第61話 補填と資源
「驚かせるつもりはなかったんじゃ、すまんの」
男がそう言いながら、ぱちんと指を鳴らす。
すると──地面がぬるりと波打つように動き、そこから石造りの椅子とテーブルがにゅう、と生えてきた。あまりに自然な光景に、一瞬遅れて「え?」と声が漏れそうになるのをこらえる。
そのうちの一つにどっかりと腰を下ろした男が、こちらに手招きしてきた。
「立ち話もなんじゃからの、座って話をしようかの」
まるで道端の店にでも誘うような気軽さだったが──気安く見えても、地雷原のような相手だ。
俺はメイリンと目を見合わせてから、小さく頷き合い、慎重に足を運んだ。
出された椅子は、見た目通り、地面と同じく無機質な石でできているように見えた。
だが、いざ腰を下ろしてみると、思ったよりも──いや、かなり快適だった。沈み込みはしないが、柔らかいわけでもない。ちょうどいい硬さで、腰が落ち着く。
男は肘をついて顎に手を添え、こちらを見ながら静かに口を開いた。
「ヨシ、まずは諸々の説明じゃの。聞きたいことも山ほどあるじゃろうが……言えんことも多い。まずは黙って聞いておけ」
言葉の調子が変わった。さっきまでの軽口が一転、どこか公務のような、形式的な響きになっていた。
思わず背筋が伸びる。
「まず、ワシがここにいる理由じゃが……さっきも言った通り、おぬし等に色々と説明をするためじゃ。本来、ワシらが顔を出すことはまずない。この部屋も、おぬし等が言うところの“ボス部屋”じゃ。普段は別のやつがいるんじゃがな」
「ボス……部屋……」
俺がそう呟くと、男は軽く頷いて話を続けた。
「おぬし等が“飛ばされて”ここに来たのは、ワシも把握しておる。本来なら、飛ばされた先から、階層を上るなり下るなりして、出入り口へ戻る……それで済む話じゃ。わざわざワシらが出張る必要もない」
なら、なぜ──と疑問が浮かぶよりも早く、男が言葉を続けた。
「……じゃが、今回はちいと事情が違っての。今おぬし等がいる階層は、“反対の第六層”じゃ。このまま階層を上っていっても、元いた場所……おぬし等の知る場所には、たどり着かん」
……反対?
思わず顔に出てしまったのだろう。男はこちらの表情を読み取りながら、あっさりと言った。
「“反対”の意味は、今はまだ答えられん。境界を管理しとるヤツ……まぁ、ワシの同僚じゃな。そいつがな、ちとしくじりおって……」
その表情は、明らかに呆れと苛立ちが入り混じったものだった。
“同僚”への感情が透けて見えるほど、男の顔は人間くさく、そして妙に親しみすら感じてしまう。
「普段は、境界を超えることはない。じゃが、境界が乱れて崩れ、おぬし等が“反対”に飛ばされたわけじゃな」
「……なるほど」
やっと、色々と合点がいった。
つまり、想定外の不具合に巻き込まれてしまったってことか。
「まぁ、そういうわけでの。こちらにも非があることじゃ。せめてもの補填として、ワシがこうして顔を出し、説明をしに来た、というわけじゃよ」
──補填。
その言葉が妙に引っかかる。
俺は言葉を選びながら、慎重に口を開いた。
「……その“補填”っていうのは、説明だけ、ですか?」
男はニッと笑った。
「いや、まあ、詫びの品ってほどのもんでもないがな。あとか先かの差でしかない」
そう言って、管理人の男が軽く指を俺のほうへ向けた。
──その指先に、ふっと金色の光が宿る。
次の瞬間、ぽうっと浮かび上がるように小さな光の玉が現れ、ゆっくりとこちらへ向かって飛んできた。それが俺の胸元に触れると、溶けるように体の中へと染み込んでいく。
「……っ!」
何かが、明らかに変わった。
重しが外れたような、縛られていた何かが一気に緩むような感覚。息が自然と深く吸える。視界が澄んで、思考の巡りが早くなったような錯覚すらある。
「……!? これは……」
驚きに言葉が追いつかない俺に、管理人がにやりと口角を上げて言った。
「まず一つ目。〈迷宮適応〉のスキルじゃよ。本来は一定の階層まで潜った者に自動的に付与されるもんじゃが──おぬし、まだ持ってなかったからの。先んじて与えたまでのことじゃ」
迷宮適応──そういえば、メイリンが前に言っていた。
「女の方は、既に持っておるようじゃから特にはなしじゃ」
横を見ると、メイリンが「え!?」といった顔で目を丸くしていた。
それはそうだろう、もうすでに持っているのだから改めて別のものを貰えるわけでもない。
俺のほうはというと、確かに……実感としてはっきりわかる。
体の奥から力が湧いてくるような感覚──筋肉が一枚剥がれたように軽く、周囲の空気の密度すら変わった気がする。レベルが一気に上がった時と似た、全能感。だが、これは根本の「適応」が進んだ証拠なのだろう。
「そして、二つ目」
今度は、男の指先から光が二筋。今度は俺とメイリン、両方に。
また金色の光が胸元にふわりと触れ、静かに体の内側に吸い込まれていった。
だが、今度は何の変化も感じない。まるで石が静かに水面に沈んでいったような、静謐な感触だけが残った。
「……今回は、特に変化は──」
「芽は、まだ出ん」
男が言葉をかぶせるように断言する。俺たちの疑問に先んじたような口調だった。
「然るべき時が来たら、目覚める。そういう類いの贈り物じゃよ」
なんとも意味深な言い回し。だが、これ以上聞いても、きっと要領を得ることはないだろう。
そういう顔をしていた。
情報を明かす気がないわけではない。ただ、“今はまだ”というだけなのだろう。
「……贈り物としては、それで全部じゃ。まぁ、大したもんでもないがな」
そう言って、男はテーブルに肘をついたまま、あぐらをかくようにして身を委ねた。
どこか仕事を終えた職人のような、満足げな表情だった。
俺は一瞬言葉を迷ったが、やがて自然と頭を下げていた。
「……ありがとうございます。助かりました」
「よいよい」
管理人は気の抜けたような笑みを浮かべながら、手をひらひらと振った。まるで「気にするな」とでも言うように。
俺とメイリンは顔を見合わせる。
その仕草の中に、なんとなく「またか」という共通認識が芽生えていた。安心するにはまだ早いが、少なくともこの相手のペースに巻き込まれていることだけは確かだ。
「さて、次じゃの」
管理人はそう言って、腰を軽く伸ばしながらこちらへ目を向けてくる。
俺たちが次の言葉を待っているのを感じ取っているのか、少しだけ間を取って話し始めた。
「先にも言ったが、このまま上に進んでも、おぬし等の目的地にはたどり着けん。じゃから、ここから“入口”へ戻してやろうと思うのじゃが──」
そう言って、ぴんと人差し指を立てる。
「──ここでひとつ、難点がある」
嫌な予感が背筋を走った。
「入口まで戻すためには、ちと“資源”が要るのじゃよ。それもな、ワシが勝手に出してよい代物ではない。おぬし等自身で捻出してもらう必要があるわけじゃ」
……つまり、自力で何かを集めろということか。
そう思った直後、管理人は椅子から立ち上がり、部屋の出入口──俺たちが入ってきた方とは逆の扉の方向へとスタスタ歩き出す。
まるで「ついてこい」とでも言うように。
「さて、先にも伝えた通り、本来この場所には“階層ボス”がおるはずだが。こいつを倒せば、まず、資源は得られる」
俺とメイリンの視線が自然とそちらに向かう。
だが、管理人はそこですっと振り返り、目を細めながら続けた。
「──じゃが、それだけでは、足りん。ちいと計算したが、入口まで繋ぐにはもう少し要る。じゃからな……“少しばかり上”のボスを、連れてきた」
次の瞬間、空気が変わった。
管理人の背後──何もなかった空間に、闇のように濃密な“気配”が満ちる。
「……っ!」
ズズ……という音を立てて現れたのは、目を疑うほど巨大な──まるで小さな山のような狼だった。
灰色の毛並みが夜霧のようにゆらめき、真紅の瞳がこちらを射抜くように光る。背丈は余裕で五メートルを超えている。
ただの“獣”ではない。その立ち姿には理知的な冷たさと、殺意の混ざった風格があった。
そして、彼の足元。
まるで号令でもかかったように、次々と十体ほどの“眷属”が姿を現す。
人間と同じか、それ以上のサイズを持つ狼たちが、ぎらぎらと牙を剥いて俺たちを取り囲む。
「こやつらを全部、倒せばよかろう。そうすれば、資源は足りるはずじゃ」
そう言うと、管理人はふわりと宙に浮き──まるで舞台の客席へ移るように、ゆるやかに空中へと退いた。
「さ、始めてもらおうかの。あまり時間もないのでな」
その言葉と同時に、空間に緊張の刃が走る。
「──来るわよッ!」
メイリンの声が耳に刺さる。
俺はすぐさま現実に引き戻され、目の前の群れへと意識を集中させた。
短剣<影走りの短刀>を引き抜き、構える。
足元にわずかに力を込めただけで、全身に雷のような緊張が走る。鳥顔──あいつが残してくれたバフも、体のどこかで煌いている気がした。
「……やるしかないか」
鋭く息を吐いて、俺は前へと一歩を踏み出した。




