第82話 再動
「っ……!?」
視線がぶつかった。
苦しげに見開かれたジョンの瞳。その奥で、炎の残光が揺れていた。
何か言おうと口を開いたが、言葉になる前に、ジョンの体が膝から崩れ落ちる。
その胸から――赤い線が引かれていた。
血の筋が空気を裂くように飛び散り、その向こうから“試練”が、まるでカーテンの影から現れるように顔を覗かせた。
六本の腕の一本が軽く振るわれる。ピッ、と乾いた音を立てて血の雫が散り、
その一粒が俺の頬に、ぴたりと触れた。
熱い。
指で拭うことすらできない。
喉の奥でゴクリと唾を飲み込む音が、やけに大きく響く。
視線を外せない。
“試練”の眼が俺を見据えている。表情はない。だが確かに、獲物を見る目だった。
額を伝った汗が、目に入る。視界が滲む。
瞬きした瞬間――奴の姿が、消えた。
「ッ――!」
左だ。圧倒的な気配。
意識よりも先に体が動いた。
反射でナイフを構え、刃の腹で防御を取る。
ギャリィィンッ!!
金属が軋みを上げ、衝撃が骨を軋ませる。
息が詰まり、腕がしびれる。だが奇跡的に、刃は割れなかった。
たった一瞬の静止――
次の瞬間、俺の体は吹き飛ばされていた。
「ぐっ――!」
耳を切り裂く風音。
空も地も分からない。景色がぐるぐると回り、三半規管が悲鳴を上げる。
体が宙で回転しながら、四肢がちぎれまいと必死に軌跡を追いかける。
“止まれ”と思った瞬間、視界が真っ白になった。
背中に岩の感触――鈍い衝撃音。肺の空気が全部抜ける。
そのままズズッと岩肌にめり込み、体が動かない。
視界が揺らめく中、目の前に迫る影。
拳。
間に合わない。そう思った時にはもう遅かった。
――ぐしゃ。
世界が、音もなく途切れた。
腕が、糸の切れた人形のようにだらりと垂れ、
意識が、深い闇の底へと沈んでいった。
* * *
“試練”が、振りぬかれた拳を岩から引き抜いた。
ガコッ、と鈍く乾いた音。拳の先には、どろりとした赤が糸を引いていた。
熱を帯びた粘性の液体が、指の隙間から滴り落ちる。
目の前に転がる男は、岩に半ばめり込み、四肢をだらりと投げ出したまま微動だにしない。
その手から、黒い短刀が転がり落ちる。
カラン――と乾いた音が、異様な静けさの中に響いた。
“試練”は、感情の欠片もない無機質な動作で、すっと立ち上がる。
その瞳に映るのは、もはや“敵”としての認識ではない。動く肉の塊。ただそれだけだった。
次に視線を向けたのは、先ほど胸を貫いたもう一人――ジョン。
彼は膝をつき、血を吐きながらも、なお“試練”を睨み上げていた。
呼吸は荒く、今にも途切れそう。それでもその目だけは、まだ死を受け入れていなかった。
“試練”は静かに歩み寄る。
とどめを刺すためか、それとも単に目障りだからか。
その区別に意味はない。ただ、仕事を終えるだけの機械的な一歩。
足音が、砂と血を踏んで鈍く響く。
ごほ、とジョンが血の塊を吐き出す。胸元に光が淡く揺らめいた。
何かのスキルか、あるいは命を繋ぐ微かな抵抗か――だが、“試練”は気にも留めない。
無意味だ。そう判断していた。
あと数歩。
手を伸ばせば届く距離。
その瞬間――
ジョンの目が、何かに怯えたように見開かれた。
“試練”を見ていた瞳が、ふいにその背後を捉える。
ぎょっとしたように息を呑み、震える唇が何かを言おうとした。
“試練”はわずかに首を傾け、後ろを振り向く。
――そこに。
さっきまで地に沈み、完全に沈黙していたはずの男が立っていた。
影のように揺らめき、骨が軋むような音を立てながら、ゆらりと上体を起こす。
焦点の合わぬ目がこちらを向く。
まるで幽鬼が夜の底から這い上がったように。
風が止まった。
血と砂の匂いが、焼けた空気の中で濃く溶けていた。
* * *
――音が、遠くで鳴っている。
水の底から響いてくるような、鈍い衝撃音。
世界の端で何かが砕ける音を聞きながら、俺は、そこに沈んでいた。
真っ暗だ。
重たい、粘りつくような闇の中。
それでも、確かに分かる――俺は“もう死んだ”のだと。
体の輪郭も、息の音も、もうどこにもない。
思考だけが、ゆっくりと沈み込んでいく。
……終わりか。
そう思った瞬間、何かが、俺の胸の奥を掴んだ。
眩い閃光。
それは、冷たい闇の奥から差し込むように、強引に俺を引き上げる。
心臓のあたりで、何かが“再起動”する音がした。
――ドクン。
鈍い鼓動が一発。
次いで、二発、三発。
波紋のように全身に熱が広がる。焼けるような熱だ。
目が開いた。
世界が、赤かった。
いや、俺の視界が血に染まっていた。
鉄の匂いが鼻を突き、喉の奥に金属の味が張り付く。
頭がガンガンと痛む。
だが、妙に――いや、異常なほどに、意識は冴えていた。
まるで余計な雑音がすべて消えたように、世界が静まり返っている。
鼓動と呼吸、空気の揺れ。目の前に立つ“試練”の呼吸音すら聞き取れる気がした。
ジョンの表情が、視界の端に入る。
血まみれの顔が驚愕に歪み、唇が震えていた。
“試練”もまた、こちらを見て動きを止めている。
……生きている。
俺は、生き返っている。
自分でも理解が追いつかない。
あれだけの拳を受けて、意識も途絶えて、それなのに――
不意に、空間にノイズが走った。
青白い光の粒が散り、目の前に半透明のウィンドウが開く。
淡々と、文字が流れた。
《管理人権限によるスキルが発動》
《死亡時、一度だけ復活》
《対象の資質に応じてステータスが上昇》
《制約として、以後管理人の使徒として任意の指示を受ける義務が発生する》
「……は?」
思わず声が漏れた。
管理人――あの時の、あの“男”か。
口の端が引きつる。まさか、あのやり取りがこんな形で生きてくるとは。
“使徒”ってのは、どういう意味だ。俺をコマとして使うってことか?
だが、今はどうでもいい。
この状況じゃ、文句を言う相手もいないし、恩を仇で返す余裕もない。
――それより、今は目の前の奴だ。
ゆっくりと立ち上がる。
骨が軋む音がするが、不思議と痛みはない。
むしろ、体の奥に熱がみなぎっている。
血の味と熱気を噛みしめながら、ナイフを拾い上げる。
刃の重みが手の中でしっくりくる。握った瞬間、指先に電流のような感覚が走った。
――ステータス上昇。
その文面を思い出す。どれほど上がったのかは分からないが、確かに“違う”。
空気の抵抗が軽く、筋肉の反応が速い。
“試練”から感じていた圧力も、さっきよりずっと薄い。
こいつを倒せる――そう確信できるほどに。
喉の奥で笑いが漏れた。
呆気に取られているジョンと、“試練”の無表情な顔が、ひどく滑稽に見えた。
「……今度は、こっちの番だ」
ぐっと、地面を踏みしめる。
砂が爆ぜ、風が巻き起こる。
次の瞬間、俺は一歩――確かな一歩を、前へと踏み出していた。




