賤ヶ岳の戦い終焉間際 お市と茶々
天正11年4月 越前国足羽郡の北ノ庄城の奥で、柴田勝家の正室である市は、長女である茶々の面前に静かに座ってその顔を見つめていた。
先日の賤ヶ岳の戦いでは、夫の勝家は、秀吉率いる軍勢に手酷くやられて、もう敗戦は確実で、後数日で帰城しここで自害するのは、戦国の世に身を置くものであれば誰しもわかるものであった。
「茶々、もうすぐ殿がお戻りになれば、ここは修羅となる。妹達を連れて早々に城を抜けて生き延びなさい」
もういつ嫁に出してもおかしくない、13になる娘の顔を見つめながらそう告げると、
「かか様、かか様はどうなさるおつもりか」
驚きに顔色を悪くしながら、茶々はそう問うた。
「我は、ここで本懐を遂げるのだから難儀ない」
お市は凪いた美しい顔に笑みを広げた。
まるで蕾が開花するが如く、ゆっくりと広げられた笑顔からは甘い芳香が感じられるようで、その様は娘の目から見ても人生で一番美しい母の顔であった。
その笑顔に茶々は驚いて、目を見張り言葉を失った。
生まれてこの方、母のこんなに美しい笑顔を見たことが無かったから。
母は、いつでも美しい女であった。
思い出の中の母は、その立ち姿も振舞いも、凛とした美そのものであった。
しかし、母の美は、言わば冬の雪の様な冷たい美であり、思い出してもこんな満面の笑みなど見たことが無かった。
「かか様、義父様ならばかか様の命を取るなどあり得ないかと。逃亡先は決まっているのならご一緒に」
茶々は話の内容に合わない母の表情に訝しさを覚えながらも、母の言葉に異を唱えた。
「逃げる先は秀吉の所じゃ。殿は決して我を逃がさぬよ」
しかし母は、満面の笑みに似合わぬ冷たい声で否定した。
「え?敵対している相手であっても主君の妹であるかか様のことを、武士の情けと相手側に助命嘆願するのが筋と言うもの。
ましていつも、義父様はかか様を天女のように奉っておられる。逃がさぬなぞ考えられない。しかし、もしそうならば、私もかか様と最期までご一緒致します」
茶々が目にしていた勝家は、主君であった信長の妹である母を、下にも置かない扱いのように見えたし、母もまた義父に心を許しているように思えていたのだが、母はそれをあっさりと否定した。
「では茶々、これから私の最後の昔語りを聞いておくれ。この乱世の中、これから数多な戯れ言の類いが流されようとも、今から語るこの母の言葉が真実じゃ。聞いた話は妹達へとお前がきちんと伝えておくれ」
そう言うと姿勢を正して、笑みを引っ込め、今度は目の奥に冷たい炎をたゆらせた、これもまた初めて見る母の顔であった。
「ええか、茶々。柴田勝家は、大殿を、我が兄にして主君である織田信長を、本能寺で葬った黒幕じゃ。この戦は言わば弔い合戦、そして我がここで仇討ちを果たす」
冬の雪の中に咲く椿のような、冷たい美しい顔でそう告げる母に、茶々は言葉を返すことが出来なくなって、ただただ見つめるばかりとなったのである。




