1.rush
第一弾をご存じの方も、初めましての方も、よろしくお願いします。前回の物を百話で完結とし、新連載として始めました。
更新は非常に遅いですが、ご興味を持っていただけたなら、ゆっくりとお付き合い頂ければ幸いです。
「ほっといてくれ」。
男の口癖だった。精力的で勤勉な男はいつも忙しそうに立ち働き、休むということを知らないかのようだった。だから、知人が心配してしばしば声を掛ける。
「そんなに急がなくてもいいんじゃないか」。
けれど男の答えはいつも同じ、「ほっといてくれ」だ。
男が三十台手前で結婚することになり、式の後ハネムーンに向かった。帰りの飛行機の中で、男はもう翌日の仕事の準備を始めており、さすがに困惑した新妻が「こんな日くらい」と笑みかけた。
男は目も上げず言った。
「ほっといてくれ」。
昇進し部長と呼ばれるようになってますます駆けずり回るようになり、歳のせいもあってか一度倒れた。男は自力で救急車を呼び、運転士を急かし、医者を急かし、最短期間で強引に退院して見せた。
病み上がりもなお以前と同じペースで働き続ける彼を見るに見かねた部下たちは、揃って休みを取るよう説得しに行った。
「ほっといてくれ」。
執念じみた目に、もう誰も何も言えなくなった。
男は仕事をし続け、順調に昇進を続けた。しかし形として成功が見えても、一度としてニコリともしなかった。
「私はやり続けるだけだ。ほっといてくれ」
血眼で働き続けるその姿は、まるで生き急いでいるようでもあり、決して見えないゴールに向かって走っている人にも似ていた。
そんな男も、やがて老い、死の床につくときが来た。老衰ではあったが、平均寿命よりずいぶん若くしてのことだ。枕元には、男を惜しむ人々が集まった。
「早すぎる」
誰かが言った。
「いや、遅すぎた」
男が呟いた。誰にも聞こえないほど小さく。
かつて、男が青年だった頃。男は友のために、それまで出したことがなかった全力を以て走り、友を救おうとしたことがあった。
だが、間に合わなかった。その友と言葉を交わす機会は永久に失われた。
それ以来、男は走り続けてきたのだ。一度も緩めず、一度も止まらず。
「死なないでくれよ」
「あなた、待って頂戴」
枕元で、人々が嘆く。
「……ほっといてくれ」
男はしかめた目を天井の一点に向け、ぎりりと歯を食いしばった。
「私は死に急いでるんだ」
それからふいに、全身の力を緩めたと見ると、急に幸せそうな微笑を浮かべた。集まった全員が、「ああ、やっと止まれたのだ」と気づく。
勿論、このとき男は息を引き取っていたのである。
「急いで行く」、
「急いでする」、
「急ぎ」、
「突進」