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「仕事が忙しいから、無理」

 一言、そう言って通話を切った。老いた母のヒステリックな声を電源ボタンで断ち切って、携帯電話をベッドに放り出す。

 父が危篤状態であることは、とうに知っていた。本人から知らせが届いたのだ。その時点で仕事の予定を調整し、帰省する余裕を作ることも、当然できた。だが、しなかったのだ。

 床に置かれた宅急便を一瞥して、枕に顔をうずめた。


      *


 私は、職場ではやり手のキャリアウーマンとして高い評価を受けている。男社会の中で人一倍突っ張って、前に出て生きてきたおかげだろう、今では一目置かれるようになったし、逆にプライベートでは距離を置かれることも多い。

「隙がなくて近づきにくい、完璧人間」

 恐らく、誉め言葉ではないだろう。

 しかし私も人間である。完璧でなどあろうはずがない。一人暮らししているアパートは散らかりっぱなしだし、食事はほとんどコンビニ飯だし、好き嫌いも多い。おかげで社内外で会食をしようなどというときはある程度覚悟をしていかなければいけないのだ。

 数ある私の苦手料理のうちでも、最も嫌いなのが納豆だ。匂いとか、食感とか、苦みとか、いろいろ理由はあるものの、一番大きいのは幼少時のトラウマである。夫婦そろって和食党の実家では食卓に納豆が上ることは少なくなく、そのたびに、なかなか食べられずに最後までテーブルに残らされたものだ。

 母などは途中から、私に納豆を食べさせることを諦めていたのだが、父は違った。自分が納豆を食べるたびに、脇にいる私にも「食え、食え」といって押し付けてきた。

 多分、嫌がる私の反応を楽しんでいたのだと思う。

 その証拠に、父は私の口に無理やり納豆をねじ込んではニヤニヤ笑っていたし、逆に私がさっさと逃げてしまっても叱ったりはしなかった。笑って、「健康になれないぞー」とからかうように叫んでよこすだけだったのだ。

 だが、それはまだましな方だった。タチが悪かったのは、私の納豆嫌いを、食事の場以外でも利用するようになってからだ。

 家の手伝いを残して、友達と遊びに行く時。

 夜、彼氏の電話で呼び出された時。

 家族で映画を見る約束を、ドタキャンしようとした時。

 父は必ず冷蔵庫から納豆を持ち出して来て、私の目の前に突き付けた。「これを食べれば、好きなようにさせてやる」と。私も私で、そんな不合理な取引は放り出してしまえばよかったのだが、意地がそうさせたのか結局は納豆の前に敗北し、父の思う壺にはまってしまうのだった。

 そんな風だったから、私の青春時代は納豆との戦いに費やされたと言っていい。

 父が邪魔しそうなことをする時は、冷蔵庫を確認してから早めに行動した。納豆の臭いをかぐと不安になった。納豆は父の「NO」であり、常に私の道に立ちふさがる、敵だった。



 その納豆が、今、冷蔵庫の中に山ほど積んである。宅急便で送られてきた段ボールいっぱいに詰め込まれていた納豆パック。

 同封されていた便箋には、たった一行、

「父危篤 仕事がんばれ」

と、書いてあるだけだった。

 本当に、仕事は調整できたのだ。確かにもうすぐ決算だし、忙しい時期ではある。なかなか休みがもらえないと噂される、厳しい業界でもある。けれど、父の死に目に立ち会うことすら許されないほど酷な職場ではない。

 なのに、この納豆。

 父は知っている。私が、もう一口も納豆を食べられないことを。だからきっと、これは――

「ちくしょう、バカ親父」

 私は冷蔵庫を開けた。醤油とマヨネーズをボトルごと、からしのチューブと、炊きたての白米二合。

「言うことなんか聞いてやるもんか」

 納豆の糸が、蛍光灯の光にきらめいた。


「~を妨げる」、

「~を不安にする」、

「~をかき乱す」。



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