第68話 バスに揺られて
舗装の甘いアスファルトを、メイリンと並んで歩く。
ひと気のない道路には、乾いた風が気まぐれに吹き抜け、靴裏が擦れる音を鳴らして足元の砂粒を巻き上げていく。
真昼の日差しはやわらかく、じりじりと肌を焼くほどでもない。ちょうどいい──なんというか、昼寝でもすればそのまま夢の国に連れて行かれそうな、そんな気怠い陽気だ。
時折、前方や反対側から現地の人らしい人物とすれ違った。
年配の女性、作業服の青年、学生のような少年──彼らは誰もが、ちらとこちらを見るだけで、すぐに視線を逸らす。
俺たちの格好が、あるいは雰囲気が、少し場違いに映ったのかもしれない。
だが、それ以上の干渉はない。
よほど変なことでもしなければ、向こうも構ってはこないだろう。
やがて道の端に、小さなバス停の看板が見えてきた。
目立たないそれは、少し斜めに傾いており、ペンキの色もところどころ剥げている。
待合所のようなものはなく、ただ道路脇に立つだけの、無骨な鉄の柱だ。
「……あったな」
俺が呟くと、メイリンもふっと安堵の吐息を漏らす。
タイミングは悪くない。時刻表によれば、まもなく次のバスが来る頃だ。
ベンチすらないバス停でしばらく立っていると、遠くからエンジン音が近づいてきた。
砂埃を巻き上げながら、白地に青いラインの入ったバスがゆっくりと停車する。
運転手は一見して無愛想そうな白髪混じりの男だったが、目が合うと軽く顎を動かしてくれた。
乗り込んだ車内には、誰一人乗客はいなかった。
まるで貸切のような空間に、ふたりで並んで奥の方の席に腰を下ろす。
車体がゆっくりと動き出すと、どこか背中に重みがかかるような独特の感覚が襲い、俺は思わず座席に背中を預けた。
「ふう……あとは数十分ってとこか。揺られて中心街に着けば、ひとまず落ち着けるかもな」
そう言いながら前を向くと、隣のメイリンはスマホに視線を落としていた。
細い指が器用に画面をなぞり、通知を開いていく。
俺はバスに乗っているとすぐに酔ってしまうタチなので、座ったまま窓の外を眺めるのが精一杯だ。
それに比べてメイリンは、何の問題もなさそうにスマホをいじっている。
──いや、もしかすると、あれも“強化”の一種か? 三半規管とかも鍛えられるのか? それはそれで、便利すぎてズルい気もする。
「あらー……」
彼女がスマホを覗き込んだまま、小さく呻く。
眉をしかめ、口元が微妙に引きつっている。
「すごい通知が溜まっちゃってるわ……電話も、メールも。すごい数」
ちらりと俺に見せてくれた画面には、未読のアイコンがずらりと並んでいた。
充電がある程度戻って復活したスマホは、まるで堰を切ったように情報を吐き出してきたらしい。
「……すごい心配されてたんだな」
「まあ、ね」
少しだけ目を伏せて、メイリンが苦笑した。
ただ、その顔はどこか複雑だ。嬉しさだけではない、もう少し別の感情がにじんでいるように見える。
「どうした? 嬉しくなさそうだな」
尋ねると、彼女は苦虫を噛み潰したような顔でこちらを向いた。
「いやぁ……迷宮に飛ばされた話、覚えてるでしょ? 私が悪いわけじゃないのは分かってるんだけど、結果的には周りにすっごく迷惑かけたし。怒られるかなって」
語尾が小さくなるにつれて、肩も少しだけすくんだように見えた。
あれだけ堂々としていた彼女が、こういう時は案外小動物のような反応を見せるのだから、人ってのは面白い。
「そりゃ、心配はしてたと思うけどさ。それだけ時間が空いた今、生きてるって分かれば、まずは喜ぶと思うぞ」
俺の言葉に、メイリンは少しの間、黙っていた。
やがて、はにかむように笑い、照れくさそうに頭をかいた。
「……そうかなぁ。うん、そうかもね」
少しだけ荷を下ろしたような表情だった。
「ところでイトウさんは? 誰かに連絡したりしなくていいの?」
メイリンの言葉に、ふと我に返った。
そういえば──と、頭の奥で忘れていた記憶の扉が軋んで開く。
タケウチさんや他の関係者。そうだ、彼らだって今ごろ俺のことを心配しているはずだ。
迷宮に飛ばされてからというもの、目の前の生存と目先の課題にばかり気を取られていた。
それは仕方がない、と言えば聞こえはいいが……連絡ひとつしていなかった自分が、急に情けなく思えてくる。
「そうだな……こっちも連絡しないと。市街地に着いたら電話をかけたいんだけど──その、悪い。少し金を貸してくれないか?」
顔をしかめるようにして、俺は言葉を継いだ。
「ホテルとかで電話をかけたい。スマホは……やめておきたいんだ」
メイリンの端末を使えば、当然ながら番号は相手にも記録されてしまう。
変に勘繰られるのも嫌だったし、彼女の方も望んではいないだろう。
「もちろんいいわよ」
メイリンは即答したあと、少しだけ首を傾げてから言葉を足す。
「でもね、ホテルの電話ってけっこう高いのよ。だから、ショッピングモールとかにある公衆電話の方がいいかも。最近はあまり見かけないけど、あるところにはあるから」
なるほど、と思った。
「助かる。ありがとう」
そう言って俺は正面を向き、窓の外に流れる風景に目をやる。
あいかわらず見知らぬ街の、埃っぽく乾いた道が続いていた。
「それで──そっちは連絡ついたのか? 電話はともかく、メールか何かで報告はしたんだろ?」
「うん、さっき……ちょうど今、送ったところ──って……」
彼女の指がスマホの画面上の「送信」ボタンをタップした、ほとんどその瞬間だった。
ブルルッ、とスマホが震える。
早すぎる応答に、俺も思わず目を見張った。いや、それだけ心配してたってことだ。
周囲を見回すと、相変わらず車内は俺たちだけだ。
席は後方、運転席からも距離がある。
中国語でのやり取りなら、万が一聞かれても内容までは分からないだろう。
メイリンがちらと俺を見て、小さく頷いてから、スマホを耳に当てる。
「……もしも──」
言葉の続きを飲み込むように、彼女は固まった。
次の瞬間、スマホの通話口越しにとはいえ、こちらまで聞こえる音量で声が聞こえた。
まるで拡声器でも使っているかのような大声──いや、これは叫び声だ。
怒りと安堵と、それから涙が入り混じったような、そんな混濁した感情が押し寄せてくる。
きっと──いや、間違いない。
あれは、父親の声だ。
あまりの勢いにメイリンは反射的にスマホを耳から離すが、すぐに表情を整え、深呼吸ひとつ。
そして、再びスマホを耳に戻した。
その横顔は、ほんの少しだけ、目元が赤くなっていた。
泣いてはいない。けれど、泣きそうなのかもしれない。
「もしもし、パパ? うん、大丈夫、私は無事よ。ええ、うん。そう、えーっと今はオーストラリアにいるの。ううん、シドニーの方じゃない。オールバニーってところなんだけど……うん。え? うん。ほんと!? うん、うん、分かったわ! あ、えーっとそれで、なんだけど──」
メイリンの声が、柔らかくも弾んでいる。
電話の向こうで、怒涛のような声が重なっているのが少しだけ漏れ聞こえる。
なるほど、やっぱり相手は父親か。
状況をひとつひとつ報告しているらしく、彼女は時折、相槌を打ちつつも目線をこちらに滑らせてきた。
……ん? なんだ?
俺が首を傾げると、彼女は「ちょっと待って」と電話口で呟き、スマホを手で覆いながら、身体ごと少し距離をとって小声で話しかけてくる。
「あの、今パパと話してるんだけど……イトウさんのこと、伝えてもいいかしら? もちろんスキルのことなんかは話さない。でも、助けてくれたことを、パパにちゃんと伝えておきたくて……お礼もしたいし」
うーん、とほんの少し唸りそうになった。
正直、スキル関連のこともあり、あまり情報が洩れるようなことはしたくはない。
が、メイリンが話していた、俺以外の固有スキル持ちの人の件もある。
──まぁ、なるようになるか。
俺は小さく頷いた。
「分かった。話してくれていい。ただ、深入りはしないようにしてくれると助かる」
それを聞いた彼女は、ほっとしたように微笑んで、またスマホに戻った。
「──ごめんね、それでなんだけど、向こうで助けてくれた人がいて。今、その人と一緒なの。うん、そう、“中”で会ったの。え? 怪しい? いや……そうかもしれないけど……うん、わかった。うん、じゃあそう伝えておくね。また準備ができたら連絡ちょうだい。うん、お姉ちゃんたちにも後で連絡しておく、うん、それじゃあ、またね」
通話を終える直前、彼女がやや困ったように眉をひそめていたのが気になった。
そりゃまあ、見ず知らずの誰かと一緒に海外にいるってだけでも親からすれば爆弾級だ。
しかも迷宮で会って、助けてもらって、今は同行中……うん、完全に怪しいな、俺。
スマホを切ると同時に、メイリンがふうっと長い息を吐いて、ようやく肩の力を抜いた。
「いやぁ、パパ大慌てだったわよ」
軽く笑うその顔には、安堵と疲労と、少しの照れがにじんでいた。
「想像に難くないな。で、どんな感じだった?」
俺が尋ねると、彼女はぱっと顔を明るくした。
「うん! こっちに向かってる“うちの船”があるらしくて、それに乗せてもらえそうなの。ちょっと時間はかかるけど、私はそれで大丈夫。あとは──」
“うちの船”、ね。
その響きに含まれる重量感に、思わず首の後ろがひやりとする。
出国に関するあれこれをあっさり無視して通してくるあたり、普通の家庭とは到底思えない。
何かしら、力のある家系──おそらく“表”の顔だけじゃないだろう。
「それから──“ぜひご挨拶を”って、パパが」
ああ、やっぱり。
俺、たぶん“チェック”されるやつだなこれ。
「それとね!」
メイリンが急に前のめりになって、明るい声で続ける。
「こっちで、イトウさんの“スキル向き”の話ができるかもしれないの。だから、それも含めて来てくれると嬉しいわ」
ふむ……それは少し興味を惹かれる。
今のところ、俺は日本で個人プレイ状態。自衛隊関係の人たち、タケウチ達とは交流はあるものの、スキルも開示しておらず窮屈といえば窮屈。
スキルの検証やアイテムの充実なんかを考えると、少し中国でそのあたりを進めてもいいかもしれない。
もし後ろ盾ができるなら、それだけでかなり自由度は増す。
ましてや、彼女の口ぶりからして、かなりの影響力を持つ家系らしいし。
……もちろん、それが“裏”の筋か“表”の筋かはさておくとして。
最近、自分の思考がちょっとばかり物騒な方向に寄ってきている自覚はある。
おそらく、ステータス上昇による慢心というやつだ。
以前の自分なら、「安全第一」「関わらない方がいい」と考えていたに違いない。
けれど──力があるってことは、選択肢があるってことでもある。
多少、我儘を通してもいい。
人に迷惑をかけない範囲で、気ままに動いてもバチは当たらないだろう。
……少なくとも今の俺は、そう思えてしまうくらいには“強くなった”のだ。




