#27 帰れる
追手を撒いてから、俺たちは三日、廃れた炭焼き小屋に籠もった。
シエラは、その三日を、ほとんど手記に費やした。
読むのが遅かったわけではない。オルブレクトの字は、癖はあるが読みやすい。遅かったのは、彼女が一枚読むごとに、手を止めていたからだ。
*
一日目に、建国の話が終わった。
210年前。この国はまだ国ではなく、四つの領地が水源を取り合っていた。
そこへ、一人の男が現れた。四つの領主のうち、いちばん力の弱い家の三男坊だった。彼は、聖起の丘に登り、天に問うた。すると雲が割れ、光が降り、地から音が鳴った。
四つの家は、その日のうちに、彼を王に立てた。
『依頼を受けたのは、その年の初夏である』と、オルブレクトは書いていた。
『糸は三十七本、鏡は十一枚、床下に足場を四層。人手は十九人。日を選ぶのに二月かかった。雲が割れるように見える日は、あの丘では年に四日しかない。四日のうち、風の向きが合うのは、平均して一日である。私はその一日を、三年前から数えていた』
淡々としていた。
見積書のような筆致だった。俺は、その筆致が好きだと思った。同業の人間の書き方だ。
『音は、地から鳴ったのではない。床下の四層目で、19人が同時に樽の底を打った。私は三年、彼らに稽古をさせた。19人が一つの音になるまでに、七か月かかった』
二日目に、粛清の話になった。
『組合は割れた。守るべきだという者が四十一人、明かすべきだという者が七十三人。私は後者に立った』
『四十一人は、王家に技を差し出した。七十三人の名は、彼らが書いた』
シエラは、そのページで、長いこと止まっていた。
彼女は、まだ、ゾランの作業台を見ていない。この時点で彼女が知ったのは、組合が売られたということだけだ。誰が売ったかを知るのは、もう少し先になる。
『私は、七十三人のうち、最後の一人である』
『私は、あの日、丘の上で何が起きたかを知っている唯一の生き残りとして、これを書いている。私を殺せば、この国の始まりは、永遠に神のものになる』
*
三日目の午後に、シエラが、貼りついた最後の数ページを剥がしにかかった。
水に濡れて固まった紙だ。彼女は、薄い刃と、湿らせた布と、鶏の羽根を使って、半日かけて三枚を剥がした。剥がした三枚のうち、二枚目に、その記述があった。
彼女は、それを読んで、俺を見た。
そして、もう一度読んだ。
「レン」
「なんだ」
「これ、あなたのことだ」
*
『器について』
『私は、七十三人が消えたあと、一体の人形を遺した。奇跡人形と名づけた。動力に霊晶を用いる』
『この器は、送るためではなく、受けるために作った』
『丘の機構に納めた霊晶八個を、一度に器へ流し込めば、器は遠くから来た意識を送り返すことができる。私は理屈を書き残せるが、試したことはない。試す相手がいなかったからである』
俺は、その三行を、シエラに三度読ませた。
三度目で、ようやく、意味が体に落ちた。
帰れる。
半年、一度も本気で考えなかった言葉だった。シエラが最初の夜に「帰る方法は、どこにも書いてない」と言って、俺はそれを信じた。信じることにした、というほうが近い。信じないと、この体で立っていられなかった。
日本の病院に、俺の体がある。生きている。ということは、誰かが、半年、面倒を見ている。
「……あるじゃないか」
「あった」とシエラは言った。「私、読めてなかった。ここ、貼りついてたから」
彼女は、そこで、次の一枚を剥がしはじめた。
*
三枚目に、条件が書いてあった。
『ただし、器は流れに耐えぬ』
『八個を一度に受ければ、器は内から裂ける。裂けぬためには、器自身が内側から支えねばならぬ。支えに要する量は、器に納めた霊晶のおよそ四目盛りに当たる』
シエラは、残量計を出した。
針は、17。
「足りてる」と彼女は言った。「四つでいいなら、余裕で足りてる」
俺は、その言葉を聞いて、しばらく、何も考えられなかった。
帰れる。
丘へ行って、八つを受ければ、帰れる。
*
だが、シエラは、残量計を伏せなかった。
伏せずに、針を見ていた。
「レン」
「なんだ」
「丘の八つは、一度きりだよね」
「……ああ」
「その八つを、あなたを送り返すのに使ったら」
彼女は、そこで顔を上げた。
「丘の上で、何も明かせないよね」
*
俺は、そこでようやく、この一件の形を理解した。
丘の機構に嵌まっている霊晶は、八つ。この世に残っている、まとまった霊晶は、それが最後だ。
その八つを人形に流し込めば、俺は日本へ帰る。
その八つを、丘の上で、口上に使えば——数万人に、この国の始まりが何であったかを、届けることができる。
同じ八つだ。
両方は、できない。
「待て」と俺は言った。「俺の胸に、17ある。丘の八つを送還に使って、俺の17で口上を打てばいい。演ってから、帰る」
「無理」
シエラは、即答した。
「丘は、数万人だよ。私、計算した。あの村の五十人で六目盛り。偽聖人の三百人で十三。人数に比例するんじゃなくて、たぶん、人数が増えるほど跳ね上がる」彼女は、指で床に線を引いた。「数万人にちゃんと届く口上を打つなら、あなたの17なんて、最初の一言で消える」
「……」
「丘の八つを使わないと、数万人には届かない。だから、八つは、送るのか、語るのか、どっちかにしか使えない」
俺は、木の指を、膝の上で組んだ。組めているのかどうかも、自分では分からない。
「じゃあ、選ぶだけだ」と俺は言った。「選べるなら、まだましだ」
シエラは、答えなかった。
答えずに、残量計を、もう一度見た。
「レン」
「なんだ」
「半年前なら、両方できた」
*
「……なに」
「半年前」と彼女は言った。「あなたの残量、97だった。私が最初に計ったとき。覚えてる」
「ああ」
「97あったら、丘の八つを使わなくても、自前で数万人に届く口上が打てた」
俺は、動かなかった。
「打てたんだよ。97あれば。それで、丘の八つは、まるまる送還に使えた」彼女は、淡々と言った。彼女は、こういうときに感情を混ぜない。混ぜないから、逃げられない。「語って、そのうえで、帰れた。両方できた」
「……」
「賭博場で、35使った。塗料の広場で11。偽聖人で13。あの村で6。神明裁判で6。それから、細かいのが全部で9」
彼女は、指を折らなかった。折るまでもなく、覚えている数字だった。
「あなたが、他の人のために使った分だよ、全部」
*
俺は、この半年に自分がやってきたことを、一つずつ思い出した。
賽の重り。掌の血糊。壁の鉛。明礬の桶。柳の三本。
一つずつ、正しかった。少なくとも、その場では正しかった。正しくなかったものも、正しくなかったなりに、俺が選んだものだった。
その全部が、帰りの切符だった。
俺は、半年かけて、それを一枚ずつ、他人の前で破いてきた。破いていることを、知らずに。
「あなた、悪いことしてないよ」とシエラは言った。「一つも」
「……」
「ただ、そういう仕組みだったってだけ」
彼女は、手記を閉じた。
「私、これ、あなたに読ませたくなかった」
「なぜ」
「知らないほうが、楽だったでしょ」
俺は、少し考えた。
そして、正直に答えた。
「楽だっただろうな」
*
夜、炭焼き小屋の外へ出た。
木立の切れ間から、南東の空が見えた。あの方角に、聖起の丘がある。祭礼は、十四日後だ。
俺は、日本の空を思い出そうとして、思い出せなかった。半年で、もう曖昧になっていた。覚えているのは、舞台の天井の梁の色と、楽屋の鏡の縁の欠けと、満の書きかけの紙が伏せてあった、あの角度だけだった。
帰れば、あの紙が、まだどこかにあるかもしれない。
俺は、そのことを考えて、それから、自分がいま何を考えたのかに気づいた。
——帰る理由が、それか。
俺は、その夜、初めて、自分がなぜ帰りたいのかを、正面から考えた。
答えは、出なかった。
出ないまま、十四日が始まった。




