第9話 回復薬と本当の始まりと
帰宅してまずしたことは、シャワーだった。
水道の蛇口をひねると、冷たい水が勢いよく飛び出し、火照った体をすっと冷やしてくれる。
心地よい刺激に目を細めながら、頭のてっぺんから足の先まで一気に洗い流す。汗も、埃も、そしてどこか浮ついた気持ちも。
「ふぅ……」
シャワーを止め、タオルで頭をがしがしと拭く。鏡に映った自分の顔は、どこかすっきりしていた。
ステータスの検証は一通り終えた。正直、想像よりは地味な変化だったが、
一歩ずつ確実に強くなっている手ごたえはある。
それよりも今気になっているのは、別のことだった。
ポイントで交換できるアイテム一覧の中に、確認しておくべきものがあったからだ。
確かめる前に、まずは腹ごしらえだ。
冷蔵庫からペットボトルを取り出し、朝買っておいた弁当を温める。
ピッという音とともに電子レンジの扉を開け、漂う香りに小さく笑みがこぼれた。
「コンビニ弁当って、なんだかんだでうまいんだよな……」
リビングのローテーブルに腰を下ろし、テレビの電源を入れる。
時間はちょうど昼過ぎ。昼のワイドショーが始まっていた。
久々に見る顔ぶれ。お決まりのコメンテーターたちは、
やたらと深刻そうな表情で専門家を囲んでいた。
(あれ、この人……昔よりかなり老けたな……)
そんなことをぼんやり思いながら箸を進めていると、画面が“今朝の地震”に切り替わった。
「──今朝方、世界各地で同時刻に観測された微小な地震。
震度1〜2、最大でも3未満とされていますが、その異常な一致に世界中の研究者が注目しています──」
番組では、アメリカの山中や、ヨーロッパの平野、日本国内の各地に至るまで、
プレート位置も異なるはずの地面が、なぜか同時に“揺れた”ことを問題視していた。
「はあ、地震ねぇ。外にいたから気づかなかったけど……」
箸を止め、画面を見つめながら呟く。
テレビの音は、次第に芸能人の不倫報道へと移っていった。
さっきまでの緊張感はどこへやら。コメンテーターたちは急に軽口を叩き始める。
(ま、そんなもんか)
空になった弁当の容器を手に取り、何気なく意識を集中させると、
ペットボトルとともにそれはふっと消え、わずかながらポイントへと還元された。
(ほんと、何でも“価値”になるんだな)
感心しつつ、そろそろ本題へと移ることにした。
ソファに深く腰を沈め、手を宙に掲げると──
「パネル、開いてくれ」
軽く言ったその瞬間、空中に淡く発光する透明なウィンドウが表示された。
──【合計ポイント : 91P】
──【現在交換可能なアイテム】
──【携帯食料(最下級) : 5P】
──【水袋(使用回数5回) : 5P】
──【回復薬(最下級) : 10P】
──【状態異常回復薬(最下級) : 15P】
──【短剣(最下級) : 50P】
──【長剣(最下級) : 100P】
──【革の胸当て(最下級) : 100P】
──【革の手甲 (最下級) : 50P】
──【革の脛あて(最下級) : 50P】
──【ステータスチェッカー(簡易) : 100P】
──【経験値変換球(最下級) : 1000P】
テーブルの上に浮かぶ光のパネルを見つめながら、腕を組む。
残りのポイントは心もとないが、試そうとしている内容的には問題ない。
「さて、メインは置いておいて、一旦無難なところを交換してみるか」
小さく呟いてから、指先で軽く二つの項目に触れる。
「携帯食料(最下級)」と「水袋(使用回数5回)」──タップした瞬間、空中にゆらりと波紋のような光が広がり、
いつものように物体が現れた。
ぽとり、と音を立ててテーブルに落ちたのは、
ひとつは茶色くて味気ない箱。もうひとつは、映画やアニメでお馴染みの、革製の水袋だった。
「おお、ほんとに出た」
箱のほうを手に取ると、表面はつるつるとした加工紙のような手触り。
印字や説明文といったものは何もなく、無地のままだ。
蓋を開けると、中には銀色の包装に包まれた棒状のブロックが5本ほど、ぎっしりと詰まっていた。
「カロリーブロックっていうか……サバイバル食みたいだな。匂いは……うん、悪くない。というか、無臭に近いな」
試しにひとつを取り出して、鼻先に近づけてみる。
匂いも、色も、そして手触りも、どこまでも実用性重視といった印象。味にはあまり期待しないほうがよさそうだ。
続いて、水袋を手に取る。
革の質感は思ったよりしっとりしており、しなやかな手触りだった。
茶色がかった深い色合いで、口元には小さなノズルとそれを覆う蓋がついている。
野外映画で見かける兵士たちが腰に下げていそうなタイプだ。
「思ったより、ちゃんとしてる……けど、何の革なんだろ。馬か? それとも……いや、考えるのやめとくか」
少しだけ蓋を開けて、慎重にコップに中身を注いでみる。
とくとくと水音が響き、透明な液体がコップを満たした。
「……見た目は、普通の水。臭いもない。濁りもなし」
ただ、そのまま飲み込むのは少し不安があった。
見た目こそ透明で匂いもなかったが、正体がわからない以上、念には念を入れておきたいところだ。
用心深く、革袋の中身を鍋に注ぎ、ガスコンロに火を入れる。
コンロの上でじりじりと鍋が熱を帯びていく間、テーブルに戻って、先ほど交換した携帯食料のパッケージを手に取った。
箱の中から一本を取り出し、端を少しだけ手でつまむ。
指先に伝わってくるのは、ぼそぼそとした乾いた質感。
軽く砕けば、粉になって崩れてしまいそうな手触りだった。
「乾パン……に近いか?」
ぽつりと呟きながら、つまんだかけらをそっと舌先に乗せる。
──しばらく、じっと待つ。
しびれや苦味、何か異常な変化が舌に起きないか確認するためだ。
数秒、何事もなく時が過ぎる。異常なし。
ゆっくりと喉に落とし込むと、口内に広がったのは淡白な、小麦系の素朴な味だった。
「……まあ、食べられないことはないな。うまくは、ないけど」
味としてはほとんど塩気も甘みもなく、まるで戦時中の保存食のよう。
砂糖の含有量もごくわずかに感じる。
そんなことを考えているうちに、台所の方からコポコポと音が聞こえた。
鍋の水が沸き始めている。
火を止めて、やかんのように鍋の端からコップへと湯を注ぎ、少し冷ましてから同じく舌先に触れてみる。
温度はまだ高かったが、味や匂いにおかしな点は見られない。
これも大丈夫そうだ。
「これも問題なさそうだな。……まあ、煮沸してるし」
コップを傾けて数口飲む。ぬるくはあるが、クセもなくすんなりと体に入っていく。
ごく自然な“水”だ。
ふと、気づいたことがある。
鍋に水を注ぐ際、自分の感覚では少量しか注いでいないはずなのに、革袋の中身が思ったより減っていたのだ。
首をかしげながら、水袋を再び手に取る。
「……『使用回数5回』って、まさか……?」
試しに、袋を真下に向けて別の鍋に水を注いでみる。
とくとくと流れ出たかと思うと、一定のところで水が止まり、それ以上は逆さにしていても出てこない。
元の角度に戻してから再度逆さにしてみると──
今度もまた、先ほどと同じ程度の量だけが注がれた。
「……なるほど。一定量で一回扱いってことか。途中で止めたら損ってわけか」
つまり、使用回数制というのは、あくまで“注ぎ出した回数”であり、“使った量”とは無関係。
たとえスプーン一杯しか使わなかったとしても、それは“一回”としてカウントされるのだ。
「ふむ……これは、ちょっと注意が必要だな」
そうつぶやくが、本命はこの後である。
「さて……前菜はここまでだ」
お次は……メインディッシュといこうか」
指先で軽やかに画面をなぞりながら、タッチするのは二つの項目。
──【回復薬(最下級)】
──【状態異常回復薬(最下級)】
ポン、という音と共に、空間からふたつの瓶が出現した。
まるで映画のような現象にも、そろそろ驚かなくなってきた自分に、苦笑いをひとつ。
「ふむ……青が回復薬で、赤が状態異常……なるほど」
瓶はどちらもシンプルな意匠で、装飾らしいものはない。
どこか試験管を思わせるガラスの小瓶に、コルクの蓋がぴたりと収まっている。
サイズは手のひらにすっぽり収まる程度──少し高めの栄養ドリンクといったところか。
「……見た目は大したことなさそうだけど、口にするのは、ちょっと勇気がいるな」
さっきの水や携帯食とはわけが違う。
得体の知れない液体、それも“薬”ときている。
使い方はおそらく飲用だろうが、その効果がどこまで信じられるのかは、未知数だ。
「まあ……確かめんことには始まらんしな」
ひとつ息をついて、道具箱からドライバーセットを取り出す。
その中にあったキリを選び、ガスコンロの火でじっくりと先端を炙った。
金属が朱に染まり、ジジッと音を立てる。
「包丁でやるのは怖すぎるしな……」
ぶつぶつと独り言をつぶやきながら、左手の人差し指の腹をテーブルに置く。
おそるおそる、熱したキリの先端を指に近づける。
「……いくぞ」
チクリ。
鋭い痛みが一瞬走り、同時に小さな血の珠が皮膚の表面に浮かぶ。
わずかに圧を加えると、じんわりと赤がにじみ出た。
ごく浅く、けれど確かに『傷』になっている。
「さて……」
右手だけで器用に青い回復薬の瓶を開ける。
コルクを引き抜くと、かすかにハーブのような香りが鼻先をかすめた。
「……行くか」
覚悟を決め、一気に中身を口に流し込む。
舌に広がったのは、どこかミントに似たすっきりとした味わいと、かすかな苦み。
体内を液体が通り抜けていくと同時に、不思議な感覚が指先を包む。
「……ん?」
じわ……と、指の痛みが薄れていく。
ティッシュで血を拭いながら見てみると──
「……おお。塞がってる」
血は止まり、傷はまるで最初からなかったかのように滑らかな肌に戻っていた。
驚きと共に、つい口元が緩む。
「すごいな……こんな即効性とは」
小さな傷とはいえ、まるで魔法でも使ったかのような回復だった。
「……でもまあ、こんな程度の傷じゃ限界はわからんな」
本音を言えば、もう少し大きな怪我で検証したいところだが、
さすがに自傷行為を続ける勇気はない。
もし効果がなかったときのリスクを考えれば、尚更だ。
「とりあえず、1、2本ストックしておいて……誰かに使う機会があれば、ってところか。飲んでくれるかは別として」
苦笑いしながら、赤い瓶──状態異常回復薬の方を見つめる。
こちらはさらに用途が不明瞭で、今試す手段も思いつかない。
せいぜい風邪を引いたときに試してみるくらいだろうか。
そう思いながらふと手を見る。
回復薬の瓶が、一瞬きらりと光を放って消えたかと思うと、
すぐさまパネルの隅に通知が表示された。
──【アイテム回収:+1P】
「おお……回収された」
目を見開いて、思わず声に出る。
交換に10ポイントかかった薬瓶が、たった1ポイントとはいえ返ってくる。
単なるご褒美か、それとも回収システムの一環か。
「ってことは……回収率10分の1?」
そうだとすれば、今後の運用次第でけっこうな差が出る。
が、現段階ではまだ仮説にすぎない。
証拠が少なすぎるのだ。
「ま、嬉しい誤算ってやつだな。とりあえず棚上げしとくか」
気を取り直して立ち上がる。
気持ちもどこか軽やかだった。
「よし! じゃあ今確認できることは全部やったし、あとはしばらく……ゴミ拾いに戻るか!」
伸びをひとつして、玄関に向かう。
ジャンパーを羽織り、トングとゴミ袋を手にしたその姿は、まさに近所の清掃ボランティアのようだった。
そして、季節は巡る──
* * *
半年後
初冬の風が冷たく頬を撫でる。
井の頭公園の一角に立つ俺は、人混みの向こうに開いた“それ”を見下ろしていた。
「ここが……話題の“迷宮”ってやつか」
木々のざわめきがかき消されるほどの喧騒。
TV局の中継車、屋台のように並ぶ飲食ブース、探索者風の若者たち──
異様で、だがどこか“日常”に馴染み始めたような景色が広がっていた。
迷宮の周囲には、柵と簡易バリケード。
警察と警備会社の人間が巡回してはいるが、夏ごろに比べれば明らかに警備は手薄になっている。
(あの頃の物々しさが、嘘みたいだ)
変わったのは、警備だけじゃない。
俺の世界も、いや、世界そのものが変わってしまった。
* * *
すべての始まりは、「パネル」を使い始めてからちょうど3ヶ月が過ぎたころ。
それは、世界中で突如として観測された──“異常”。
ある場所では、人工的な構造を持つ洞窟が地中から顔を出し、
ある山奥では、誰も知らなかった神殿の扉が現れ、
また別の都市の地下には、長い螺旋階段がぽっかりと口を開けていた。
最初は誰もがそれを信じなかった。
ネットで拡散された映像も、“フェイクだ”“編集だ”と片付けられていた。
だが、それはすぐに変わる。
「宝箱」が、現れたからだ。
あの出来事は、誰もが知る決定的な転機だった。
アメリカの著名な探検家が、自宅近くの小高い丘に現れた“穴”に入り、
内部で“古びた木箱”を発見する。
中に入っていたのは──《枯れることなき壺》。
「これは、止まらない水を生み出す壺だ」
そう言って彼は、旧知のTV局にそれを持ち込む。
そして、生放送中に壺を傾けた。
細い壺の口から、水が一筋、静かに流れ落ちる。
最初は誰もが、ただの演出だと思っていた。
だが、10分経っても、20分経っても、1時間が過ぎても──水は止まらなかった。
TV局が用意したバスタブがいっぱいになり、続いてバケツやタライが並べられる。
だが、どれだけ容器を取り替えても、壺の中の水は尽きることはなかった。
騒然とする現場。
SNSは爆発的に炎上し、翌日には“壺”が世界的に報道された。
高名な科学者たちが現場に足を運び、壺の構造、水の成分、質量の変化、あらゆる観点から検証が行われた。
そして出された結論は、たった一つ。
「これは、理屈では説明できない“本物”だ」
人々はその日、否応なく信じたのだ。
目の前に、現実離れした“異世界”が存在することを。
この頃から、世界中に現れた謎の構造物は、誰からともなくこう呼ばれるようになった。
──《迷宮》と。
* * *
────現在の状態────
【合計ポイント : 21,249P】
【種族 :人間 】
【レベル:28 】
【経験点:154,000 】
【体力 :197 】
【魔力 :52 】
【筋力 :121 】
【精神力:182 】
【回避力:213 】
【運 :15 】