第8話 不穏な空気と検証開始、迷宮を添えて
それは、何の変哲もない、静かな朝のことであった。
東京都・三鷹市──
まだ朝露の残る井の頭恩賜公園の木陰で、小さな異変が生まれつつあった。
鳥たちが囀り、遠くでジョギングをする足音が響く。
穏やかで、どこにでもある平和な風景の中で、それはひっそりと始まったのだ。
* * *
そのころ、ひとりの男がレベルアップという未知の体験を果たしていた。
拾い集めたゴミが、膨大なポイントへと姿を変え──
そのポイントが、彼の肉体と精神を強化する“力”へと姿を変えた瞬間だった。
そして──
そのさざ波のような変化は、なぜか世界のあらゆる場所に、わずかながらも波紋を広げていた。
深い森の奥。
苔むした大樹の根元に、風もないのに落ち葉が舞い上がり、
誰もいないはずの森の中に、奇妙な低い唸りが響く。
切り立った雪山の頂。
長年眠っていた氷の裂け目から、ぬるりと何かが這い出ようとしていた。
海底の闇。
光も届かぬ深海に、いつからか存在していた“門”のようなものが、
ゆっくりと、音もなく軋んでいた。
そして街のど真ん中、東京。
駅のホームにある広告ディスプレイが、一瞬ノイズを走らせる。
それを目にした誰もが「気のせい」と済ませたが──そこには明確な“異変”が、確かに存在していた。
* * *
井の頭公園の一角。
まだ太陽が斜めに射し込む、木漏れ日の美しい場所だった。
だが、その片隅。
落ち葉が積もる地面の一角に、違和感がぽつんと存在していた。
小さな、小さな、“黒点”。
黒インクを一滴、白い紙に落としたかのような、直径わずか数ミリの、異様な“穴”。
その穴のすぐそばを、一匹のアリが通りかかった。
アリは一瞬、立ち止まったように見えた。
まるで何かに惹かれるかのように、ゆっくりとその“黒点”に近づいていく。
そして──ふっと。
何の抵抗もなく、その小さな身体は吸い込まれるように穴の中へと消えた。
音もなく。振動もなく。空気すらも揺らさずに。
誰も、その出来事に気づかない。
公園の利用者も、散歩中の老人も、木陰で談笑するカップルも。
誰一人、その“始まり”を認識してはいなかった。
だが、確かに“それ”は存在している。
世界の裏側に、そっと忍び寄る影。
静かに、しかし確実に、“新たな何か”が目を覚まそうとしていた。
──始まりは、あまりに小さく、あまりに静かだった。
* * *
ぐぐぐ、と背中を反らすように大きく伸びをひとつ。
ジャージの生地がきゅっと張り、身体の芯まで目を覚ました気がした。
身にまとうのは動きやすい薄手のジャージ上下。
Tシャツの下にうっすら汗がにじんでいたが、それすらも身体が“使いたがっている”ような感覚に思えた。
玄関を出てすぐの道の脇。
平日昼前という時間帯のせいか、通りには人の気配が少なく、街路樹の葉擦れと、遠くを走る車の音だけが耳に届く。
手を腰に当てて、ぽつんと立ったまま空を見上げる。
雲の合間から差し込む日差しが、まるで何かを祝福するかのようにまぶしく感じられた。
(さて……どこがいいか)
ひとり呟き、目を細めて思考を巡らせる。
レベルアップという、信じがたい現象を体験したばかりの身。
パネルに表示された数値がどれほどの意味を持つのか、確かめずにはいられなかった。
頭の中に、いくつかの場所が浮かんでは消えていく。
近場で言えば、井の頭公園。広く、木陰も多くて動きやすい。
……だが。
(あそこは人目が多すぎるな。平日とはいえ、散歩してる人もいるし、子ども連れや観光客も多い)
見られたくない。
いや、見せられるようなことでもない。
“自分が変わった”という事実は、まだ自分の中だけに留めておきたかった。
この力が何なのか。何ができて、何ができないのか──それすらわかっていないのだから。
ふと、思い出す。
住宅街を抜けた先、仙川方面にあった小さな公園。
地元の人間しか通らないような路地をくねくねと入った奥、ぽつんと存在する空間。
(……あそこなら、人もほとんど来ない。平日の昼間なら、貸し切りみたいなもんだろ)
自分でも、自然と頷いていた。
選択肢は決まった。
「よし、行くか」
* * *
想像通りだった。
目当ての公園には、人っ子ひとりいなかった。
周囲には背の高い木々が立ち並び、昼間だというのに薄暗い。
枝葉の隙間から差す日差しが、まだら模様の影を地面に落としていた。
人が寄り付かない理由は明白だった。
この陰鬱な雰囲気と、うっすらと苔の匂いが漂う静けさ。
けれど今の自分には、これ以上ないほど都合が良い。
「……よし、まずは、何から確認しようか」
ひとりごちて、公園のベンチに腰を下ろす。
風が少し吹き、葉擦れの音が耳に心地よい。
深呼吸とともに、ポケットからチェッカーを取り出すと、
白面にいつもの文字列が並ぶ。
【種族 :人間 】
【レベル:9 】
【経験点:1,000 】
【体力 :78 】
【魔力 :16 】
【筋力 :39 】
【精神力:66 】
【回避力:56 】
【運 :7 】
「……ほんとに、ステータスが上がってるんだよな、これ」
ベンチの背に寄りかかりながら、浮かび上がるステータスを眺める。
パネルの文字は明らかに、常人離れした数値を示していた。
体力、筋力、回避力、どれも二桁を大きく超えている。
だが、不思議と“異常な感覚”はなかった。
ここへ来るまでの道すがら、軽くジョギングを試してみた。
学生の頃、運動部で鍛えていた頃の体の記憶はまだ薄れていない。
だが、今日の走りは、あの頃とは違っていた。
息が上がらない。
足がもつれない。
むしろ、全身が軽い。
「……気のせいじゃないな。明らかに、体が反応してる」
肩を回す。
伸ばした腕の先まで、柔らかく力が満ちていく感覚。
体の芯が活性化しているような、不思議な“内側からのエネルギー”を感じていた。
「……『魔力』の確認は、まだよくわからん。なら、まずは目に見えるとこから試すか」
そう呟いて、あたりを見渡す。
目を向けたのは、遊歩道から少し外れた、草むらの中。
地面が抉れたような場所に、いくつもの石が転がっていた。
大小さまざまで、苔が這い、土に半ば埋もれているものもある。
(……あんなもん、放置してるから子ども連れが寄りつかないんだろうな、この公園)
苦笑しながら、立ち上がり、草むらに足を踏み入れる。
ズボンの裾が濡れた草に擦れて、じんわりと冷たさが伝わってきた。
目の前には、小包ほどの大きさの石。
苔まみれの表面を片手で払い、姿勢を低くして両手で掴む。
「……よし」
ぐっ、と力を込めて持ち上げた。
石は思ったよりも素直に持ち上がった。
が、それでも“劇的”というほどの変化は感じない。
(……んー、確かに軽くはなってる。でも……)
ステータスの数値は、以前の十倍近くにまで跳ね上がっていた。
その割にこの反応。
思わず眉をひそめ、別の石へ視線を移す。
それはひときわ大きかった。
かつて神社で見かけた“力石”──見た目はあれと酷似していた。
あのとき、石には『300キロ』という説明が書かれていたっけ。
(あの時は、友達とふざけて少しだけ浮かせるのが精一杯だったな)
懐かしさが混じる記憶を振り払って、呼吸を整える。
深く息を吸い、吐いて、石の前にしゃがみ込む。
「さて、どうなるか」
そう呟くと同時に、全身に力を込めた。
腕、肩、背中、脚。すべてを連動させて、石を抱えるようにして持ち上げる。
ぐぐ、と重みが体にのしかかる。
歯を食いしばり、膝を伸ばす。
──持ち上がった。
「っ……!」
重い。
だが、浮いた。確かに今、自分の腕の中にある。
(くっ、きつ……!)
呼吸が乱れ、汗がにじむ。
なんとか数秒、耐える。
だが、限界はすぐに来た。
「うおっ!」
どすん。
地面に落ちた石が鈍い音を響かせた。
同時に足元の土埃がふわりと舞い、鼻に入り込む。
「っはー! っはー……!」
膝に手をつき、肩で息をする。
張り詰めていた筋肉が、一斉に悲鳴を上げたような気がした。
(たしかに……力は上がってる。けど、数値ほどじゃない。少なくとも、10倍とは言えないな)
「……さて、次は懸垂でもやってみるか」
呟きながら鉄棒に手をかけ、体を引き上げる。
一回、二回……五回、十回。
普段なら途中で腕が悲鳴を上げそうなところを、余裕とまではいかないが、粘り強く持ち上げ続ける。
(やっぱり、軽くなってる。これは間違いなく……)
次に、グラウンドを利用して短距離のダッシュを何本か試してみた。
スタートダッシュの瞬発力、足の回転、地面を蹴る力──
どれも明らかに以前より鋭くなっている。
汗が額からつーっと流れるのをそのままに、しばらく呼吸を整えてから、ベンチに腰を下ろした。
「ふう……まぁ、体感で言えば、1.5倍から2倍ってところか……」
呟いた声は、自分の中でも納得しきれていない響きがあった。
確かに、一般人としては破格の強化だ。
だが、ステータスの数値上は十倍近く跳ね上がっていたはずだ。
それを思えば、やはりギャップがある。
(これなら、せいぜい一流のスポーツ選手未満……って感じか。
パワーがもっと上がっていれば、ゴミの回収にも使えたんだが)
期待していたような「廃車を軽々持ち上げる」といった超人的なパワーではなかった。
ただ──
「……数値がそのまま身体能力に反映されてるわけじゃない、ってことだな」
ベンチにもたれかかるように座りながら、ぼそりと呟く。
(ステータスの『意味』がいまいち掴めん。筋力59って、どれくらいなのか。精神力91って、なにに影響するんだか……)
空を見上げると、木々の間から差し込む陽が葉に揺れていた。
ふと、風が吹き抜け、汗ばんだ肌に心地よい涼をもたらしてくれる。
(まぁ、今すぐすべて理解する必要はないか)
レベル9。
それがこの世界でどれほどの意味を持つのか、まだわからない。
けれど、次のレベルアップではもう少し明確に違いが出るかもしれない。
「そのとき、また試そう。今は……帰って、シャワー浴びるか」
そう言って、ゆっくりと立ち上がった。
昼下がりの光の中、公園を後にして、自宅への道をゆるやかに歩き出す。
家路につきながら目についたゴミを回収しつつ、
次の検証に向けて思考を巡らせていた。
* * *
その日、世界の片隅にぽつんと投稿された一本の動画が、静かにネットの海に浮かんだ。
画面は揺れている。
荒いピントの向こう、木々がうっそうと生い茂る──おそらく海外の深い森の中だ。
「Oh my God. is that.? (嘘……なにあれ……?)」
震える英語混じりの声。
かぶせるように、もう一つ、男の沈んだ声が響く。
「Wait, wait. Don’t get too close. Just— just keep filming.
(落ち着け。……あまり近づくな。そのまま、撮影を続けてくれ)」
カメラはズームされ、土の地面へとじわじわと焦点が合っていく。
そこにあるのは、まるで黒い墨を一滴落としたような“点”。
小指の先ほどの大きさしかない黒い穴が、ぽっかりと空いていた。
周囲の枯葉や小石が、その穴の中へと吸い込まれていく。
それは空気の流れなどという生やさしいものではない。
まるで世界の端が、そこから飲み込まれているかのような──
異様で、冷たい静けさを伴った吸引。
「Are you seeing this.? It’s. it’s growing.
(な、なあ……見てるか? ……あれ、でかくなってるぞ……)」
「Oh my god, it’s. alive?
(うそでしょ……生きてるの……?)」
男の手が、カメラの端にちらりと映る。
穴のそばにしゃがみこみ、そっと手を伸ばそうとしたその時。
──カサッ。
草むらから、小さなリスが飛び出してきた。
枝をくぐり抜けた拍子に足を滑らせ、そのまま黒い穴に片足を踏み外す。
「No, no, no—!
(ダメダメダメ!)」
リスが慌てて跳ね、逃れようとする。
男も反射的に手を伸ばした、その瞬間だった。
ぎゅぅぃぃん……。
地面が、唸ったように見えた。
穴が音もなく、すうっと拡張する。
リスの小さな体が、重力ごと吸い込まれるように引きずり込まれ──一瞬で、消えた。
「Holy shit!!
(くそ!!)」
男が叫ぶ。
カメラがぶれ、草むらが視界いっぱいに広がる。
再び映った地面には、手のひら大ほどの黒い穴がぽっかりと空き、何かを飲み込んだ余韻のように、空気がぴりついていた。
「No way…… That thing…… it’s not real…… it can’t be……
(あれは……なんなんだ……あんなの、現実じゃ……)」
男の声がかすれる。
遠くで女のすすり泣く声が混じる。
映像はそのまま途切れ、フェードアウトするように終了した。
のちに「フェイクだ」として片付けられたこの動画は、
それでも、人類が“迷宮”という存在を最初に“観測”した瞬間として──
時を経て、確かに歴史に刻まれることとなる。
まだ誰も、それが現実のものになるとは信じていなかった。
この世界のルールが静かに、確実に、塗り替えられていたというのに。
* * *
────現在の状態────
【合計ポイント : 83P】
【種族 :人間 】
【レベル:9 】
【経験点:1,000 】
【体力 :78 】
【魔力 :16 】
【筋力 :39 】
【精神力:66 】
【回避力:56 】
【運 :7 】