそっちにのめりこむのも怖かったんだ。でも、もう決めた。行くよ」
とんだ茶番だった。僕は口元に微笑が浮かぶのを感じた。これもいつもと同じだ。嘘っぱちのドラマ性に酔っているにすぎないのかもしれない。けれど、泣きたくなるような何かが頭の中でガンガンいってて、未だに握り続けている拳は腕ごと震えていた。
モニターは沈黙している。
「どうしたの? やっぱ嘘?」
問いかけた僕の声には、今にも笑い出しそうな色が含まれている。
「嘘じゃ、ないけど」
ためらいがちに女が答える。
「あたし、あんたがそういうキャラだって思わなかったから。ちょっとやだなって」
「何勝手なこと言ってんだよ。連れてけよ。体なんか捨ててやるって言ってんだろ」
ははっ、ファンタジぃ~。
「で? どうやるんだ、やってみろよ。こっから手とか出てくるのか? おい。なんかサブリミナル的なことでもやるのか? 暗示効果で精神異常に追い込むのかよ。騙されないからな。僕は疑り深いんだ。簡単に狂ったりするもんか。なんだよ、ほら、やれよ!」
芝居がかった台詞を吐きながら、僕の意識はずいぶんと遠くから自分を見ていた。現実から逃れるなんてことが、そう簡単にできるはずがないことは分かっている。ただ爽快だった、自分が、どこかに行くことを決めて、誰かに真っ向から主張して、脅しめいた台詞まで吐いている。鉄壁の要塞に、ちょっと爪を立てたみたいな気分だった。
とうとう僕は口にした。
「……なあんちゃって」
これはウイルスだ。善良なパソコンオタクを追い込むための。それとも、希望を与えるための? どちらにしろ、僕は少しわくわくしていた。このテンションの高さを失いたくない。何をしたらいいか分からなかったけれど、もうずいぶん乗ってなくて錆ついた自転車に跨って海から山から駆けずり回りたい気分だった。
「このくそウイルス。ちょっと楽しかったじゃねーか。あーあ、散歩にでも……」
「本当に、行きたい?」
「あ?」
「あんたそのテンションで、本当に、こっちに来たいと思う?」
数秒、考えた。
「うん。もう一緒だよ、こっちもそっちも」
「そう」
顔、だった。
手でも、サブリミナル映像でもない、洗脳っぽい音声でもない。
モニター画面の質感そのまんまを張りつけたような、彫刻に似た女の顔がいかにもSFっぽくにゅっと飛び出てきて、とっさに事態を把握できない僕の目と鼻の先まで、いつの間にか迫っている。ついさっきまでの強気はあっという間に消し飛んだ。女の唇がささやく。
――ありがとう、仲間になってくれて。もう逃げられないからね。
液晶色の唇が、僕にキスをした。全身の皮膚に静電気が走ったような気がして、頭の中が真っ白になる。女の顔ごと、モニターが何十倍にも膨れ上がった気がした。数えきれない色の粒が、立方体になって襲いかかってくる。
洪水だ。僕が選んで飛び込んだ嵐だ。
女が、ぴたりと僕の背中に張り付いている。僕は現実世界を捨てたのだ。
少し恥ずかしくなって、僕は世界に向けて小さな笑いを漏らした。
「~を捨てる」、
「~を放棄する」。