あなたといきた
人間が科学的な成果に溺れ、それに頼り、果てに、人間同士の信頼関係が希薄とされた、この時代。
わたし自身も例に漏れず、自分の利益や感情ばかりを優先する家族とはうまく関われていない、どころか、嫌悪を募らせている一方。同じ血を引いていると思いたくない。そんな人たちにわたしのことは任せたくはなくて、だから、パートナー制度を利用することにした。
恋人でなくても、友人でなくても、家族でなくても。赤の他人であってもいい、お互いを法的なパートナーとし行動する、この時代ならではの制度。
エントリーシートに、パーソナルデータや要望を書き込み、パートナー制度ユーザー統合センターへと提出した。
これは、私と、私のパートナーの、スタートラインだ。
「初めまして」
挨拶は、至って人間らしかった。
人間同士の関係の希薄さが目新しくもない昨今、こんなふうに改まって挨拶をされるのは、本当に久しぶりだ。ユーザー統合センターの面会室で初めて対面したかれは、ニナ、と名乗った。
「これからよろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしくお願いします。敬語はいらないから、好きに話してね」
「ありがとう」
しっかりと握手を交わし、お互いの顔を刻みつけるかのように、認識した。
かれとはすでにパートナー制度相互契約が結ばれており、ニナは、この人生の終わりまで添い遂げる。文字通り、言葉通り、パートナー。……戦友、として。
それはそれとしてまずひとつ。
「ニナ、そのバッグからはみ出しているのは、それ、パン?」
「うん、ソフトフランス」
「なんでパンを?」
「センターの担当から、あなたの好みをひとつだけ訊いたんだ。フレンチトースト、食べない?」
おそらく、かれなりの歩みよりなんだ。と、思って、なんだか胸元が苦しいような気持ちになった、わたしに近寄る人々は、わたしのことなんて何にも考えていない人間ばかりだったから。
「……うん、食べる。お昼がまだだったの、嬉しい」
「よかった。奥のキッチンで作るから、好きにしていて」
「手伝うよ」
「大丈夫」
大丈夫だよ、繰り返して、ニナは奥の扉に消えていく。
知っているのだ、わたしが食品への異物混入を恐れていること、それが身近な人間によっていて、だから。
日本流に甘く味付けされている。砂糖とたまごの風味。粉砂糖が蜂蜜に溶けていく。完璧。わたしの好きなフレンチトースト。
もぐもぐ、もぐもぐ。ひたすら、熱心に食べ進めている自分に驚く。いつもならこの手で作ったモノ以外は、あまり受け付けないのに、ニナのフレンチトーストには、嫌悪感がなかった。「大丈夫」が効いたのかもしれない。あるいはかれを信じ始めている?
目の前で、ニコニコしながら、食べる私をみているニナに、ナイフとフォークを置いて、
「ありがとう、とっても美味しい」
「それはよかった、頑張って覚えたんだ。料理なんてしたことがなかったから」
「そうだったの……ねえ、他にわたしのこと、何を覚えてきたの?」
問いかけると、ニナは。なにも。水を飲みながら言って、そして答えた。
「僕はあなたのパートナーだから、これからあなたの好きなものを覚えていくんだ。この料理は、よろしくね、の一品だよ」
なんだろう。
なんだろう、それは、まるで本当に誠意だ。本当に。……「本当に」?
この思考はよくないものだ。
慌てた内心を隠すように、わたしも、柔らかく笑んでみせた。
「それなら次は、紅茶の淹れ方を覚えて欲しいな、とびきり美味しい、蜂蜜入りが良い」
誤魔化し紛れのお願いに、ニナは、もちろん、と、楽しそうに笑って、おかわりはいる? とお皿をさす。もうおなかいっぱい! おなかを摩って伝えたら、じゃあお茶だね、ティーバッグならあるんだ、立ち上がってまたキッチンへと消えた。
茶色の目が優しく細められるのを、ぼうっと、まるように見た。
ニナは次の面会で、ハニー・ティーを用意してくれた。
何度も何度も繰り返し練習したらしい。本当に美味しかった。
まるで本当にパートナーだな。アホらしいことを思いながら、ありがとう、とお礼を告げた。
私こそ、私の嫌う「人間」みたいな思考だ、この世で唯一、何もかも託した人に、「まるで」なんて。
ニナは正真正銘、私のパートナーだ。
だってかれはわたしを、人として思ってくれた。
ニナとパートナー契約を結んでから三ヶ月。
わたしとニナは定期の面会、日々の連絡、緊急時の要請でしかふれあわない。わたしはそういう希望でセンターに登録し、それを叶えたのがニナだからだ。
ニナに興味がない訳ではない。ただニナは、わたしに頑なに自分のことを教えない。面会室でも、メッセージでも。
だから、ニナはわたしを契約者としかみていないのだと思って、深く詮索せずにいた。そんなことはないと、初対面の時、思ったばかりなのに、そんなことあったのだと思わないと、悲しくて。
それとなく自分のことを伝えても、そのぶん、ニナばかり、わたしを知っていく。
「それで良いんじゃない」と、家族は言った。
所詮は契約した関係なのだから。本当の家族は自分たちなのだから、最近知り合ったばかりの男に知られすぎるな、と深入りするなと。
あまりに鬱陶しい思い上がりに嘲りが止まらない。
家族は、自分たちが、わたしからの信用の一切を失っていることをわかっていなかった。
面会のたび、ハニー・ティーを淹れて、優しく微笑んでくれる、ニナを思う。
関係、という意味合いなら、ニナの方がよほど良い関係をくれている。
わたしたちは、パートナーなのだ。たとえ彼をなにも知らなくても。わたしはニナを、世界で一番「信じている」。
信じていたく、思っている。
ニナと出会って半年ほど経った、事故に遭ったようだった。自動移動車の暴走に巻き込まれたのそうで、起きてからの説明では、あちこちに傷を負い、臓器まで痛めているらしかった。しばらく絶対安静に、と医師から告げられ、わたしは真っ先に、パートナーは来ましたか、とだけ訊ねた。
「かれなら廊下にいたわ、呼びますか?」
看護師が気遣ってくれる。わたしはそれに甘えて、お願いすることにした。
今後の治療についてはパートナーさんと一緒に、後日話しましょう。言い置いて、医師が出ていく背中を見送って、それと入れ替わりに、ニナが入ってきた。
きっといつもの笑顔で、お疲れ様、と言うのだろう、と、予想していた。だから、がら! と、大袈裟なほど大きな音を苦しいほど泣きそうな顔で飛び込んできたニナに、心底驚いた。
縋り付く、とでもいうような様子で、かれはベッドのふちに寄り、
「生きていてくれてよかった……」
端に頭を伏せて悲しみ、それ以上に安堵しているような、声音、泣いているような。
ああ、ニナはわたしを心配して、心痛めてくれたのか。
思い至って、今度こそわたしが泣きそうだ。
痛くてあまり動かない体をなんとか動かして、ニナの投げ出された手を、そっと握る。頼りない力だった、でも、ニナは、わたしに負担をかけないような優しい手つきで、握り返してくれた。
「心配をかけてごめんなさい」
「あなたが謝ることではないよ。本当に、生きていてくれて嬉しい」
ニナはやっと顔を上げて、おや、とし、わたしに指をそっとそわせて、瞼のふちの何かを、ううん、涙を、拭ってくれた。
「手続きはすべて済んでるから、安心して。あなたはなにも気にせず、しっかり休んで」
ありがとう、と、口から出てこようとした言葉が止まった。そこでわたしは見えたのだ、かれの頬や腕に、傷があること。
怒りでどうにかなりそうだった。
「外に家族が来ているでしょう。何か言われなかった?」
思わず確かめた言葉に、ニナは、にやり、と口角を上げて、繋がった手をもう一度、改めて繋ぐ。「あなたのことをなにも知らない人たちだね」 それでわたしは全部わかった。
わかったから、一度口をつぐんで、また思いを探す。探したけれど、結局出てきたのは、単純なことだけだった。
「…ありがとう、ニナ」
精一杯の感謝と、込めた謝罪。彼は笑みを深めて。
「僕たちは戦友だろう、戦友は、助け合わなければね」
応えにのどの奥が詰まった。痛いとか、辛いとかではなく、ただ感謝だけがあった。それゆえ、呼吸すら詰まって、もうなんて言葉でどれだけ繰り返し、この気持ちを伝えたらいいかわからなくなっていた。
ぽろぽろと際限なく溢れ出した涙を、かれはハンカチでおさえては拭ってを何度もしてくれて、ああ、この人がパートナーでよかった、そんなことを思う。
「ほら、傷に障るから、もう一度おやすみ」「ニナは……?」
「僕は一度、家に戻ってくるよ。ああ、あなたの着替えなんかはどうする……もう寝てる?」
寝てないよ、返したつもりで、深く、眠りに、思考のうずに落ちていく。
わたしのパートナー、優しいニナ。わたしに興味がないなんてそんなことなかった。そのことがこんなにも嬉しい。
でも、わたしの方は、かれに、何をしてあげられているのだろう?
わたしは。彼をなにも助けられていないのに、こんなにも、守られて、いる。
そんなのは、本当に戦友なの?
もっと対等にありたい。わたしだってニナの助けに、力になって、理不尽からかれを守りたい。どんな困難からも、逃してあげたい。
だから、逃げてばかりいないで、わたしはもっとニナを知ろう。教えてくれなかったとしても、もっと知ろう。だって彼はわたしのために、悲しんでくれるのだから。労って、大切にしてくれるのだから。
眠りにつきながら、決意、した。
入院はとても大変だった。
療養に専念していても、こちらの事情を知った、薄っぺらい関係の友人たちや、噂の大好きな報道関係の人間が、見舞いだと嘯いて訪れてくるのだ。病院にはとても迷惑をかけていて、でもその理由がわたしの職業にあると知ると、納得して助けてくれた、プロフェッショナルというのはこういうことだ。
ご迷惑をおかけしているし、なるべく早く退院しよう、と思ってはいても、ひと月しても、医師から退院許可が下りない。
「早く家に帰りたいなあ」
「そうだね、少し長いなあ」
しょり、しょり、と、りんごを剥くニナが、ひとつ剥けてはこちらによこし、食べ終わった頃にまたよこす。太らせる気だ……。
ニナは毎日、面会に来て、わたしと他愛無い話と、事務的な話も時折して、また来る、と帰っていく。それが日課になるほど、わたしは病院に馴染んでいたし、ニナもそうだった。
お金はたんまりあるから一人部屋にしてもらって、のんびり療養させてはもらっている。この病室にくるのは、医師と、看護師と、ニナだけ。運動も制限されていて、だんだん痩せていくわたしに、ニナはなにくれとおやつをよこす。せめてこれ以上体力が落ちないようにと思ってくれているのだ。
ニナは優しい、ここ最近で、たくさんニナのことを知ることができた。
例えば、いつもは事務の仕事を在宅でしていること。
今までのやり取りの中で知ったわたしの好きなもの、嫌いなもの、愛した本。すべて学んでいること。
りんごが好きなこと。車の運転が苦手なこと。 なにも知らなかった頃に比べたら何歩もの進歩だ。
「今日は先生がいらっしゃる日だよね? お訊ねしてみてはどうだろう」
「うーん、そうね。一泊くらい、行けたら全然違うもの」
そうして訪れた医師に、外泊は可能か、お伺い
すると、返ってきたのは躊躇いがちな、
「今まで毒など、飲まれた経験はおありですか?」
という質問だった。
まさかそんなことを訊かれるとは思ってもいなかったことで、驚きながら、
「ありますが」
と、返事をする。
そのことに、医師も、同行の看護師も、そしてニナも、とても驚いたようだった。
まあ、普通ならば飲む機会のないものだから、仕方ない。わたしも、盛られなきゃ好きではとても飲みたくなどなかった。
「それは、何度もですか」
「はい。多種多様に」
「……誰が」
「おそらく家族が。けれど確証が出ず、警察は捜査できませんでした」
「そうですか……残念なお知らせをしなければなりません」
医師は深く息をついて、まるで自分を落ち着かせるようにした後、宣告した。
「残念ながら、この度の入院が終わることは、おそらくありません」と。
わたしの体は事故でボロボロだったが、それにしても臓器など、弱りきった部分が多く、度重なる検査で、状況を掴めるよう努めてみたところ、毒による全身の虚弱が見られ、このままでは外に出てもすぐ倒れてしまう、それくらいには、もう手遅れ。
なるほど。と、相槌を打つ。
「なるほど、それで、保ってどれほどでしょう」
「最善を尽くします、なので正確な寿命などはまだ……」
「建前は大丈夫です、先生、大丈夫だから」
お願いします。
「……保って、一年はない、かと」
「ねえ、ニナ、ニーナ」
「なんだい」
「そんなに落ち込まないで」
わたしなんかより余程、ニナの方がショックを受けている様子で、なんだか、ふふ、と、笑えてしまった。
そんなわたしに、ニナは、おそらくつとめて冷静にして話す。
「……あなたは、悲しくはないの」
「悲しいよ、でもそれより嬉しい」
「何が、まさか死ぬのが?」
「わたしが死ぬのを、悲しんでくれる人がいることが」
するとニナは、ああ、と、声にし、嘆いたように見えた。ベッドに頭をもたれ、わたしの方を見る目は、責めているかのようだ。
「僕がいなかったら、そんなふうには思わなかったはずだ」
「まさか自分を責めてるの?」
「当たり前だ……孤独であれば、あなたは、もっと怒って、あの人たちに復讐なり、したはずでしょう」
「それは、わたしに孤独であって欲しかったってことかな」
「違う!」
起き上がり、その、自分の声にはっとした、ニナは、慌てて口元を覆って、目を逸らした。
あんまりにも健気な顔をしてくれるから、わたしは思わずまた笑って、今度はかれの頭を撫でた。
さら、と、梳いた髪の流れる様を見る。美しい、かれの心こそ、何より。
わたしはこのひと月、ニナがつきっきりでいてくれて、知ったことがたくさんあるよ。
そして、彼がわたしに、自分のことを教えなかった理由も、知った。
情が移ってしまわないように。
それを聞いて泣きたくなった。わたしは本当にわかられている。たくさんのことを知れば愛してしまう、それが恋でも、愛でも、友としてでも。
けれど、ニナ、もう遅いって、お互いわかったから。だから彼は出し惜しみしない。
わたしは契約を超えた信頼を、戦友に抱いた。
「ねえ、ニナ。あなたがいなかったら、わたし、一人ぼっちで、誰にも悲しまれずに死んでいってた。そんな悲しいことってある?」
「僕がいる」
「そう。ニナがいる。だからわたし、これからの時間を楽しもうと思う。どうかな」
どういうポジティブなんだ……、かれの唸りはシーツに消えて、わたしはやっぱりその髪を梳く。
かれと余生を生きたい。そして。
何かあったら必ず助けになる。とも、思っている。
ニナはわたしの戦友、だから。
ところでわたしは一応、文筆家として活動している社会人だ。
ちょっと長いお休みをもらってしまったので、締め切りさんが目の前で小躍りしている状態であって、出版社では編集さんが、今か今かと原稿を待っていらっしゃる。
詩を書いて、寝かせ、コラムを書いては、寝かせ、書いておいた詩を持ち出して推敲し、データで提出し……などを、この病室でなお繰り返している。
そしてニナも在宅勤務の社会人であって、自宅以外に持ち出してはならないものを、無理を言ってわたしの病室でこなしている。
わたしたちは病院という狭い中の、さらに狭い、いち病室で、日常のことをして、時々、ちょっと楽しいこともした。
例えば、医師の許可をもらいながら、スイーツの食べ比べをするだとか、ニナが新しい服を買ってきてくれたりして、それで二人きりのファッションショーをするとか。お庭に出てシャボン玉もやった。それもこれも楽しいことばかりだった。
友人も、親類も、何にも希薄だった今までのわたしにはない楽しさだった。
だからこれも大切なこと、と思って。
弁護士を雇い、わたしとニナと、三人で、死後の予定を立てることにして、弁護士に足を運んでもらっている。
遺産だとかは使い道を決めていたから、ほかの細々とした、遺品の整理なんかはニナに丸投げした。なにせわたしは、病院から出られない者なので。ニナは、まったく、とため息をつきながら、許して、行ってくれた。
「ねえ、ニナ、わたしの遺品、何か欲しい?」
「もらっていいの? だって僕は」
「うん、だって、わたしがいなくなった後も、使えるものがあったりするかもしれないでしょう?」
「……じゃあ、わがままだけど、文が欲しい」
「それって役に立つかなあ」
目の前の弁護士が、そこで苦笑いした。それで、ちらりとニナの方を見て、さらに。
わたしの隣にいるニナは、心底、泣くのを堪えている顔をしている。ゆっくり、極めて冷静に。それは、わたしに嫌な思いをさせたくないという、かれの癖だ。
「あなたの書くものが好きだよ」
「そっか、じゃあ、そうしよう」
その日はもう弁護士もお帰りの時間となり、二人で病室にてお見送りして、ニナも、今日はこれで帰るよ、と、出した荷物を片して帰っていった。
ニナのことも見送って、ぼうっと、天井を見上げる。
あらかたのことに区切りがついたなあ。
だから多分、体が油断した。
とうとう限界がきたな、と感じた。
から、コールボタンを押した。
とおくからバタバタとやってきた看護師に、そろそろ、と、それだけ伝える。
少し? しばらく? して、医師がきて、あちこち診てもらったようだった。
その後に、ニナの足音がして。気がつくと、かれはわたしを覗き込んでいた。
「しっかり、しっかりして」
もう何もかも枯れ果てたような、世界の終わりみたいな。でもわたしもう、そろそろ、本当に限界だったから。
「あとのことは任せたよ」と、ニナに託した。
幸せだった、最期の最後まで、ニナがいてくれる、これほどの安心につつまれて。
最期まで彼の何の力にもなれなくて、なのに、なのに。ねえニナ、悲しんでくれるのね。いかないでと、言ってくれるのね。
面倒ばかり遺してごめんね。でも、良いものもおいてきたから。
「いいからあなたは、もう泣かないで」
それが最期の、本当に最後に聞いた、ニナの声だった。
某日、春のような麗らかな日よりにて、彼女の葬儀は執り行われた。喪主は僕だ。誰もまねかずひっそりといきたいと言った彼女の言葉に忠実に。
祈りなどはいらないから、骨を焼いて海にまいて欲しいと言っていた。幼い頃からの夢だったと聞いて、とてもかなしくなったことを覚えている。
火葬を終えて、遺骨を抱えて外に出ると、門の外が人で犇めいていた。あれは、彼女の遺族と、若き文豪の最期を写真に収めて話でも、と思っている報道関係者。友人たちの姿はない。
それを判別して、今日ばかりはと頼んだ車に乗り込み、プロフェッショナルに任せた運転で、敷地を出ようとする。
その車の前に、体ばかり大きな子供が身を張った。
車は急停車し、そこを狙って老人や女が車を囲んだ。姑息だ。
彼女の遺族が激怒している。というのは承知している。
若くして成功し、父親の多額の遺産をも引き継いだ本家の娘の、その多額の遺産が、自分たちのもとには一銭も入ってこないことを知ったからだ。その通知は、優しくも僕が出した。後から、全てが終わる段階になってまで文句を言われるのは、あまりに彼女があわれだったから。
けれど、そんな意図などなかったかのように、その人たちは道を阻む。
愚かな人たちだ、そんなにも愚かだからこそ、彼女は遺族になに一つとして権利を渡さないよう手続きしていたのに。
防護ガラスの向こうで、「返せ、孫を返せ!」
そう叫ぶ老人の聞くに耐えない声。
馬鹿の一つ覚えだ。この人間関係に希薄な現代において、情に訴えれば勝てると思っている。古いドラマの見過ぎではないだろうか。生憎と僕には、この人たちに抱く情などなに一つとしてない。
僕は、夏生新名のパートナーだ。
そういうように作られた、彼女以外に情など感じない。ニナという、アンドロイドだ。
彼女に信じられることのなかった遺族に、くれてやるものなど塵ひとつも存在しない。
防護ガラスの上部を少し開けて。
「僕は法に認められた新名のパートナーなので、彼女に関することは、法のもと、僕に一任されている、と、もう一度だけ言っておきますね。これ以上、騒ぐのであれば、警察を呼びます。そのようにして欲しいとの、遺言なので」
唖然とする遺族を置いて、僕は骨になった新名を抱き直す。
向かったのは、彼女が好きだと言った海の、最果て。
運転手にはのんびりしてもらって、船へ乗り込み、操縦をお願いする。彼は新名の作品のファンだと言った。涙ぐんだ彼の存在を、彼女に教えてあげたかった。
沖に止まって。僕はひとり、彼女の骨をまく。
ひとつ、ふたつ、みっつ。時折、てが止まりそうになりながら、続けていく。よっつ、いつつ、むっつ、ななつ……。
ああ、この世はなんて残酷か。
新名。
出会う前からあなたが好きだった、初めから、そういうようにインプットされていた。あなたがエントリーシートに記入した内容で行われた、人格、性格把握テストから導き出された結果のものだった。あなたには愛情が欠けている、と、誰もが判断した結果だった。
あなたを愛するために僕は生まれた。
だから今、僕は、こんなにも悲しい。
もうあなたにフレンチトーストもハニーティーも作ってあげられない。仕事をしている真剣な横顔も、新しい服を着てはしゃいでいる姿も。あの柔らかくやさしい笑顔を見られない。どんなことがあっても、助けてあげられない。
そして、僕から、記憶を奪って、去っていく。
あまりにも穏やかに、ひどいことをして。
あなたの遺言の一つ。
夏生新名のことの一切を、ニナから、わたしの遺産のすべてを駆使して、削除してください。
アンドロイドは、この現代において、内部の処理能力が高すぎて、低コストではメモリを消すことすら難しい存在だ。
大体がひとつの主人に使えて、役目を終えたら、部品となるため廃棄され、解体される。メモリがあると感情に近いものを得るため、ほかの主人につかえようとしない機体がほとんどだからだ。 それを防ぐたった一つの方法が、「メモリの全消去、及びリセット」。
だいたいのアンドロイドは部品となるなか、僕は彼女の意思によって、記憶とも呼べるものを消されて、なかなかいない「第二の主人をもつアンドロイド」となる。それに値する金額を、彼女の遺産は賄えてしまう。
なんてひどい、酷くて愛おしい。
これを決めたとき、僕は新名の横にいた。そこに座って、彼女が心底嬉しそうに笑っているのを、ただ見ていた。
「ねえ、ニナ。わたし、ニナの力になれるかな。ニナのからだを、せめて、守ってあげられるといいなあ」
あの、信頼する友人を見る眼差しに、僕の中の恋に似たモノが、疼いて、あなたを忘れさせるくらいならスクラップにしてくれ、と、叫びたかった。
「大好きよニナ、わたしの戦友」
僕を心底、愛している友人が、可愛らしい声音でいう。
体の中で反響して。
そこでやっと、遺骨をまき終えた。
祈りなどいらないとは聞いたけれど、僕は、そこで静かな黙祷をする。
新名。僕の主人、僕の愛したひと、僕の友人。僕の、パートナー。
せめて来世があるならば、あなたの幸せがそこにありますように。
しっかりと捧げた、愛情を、おいていく。
陸に戻ったら、新名が懇意にしていた出版社の編集さんに、届け物をしてこなければ、それが終わったならば、僕はラボで消去作業に入る。 操縦者に声をかけて、止まっていた船を動かしにかかってもらった。
最期まで僕を守る、可愛いひと。
さよなら、僕にすべてを与え、遺し、守っていく。新名。
(一昨年に逝去された夏生新名さんの未発表の新作が、本日発売となります。夏生さんの生涯について書かれた内容となっているらしく、発売前からタイトルが話題をよび、今、書店前は大行列です。タイトルはー…)
「ねえ、わたし、本屋さん行きたい! 夏生先生の最新作よ!」
「まあまあ。ではお嬢さま、ニナをお連れくださいね」
「ええ、行きましょう、ニナ!」
お嬢様が婆やの声かけに、僕を呼ぶ。僕は、はい、と返事をして、お嬢様の上着をお渡しし、そっと勢いつかないよう、扉を開けて差し上げた。
「ニナ、今回の作品は、ニナもきっと好きよ、あのね、あなたの名前の入ったタイトルなのよ」
「わたしの愛したアンドロイド(ニナ)」
「え! 知っていたの?」
驚くお嬢様の、いかにも、びっくり、とした表情に、思わず僕もにこやかになった。
「ええ、約束、しましたから」
僕がわがままなんて言わなくても、新名、あなたは最初からのこしてくれていた。
あの原稿の名は「わたしの愛したアンドロイド
(ニナ)」。
あなたの書くものが、好きだよ。




