第69話 電話
バスの車窓越しに、ゆっくりと風景が流れていく。
深く濃い緑のトンネルを抜けるようにして、バスは森の中を縫うように進んだ。
舗装の甘い山道がしばらく続いた後、開けた場所に出る。そこから先は、まるで絵本にでも出てきそうな、のどかな町並みが広がっていた。
三階建てが精々といった可愛らしい建物が並び、その合間には白く塗られた木造の家がぽつぽつと点在している。
ビル群に囲まれていた東京の喧騒とは正反対の世界だ。
「……いいところだな。時間があれば、のんびりしてみたいくらいだ」
ぽつりと呟きながら、終点の駅前でバスを降りた。
深呼吸をすれば、森の香りと潮の気配が混ざり合った空気が肺に染み込んでくる。
バスの背後、道の向こうには真っ白な駅舎が見えた。
清掃が行き届いているのか、あるいは素材の白さなのか、南半球の強い日差しを反射して、建物全体が淡く輝いているようだった。
駅舎の背後には海。どこまでも広がる水平線が、キラキラと陽光を跳ね返している。
遠くには青みがかった山々も見える。自然に囲まれた静かな港町。ここがオールバニーという場所らしい。
人通りは少なく、数人の地元住民らしき人たちが、のんびりと歩道を歩いていた。
「あ、イトウさん、公衆電話、あったよ」
メイリンが指差した先を見ると、歩道橋の陰になったところにぽつんと、公衆電話ボックスが佇んでいた。
半透明のアクリル板が陽に透けて、どこか寂しげなその姿は、まるで時代に取り残された最後の見張りのようだ。
「おお……まだ現役だったんだな、こういうの」
思わず漏れた声に、メイリンが首を振った。
「ストーップ、イトウさん」
彼女は慌てて俺の腕を引いた。
「なに?」
「たぶんあれ、クレジットカード使えないタイプ。豪ドルしか使えないから両替しないと」
「……両替ったって、どこで? 空港なんかでは両替もできるかもだけど、こんな長閑なところにあるのか?」
「さっきのお店で聞いておいたんだけど、近くにトラベレックスがあるの。そっちに行ってみましょ」
さすがに慣れている。
そう感心しながらも、一応確認してみた。
「……やけに詳しいな?」
すると彼女は胸を張って、どや顔を決めてみせた。
「ふふーん、でしょ? というかね、日本人が海外に慣れてなさすぎなのよ」
「……ぐぬぬ」
ぐうの音も出ない。確かに、俺も含めて、海外経験なんてほぼ皆無の人間が多い。
思い返せば、会社勤めの頃の同僚だって、せいぜい新婚旅行か出張くらいのもんだった。
俺だって、こんな事態に巻き込まれてなければ、海外に来るなんて夢にも思わなかっただろう。
ついこのあいだまで、東京の片隅でゴミ拾いをしていたはずなのに──
気づけば、今はオーストラリアの港町で、迷宮帰りの少女と公衆電話を探している。
人生、どこでどうなるか分からないもんだ。
俺はメイリンのあとをついていきながら、流れる景色にふとそんな感慨を覚えていた。
もし迷宮での移動がもっと一般的になったら、移動手段という概念そのものが変わるかもしれない。
東京からシドニー、あるいはロンドンまで、わずか数歩で……なんて時代も、そう遠くないのかもしれないな。
そんなことを考えているうちに、店の角を曲がった先、白い壁と赤い看板が目印の店舗が見えてきた。
どうやらここがその両替所らしい。
店内は冷房が効いていて、旅人向けの配慮なのか椅子も用意されている。
オーストラリアドルへと換金しているメイリンを横目で見ながら店内を何となく眺める。
ここでもやはり、女性にお金を払わせている、という様な視線を感じるが、努めて無視する。
しばらくすると、無事に両替ができたのか、メイリンがほくほく顔で帰ってくる。
手には、公衆電話で使うことを見越して、いくらかのコインも握られていた。
「……これで、ようやく電話がかけられるな」
メイリンからコインを受け取り、再度先ほどの公衆電話へと戻る。
「よし、かけるか」
俺はコインを片手に、受話器へと手を伸ばした。
* * *
薄曇りの午後、規則正しく並ぶ書類の山の向こうで、一人の男が黙々とペンを走らせていた。
小さく折りたたまれた資料、決裁印が押されるのを待つ報告書、それらが山のように机上に積み重ねられ、彼の視界を狭めている。
男──陸上自衛隊の一等陸尉、タケウチは、硬い顔を崩すことなくその書類群と格闘していた。
深く吐き出される溜め息が一つ、また一つ、静寂の室内で響く。紙が微かに震え、彼の心中の苛立ちと焦燥を代弁していた。
外では訓練中の隊員たちの掛け声が、ぼんやりとした反響をともなって聞こえてくる。
だがタケウチの耳には、その力強さすらも遠い出来事のように感じられた。
そのとき──
廊下の向こうから、荒々しい足音が近づいてくる。誰かが勢いよく駆けているのだ。
叱責の声と、それに重なるように詫びるような若い声。
タケウチが眉をひそめた瞬間、バタン! と勢いよく扉が開かれた。
現れたのは若い隊員、顔面蒼白で肩を上下にさせながら、手に握ったメモ用紙をぐしゃりと握りしめていた。
「た、タケウチさんっ……! で、電話が……イトウさんから……!」
その名を聞いた瞬間、タケウチの椅子が音を立てて後ろに引かれた。
書類の山をものともせず、机を回り込んで隊員の目前に詰め寄る。
「どこだ! なぜ直通にしなかった!」
怒気のような声が飛び出す。だがそれは、心配ゆえの苛立ちだった。
「す、すみません! 国際電話だったので、一旦受付で確認して、それで本人確認ができてから──」
「……いい、案内しろ!」
隊員を半ば引き連れるようにして、タケウチは廊下を走る。
息を切らせる若者とは対照的に、彼の足取りは重くも力強かった。
別室の受話器の前では、既に別の隊員が電話口にいた。
三鷹迷宮に関わった面々の一人で、すぐにタケウチの姿を認めると、無言で頷き、言葉を告げてから受話器を差し出す。
それを奪うように取るタケウチ。
口元に当てた瞬間、声が自然と出ていた。
「……イトウさん!」
──『あ、タケウチさん。いやぁ、ご心配おかけしました』
気の抜けたような、どこか飄々とした声。
その声音に、タケウチの張り詰めた神経が一気に崩れ落ちそうになる。
「オーストラリアと聞きましたが、一体、迷宮で何が……いや、それよりも無事なんですか!?」
声が上ずるのを抑えきれない。
──『ええ、大丈夫です。ちょっとしたトラブルで、迷宮内で飛ばされちゃいまして。前もあったでしょう、あの宝箱のトラップ。あんな感じで、今度はオーストラリアの迷宮にワープしちゃったみたいなんです。で、ようやく出てこれたんですよ』
トラップによる階層転移や空間転移──確かに前例はある。
だが、国を跨いだとなると話は別だ。仮にそれが事実として、なぜそんな移動が可能なのか。
「……それは、こちらでも確認を急ぎますが……! とにかく無事なら、それが第一です。しかし、すぐ帰国できるんですよね?」
──『それが、ですね……どうにも事情があって、すぐには戻れそうにないんですよ』
その一言で、全身の筋肉が凍るような感覚に襲われた。
受話器を持つ手に汗が滲み、次の言葉が喉につかえる。
「……ど、どういうことですか……!? 今のイトウさんは、公式な入国手続きを踏んでいない。つまり、不法入国状態なんですよ!? 万一、現地で拘束されたりすれば──」
──『いやぁ、そこはちょっと、迷宮関係で、としか。詳しくはまた。あ、やば、もうお金が──』
プツッ。
通信が切れた。
静まり返った受話器を、タケウチはしばし呆然と見つめたまま、動けずにいた。
やがて、無言のまま受話器を元に戻し、肩を落として椅子へと腰を下ろす。
「……一体、何が起きてるんだ……」
独り言のようなその声に、室内の誰もが答えられなかった。
だが、すぐに表情を引き締める。
今すべきは、感情に飲まれることではない。
「……シミズとミツイに連絡を。至急で。私は本部に報告に行く」
立ち上がり、制服の胸元を正し、無言の隊員たちの視線を受けながら部屋を出て行く。
胸の奥に渦巻く不安と、わずかばかりの安堵を抱えて──




