第70話 言わされていた会話
「で、これでよかったんですか? マシューさん」
受話器をそっと置きながら、胸の奥にわだかまる後味の悪さを、深呼吸でなんとかごまかす。
俺のすぐ横にはメイリンが立ち、まるで周囲を威嚇する猫のように全身に怒気を張りめぐらせていた。肩が微かに震えているのが見て取れる。
「ははは、いやーすまないね、ミスターイトウ。こちらの都合に巻き込んでしまって」
にこやかに笑いながら話しかけてくるその男は、金髪の短髪を撫でつけるように撫で、彫刻のような筋肉に包まれた長身を余すところなく見せつけてくる。少なくとも、頭一つ以上は俺より高い。
青く透き通るような瞳には、あたたかな笑みの下に冷ややかな理性が潜んでいるのが見える。こちらの動き一つ一つを、観察動物でも見るような目で捉えていた。
……油断ならない男だ。
電話を掛けようとした時だった。急に数人の男女が駆け寄ってきて、そのまま腕を押さえられ、囲まれた。周囲の視線が集まる中、抵抗はせずに従うしかなかった。相手は、オーストラリア連邦警察を名乗っていたが、彼──マシューという男──は国防陸軍を名乗っていたが、果たしてどこまでが本当なのやら。
「まさか、君ほどの実力者が急に我が国に現れるとは思ってもいなくてね。これはもう、非常事態かとすっ飛んできたというわけだよ」
軽口のような口調で、当たり前のように『まるで俺たちの実力や位置を把握している』ことを前提に話を進めてくるあたり、こちらの情報は筒抜けらしい。日本語で喋っているのは、こちらに配慮してとのことだが、それ以上に「メイリンではなく、俺」を主な対象として話しているのが分かる。
どこかの情報収集スキルか、アーティファクトか。それとも、固有スキル持ちか……。
「君たちには悪いと思っているがね、"戦闘力を保持した人間の不法入国"なんだよ。色々と理由をつけて勾留することもできる。そちらとしても事を荒立てたくはないだろう? それに、君を迎えに来るという名目で、そちらの国の人間がこの迷宮に首を突っ込んでくるのも困る。未発見の迷宮で、かつ他国から繋がる可能性のある迷宮……となれば、なおさらね」
飄々とした態度ながら、その言葉のひとつひとつが針のように刺さる。
それにしても、なぜ、俺がここにいると知っていた?
どうやって、脱出後すぐの公衆電話にたどり着けた?
俺たち自身でさえ、ここに出てくるまでどこの迷宮にいるのか分からなかったのに。
まさか、俺を七所で飛ばしたヤツの関係者か? 情報が少なすぎて分からないことだらけだ。
「だからね、こういうのはどうだろう。君は“あくまで個人の判断で”ここに残り、ちょーっとだけ僕たちに協力する。それでいて、君は罪にも問われず、“保護された一般人”として日本に帰れる──どうかな?」
言葉に棘はない。脅しでも圧力でもないのに、ここまで選択肢を奪ってくる。
そして、マシューは初めてメイリンへと視線を向けた。
「君の方は……まあ、僕たちに拘束されて強制送還される道もあるけどね。君のお家も色々とあるし、僕としては“なにも知らなかったことにして”、すんなり帰ってもらえる方が助かる。商売のことにも、目をつぶるよ。多少はね」
ギリッ、と奥歯を食いしばる音がメイリンから聞こえた。
そのままでも飛びかかりそうな気配だ。
俺は、そっと手で彼女の肩に触れ、押しとどめる。
「でも、どうして電話なんか、させたんです?」
ぽつりと疑問を口にした。視線は目の前の男、マシューへと向けたままだ。
あえて言わせてもらえば、彼らが本気で俺たちを拘束したいのなら、わざわざ日本に連絡させる必要なんてなかった。どこかの機密施設にでも連れていって、何もかも秘密裏に済ませるほうが都合がいいはずだ。
「そのまま、何も伝えさせずに……しれっと連れて行けば良かったんじゃないですか?」
マシューは肩をすくめて、口元に皮肉気な笑みを浮かべた。
「はは、そう思うのも無理はない。でもね、迷宮から出てしまえば、GPSやら何やら、普通に機能する。もし日本側が君の位置をリアルタイムで追ってたとしたら、連絡も何もせずに消息が途絶えるのは不自然だろ?」
そう言って、彼は人差し指を振ってみせる。
「それにね、君が“勝手に迷宮に潜っていた”っていう“わがまま”の体にしておけば、僕たちに協力してもらう口実もできる。“たまたま迷宮で遭難していた民間人を保護しました”って扱いにしてね。怒られるのは、君だけだ」
……なるほど。そりゃまぁ、筋は通っている。
けれど、それがすべてじゃない。
「……俺が、あなたたちに脅されたって言ったら?」
少しだけ声を潜め、言葉を投げてみる。半ば脅し返しだ。
マシューは、首をかしげながらも顔色一つ変えずに答えた。
「うん、まぁ、そう言うだろうとは思ってた。でもね、たとえそれをとっかかりにして我々を追及しようとしても──大したことはできないよ」
ふっと笑って、彼は視線を空へと泳がせる。
「具体的な証拠がない。それに、街の監視カメラだって無駄だよ? こっちで全部抑えてあるからね」
あくまで軽やかに、まるで日常茶飯事のように言い放つ。
けれどその裏には、強大な“力”の存在が見え隠れしていた。
(……この男、どこまでが本当なんだ?)
軍関係者だと名乗ってはいるが、少なくともただの一兵卒ではありえない。
影響力も手際も、場慣れした態度も、どれも尋常じゃない。
──そのときだった。
《……イトウさん、聞こえる?》
耳の奥というより、頭の中に直接届くような声。
メイリンのものだった。
(お、これ……)
思わず表情が変わりそうになるのを、ぐっとこらえた。
これは、あの迷宮で長老にもらった通信機だ。皮膚に溶け込むように馴染み、外からはほとんど確認できない。今のところ、目の前の連中にはバレていないはずだ。
《ああ、聞こえる。なんだか、面倒ごとに巻き込まれちゃったねぇ》
心の中で呟くように返事を送る。発声していないから、会話は完全に秘匿されている。
《私の方も、顔バレしてるし……“家”のことまで掴まれてる。相当厄介な相手よ》
メイリンの声に、静かな怒りと焦りがにじんでいる。
“家”ってのは、あれか。中国の……いや、よく知らんけど、たぶん偉いところだ。
《一旦、メイリンは戻ったほうがよさそうだ。向こうも、今のところは帰してくれるって言ってる》
《……でも! ……ううん、私がいても足手まといになるだけかも……。戻って、情報を集めてみる。こいつら、まともじゃない》
その声には、迷いと決意の両方があった。
《ありがとな。でも、あの通信機……本当に、中国からオーストラリアまで届くのかな》
《長が“距離制限はない”って言ってたでしょ。信じるしかないわ》
……まあ、そうだな。
「で、どうかな? 二人とも」
マシューが再び話しかけてきた。俺たちが黙っていたのを、単に“考えていた”と受け取ったらしい。
「……強制送還なんて、ごめんよ。こっちで勝手に帰らせてもらうわ」
先に口を開いたのはメイリンだった。あからさまな不快感を滲ませながら、ぴしゃりと拒絶の意思を突きつける。
「結構。だが、妙なことはしないでくれ。こちらも監視はつけさせてもらう。手出しはしないが、ね」
マシューがそう答えると、メイリンはふんっと鼻を鳴らし、ツンと横を向いた。
次は、俺の番だ。
「……俺は、まぁやりますよ。“お手伝い”。しないとロクな目に遭わなさそうですし」
皮肉を込めて言ったつもりだったが、マシューは満面の笑みで応じた。
「そうかい?! いやぁ、助かる。“善意の協力”ありがとう!」
そう言うや否や、がっしりとした手で俺の右手を掴み、勝手に握手までしてきやがった。
(……ほんと、ろくな目に遭いそうもない)
思わず、心の中で嘆息を吐いた。
 




