#4 見えても、言わない
宿の屋根裏は、藁と、乾いた埃の匂いがした。
シエラは、俺の左肘を膝に乗せ、細い管の先から油を一滴ずつ落としている。木と金属の継ぎ目に油が染みていく感触は、痛みでも快感でもない。ただ、そこに継ぎ目があるという事実だけが、はっきりする。
「あなた、さっきから、泉のほうばかり見てる」
窓はない。板壁の隙間から、村の灯りが三筋、細く差し込んでいるだけだ。俺は、その隙間の一つを見ていた。方角としては、確かに泉のほうだった。
「見てない」
「じゃあ、考えてる」
俺は答えなかった。蛇腹が空気を押し出し、葦笛が鳴りかけて、やめた。囁きより少し大きい程度の声しか出ないというのは、こういうとき便利だ。黙っているのと、声が届かないのとの区別が、相手につかない。
シエラは、油差しの管を布で拭いた。
「明日、あの司祭に何か言うの」
「分からん」
「分からないって顔、木でもできるんだね」
俺は、少し笑ったつもりになった。木の頬は、当然、何もしなかった。
「一つ、話してもいいか」と俺は言った。「長くなる」
「油を差し終わるまでなら」
俺は、8年前の話をした。
二階堂満。俺の師匠だ。66歳。古い型の芸人で、種明かしを嫌った。「見えたものを全部言う奴は、芸人にはなれない」というのが口癖だった。俺はその言葉を、才能のない人間の負け惜しみだと思っていた。俺には見えたからだ。彼が使っていた仕掛けも、彼が客の視線をどこで釣っているのかも、全部。
その満が、引退興行を打つと言い出した。7日間。最終日は、若い頃に一度だけかけて失敗した大掛かりな脱出物をやると。
俺は、初日の楽屋で気づいた。
彼が箱の錠に触れるとき、右手の親指が一拍遅れる。袖の内側に、紙の折り目の影が四つ。薬包の折り方だった。上着の肩が余っている。前の年の秋に採寸した上着だ。三月で、人一人の肩の肉は落ちない。落ちるとしたら、そういうことだ。
そして、鏡台に、紙が一枚、伏せて置いてあった。
「読んだの」
「いや」俺は言った。「医者の書付だと思った。だから、めくらなかった」
俺は、めくらなかったことを、8年間、自分の慎み深さだと思っていた。
最終日、俺は舞台に上がった。前座として一つ演って、そのまま袖に引っ込むはずだった。だが俺は、引っ込まなかった。
俺は、客に向かって口上を打った。今夜、この舞台の上には、皆さんがまだ知らない仕掛けがもう一つあります、と。
そして、暴いた。
指の遅れを再現して見せた。上着の肩を摘まんで、余った布を客席から見えるように引いた。袖の折り目の話をした。俺は満を舞台の中央に立たせたまま、彼の体を、一つの仕掛けとして解体した。この人は、余命を宣告されています。それを隠して、今夜ここに立っています——と。
客席は、割れた。
泣いていた客もいた。立ち上がって拍手した客もいた。俺は、その音を浴びながら、自分が今夜、師匠に最高の花を持たせたのだと思っていた。真実は、いつだって、隠されているより明るいところにあるほうがいい。俺はそう信じていた。
満は、笑って受けた。
プロだからだ。あの人は、舞台の上で起きたことは全部、舞台のものとして受ける人だった。だから笑った。深く頭を下げて、客席の拍手を、最後まで受け切った。
翌週から、彼は舞台に立たなかった。契約の残っていた地方の三か所も、断った。俺が訪ねても、会わなかった。三か月後に死んだ。葬式で、彼の奥さんが俺に一言だけ言った。「あの人、あなたのこと、最後まで褒めてましたよ」。それだけだった。責められたほうが、まだ楽だった。
「以来、決めた」と俺は言った。「見えても、言わない」
シエラは、油差しを膝の上に置いたまま、長いこと黙っていた。板の隙間の灯りが、一つ消えた。誰かが寝たのだろう。
「それ」と彼女は言った。「泉に、どう繋がるの」
「繋がらん。だから、困ってる」
「ふうん」
彼女は、俺の肘を膝から下ろした。関節が、さっきより滑らかに動いた。
「でも、それだと詐欺は止まらないよね」
言い方は、責める調子ではなかった。歯車の噛み合いが悪いですね、と言うのと同じ調子だった。だから、よけいに逃げ場がなかった。
「そうだな」
「うん」
彼女は、それ以上何も言わず、道具を袋にしまった。
翌朝、行列は昨日より長かった。
俺は、シエラの膝の上に座らされ、腹話術人形として、村の広場の端にいた。芸をするふりをしながら、列を見ていた。
前から数えて11人目に、赤子を抱えた女がいた。
赤子の顔は見えなかったが、抱き方で分かった。首の据わっていない子を、あの角度で長時間抱えている親は、その子が起きているか眠っているかを、体重の掛かり方で知っている。女は時々、抱き直すふりをして、子の口元に指を当てていた。息を確かめていた。
俺には、泉の裏の樋が見えていた。投入口も、白く濁った水がどこで作られているかも、昨日のうちに全部見えていた。あの水に、赤子の熱を下げる力はない。一時的に濁って、飲めば少し楽になった気がする。それだけだ。
女が、俺の前を通った。
俺は、口を開かなかった。
見えても、言わない。俺は自分にそう課した。8年間、それを守ってきた。守っている間、俺は誰も壊さなかった。誰も助けなかった、ということでもあった。
女は列の先に進み、木の椀に水を受け、深く頭を下げて、それを赤子の唇に少しずつ含ませた。手つきは丁寧だった。祈るというより、薬を飲ませる手つきだった。
シエラの指が、俺の背中の操り穴の中で、動きを止めた。
彼女は何も言わなかった。俺が黙ったことに気づいていた。気づいた上で、昨日の一言を繰り返さなかった。
繰り返されるより、こたえた。




