第56話 休憩と食事
俺たちは、先ほどの急襲を切り抜けた直後の空気をひとまず落ち着かせるため、ようやく腰を下ろして休憩を取ることにした。
メイリンは水筒を取り出して一口含む。俺も彼女の近くに座り、さっき見た雷の一撃と、そこからの話を思い返していた。
どうしても気になったのは、やはりあの“派生”とやらのことだった。
「あの。スキルの派生って、どれくらいの熟練度──つまり、どれくらい使えば覚えられるんです?」
俺が尋ねると、木にもたれかかって腕を組んでいた鳥顔は、視線だけをこちらに寄越し、少し考えるような間を挟んだ。
「……厳密に、どれくらい、という基準はないな。まったく同じスキルを、似たように使っていても、一月も経たずに派生を得る者もいれば、一生かかっても何も得られん者もいる。スキルとの相性もある……とは聞いたが、正確な理屈までは私も知らん」
その言葉に、メイリンが少し眉を寄せながら口を開いた。
「スキルの枠って五つしかないじゃない? 派生されるかどうかも分からないスキルを入れるって、正直かなりリスキーよね。うーん……だいぶ慎重にならないと怖いなあ」
水筒を両手で持ったまま、彼女は思案気に呟く。
俺も内心同意だった。
実際、今の俺のスキル枠はすでに三つが埋まっていて、メイリンが以前話していたように、迷宮でいずれ“迷宮適応スキル”を得るとなると、実質残りは一枠。
派生を狙って見極めるにしても、上限が決まっているとなれば、確かに博打に近い。
ところが──
「五つ?」
鳥顔が眉をひそめる。まるで聞き慣れない言葉を耳にしたような反応だった。
メイリンも、一瞬何を言われたのかわからなかったのか、ぽかんと目を瞬かせてから、首を傾げた。
「……え? スキルの枠数の話よ。五つまでしかスキルって入れられないでしょ? 普通は」
そう、あまりに“当たり前”のように彼女が言う。
だが──
「ふむ……スキルの数に、そんな制限があるとは。初耳だな」
鳥顔は宙を仰ぎ、首を軽く傾げてつぶやいた。
その瞬間──メイリンの顔が見る見るうちに固まっていく。
「……え?」
普段なら笑ってしまいそうなほど、見事に素っ頓狂な顔。
まさかこの常識が通じないとは、といった驚きが彼女の顔全体から滲み出ていた。
俺も少なからず動揺していた。
五つという制限はメイリンから聞いていたので、俺自身は聞いた話でしかないが、そうはいっても衝撃の内容だ。
実はどこかの国か地域特有のもの? それとも、俺たちだけが制限されているのか?
俺も、手に持っていた水筒を置き、姿勢を少しだけ前のめりにした。
この機会を逃したくない。今のうちに、鳥顔から詳しい話を聞いておきたかった。
「それじゃあ……あなたたちは、スキルの制限がないってことなんですか?」
少し探るようにそう尋ねると、鳥顔は木にもたれたまま、ゆっくりと顎をしごくように撫でながら、しばし思案の顔を見せた。
「……ううむ。答えるなら、“恐らく”という形になるな」
一呼吸置いてから、彼は続けた。
「まず、お前たちが言っていた“スキルは五つまで”という制限。それについて、私はこれまで一度も聞いたことがない。実際、私自身がすでに五つ以上のスキルを所持している」
さらりと、まるで天気の話でもするかのように彼は言ったが、俺も、そして隣のメイリンも思わず目を見開いた。
彼は、その反応にも頓着せず、続ける。
「ただ、だからと言って“完全に制限がない”と断言するつもりもない。私が知る限り、スキルを取得できなかったという例は聞いたことがないが……とはいえ、二十や三十といった極端な数のスキルを持った者を知っているわけでもない。上限が存在する可能性は否定できないな」
──五つ以上スキルを持っている者が普通に存在する。
それだけで、俺たちが“常識”だと思っていた枠組みは少なくとも崩れた。
気がつけば、メイリンも同じように、難しい顔をして腕を組みながら考え込んでいた。
……俺たちは、迷宮の外から来た人間。
そして彼らは、恐らく迷宮で生まれ、迷宮の中で生きている存在。
世界の“仕様”が違う可能性はある、が。
「……少なくとも、私の周囲には“五枠まで”という制約を感じている者はいない。だから、もしかすると──お前たちのような“外”の人間だけに課せられた枷、なのかもしれんな」
鳥顔のその一言に、俺とメイリンは顔を見合わせる。
メイリンがぽつりと呟く。
「でも……それ、本当にそうだったら、嫌な話ね。なんでそんな違いが……」
確かに。彼女の言葉には、どうしようもない悔しさがにじんでいた。
けれど、同時に俺は、鳥顔の話を聞いてほんの少しだけ希望を見出したような気もしていた。
スキルの制限は、絶対じゃないかもしれない。
何かしらの条件や要因を満たせば、枠を増やす方法が──もしかしたら、どこかにあるのかもしれない。
今はまだ何も確証はない。ただ、迷宮で得た知識は、外の“常識”とどこまでも違う可能性がある。
「……なんにせよ、今はどうしようもないけど。情報をありがとう。助かる」
そう言って、俺は鳥顔に軽く礼を述べる。
彼は顎を軽く引いて、視線を森の奥へと戻した。
これ以上の話はないようだった。
俺たちも、しばしの休息を得られたおかげで、幾分か体が軽くなった。
立ち上がり、前を見据える。まだ先は長い。
* * *
その後、特に大きな戦闘も起こらず、予定していた行程を無事に消化できた。
初日としては上々の滑り出しだったと思う。精神的にはそこそこ削られたけど、それも想定内だ。
鳥顔が指定した小さな開けた場所に到着すると、俺は長から譲り受けた“例の箱”を取り出し、地面にそっと置く。
「展開」
そう口にすると、木箱が震えるように音を立てて揺れたかと思えば、みるみるうちに木の板が重なり合い、小屋が組み上がっていく。
何度見ても、不思議な光景だ。
その様子を眺めていたメイリンが小さく感嘆の息を漏らす。
「便利すぎるわね、これ……一家に一台ほしいくらい」
俺は軽く笑いながら、扉を開けて先に中へと入る。
中は思った以上に広く感じられた。外観の素朴な造りからは想像できない空間の広がりだ。
最初の部屋は応接室のような構造で、質素ながら椅子と机、それからちょっとした棚なんかもきちんと揃っていた。木の香りが優しく鼻をくすぐる。
「うわ、意外と広い……」
後ろから入ってきたメイリンが感心したように呟く。
部屋の奥にはもうひとつ扉があり、そちらを開けると寝室だった。ベッドが二台、間隔を空けて設置されている。
ただし、マットや毛布はなし。床板の上に何か敷いて寝る必要がありそうだ。
「ま、寝られれば十分だな」
そう言って、俺は自分のバックパックから簡易シートを取り出す。メイリンも同じように何やら取り出して準備している。
「水回りがないのはちょっと惜しいけど……泊まれるだけで十分よね」
「贅沢言ったらバチが当たるな」
二人で一通り確認を済ませると、俺たちは食事のために一度小屋の外へと出ることにした。
外では、鳥顔が倒木に腰かけて、静かに周囲を見張っていた。気配に気づいたのか、視線をこちらに向けてくる。
「どうした、何かあったか」
「いや、特には。どちらかというと何もなかったから、ちょっと落ち着いて飯でも食べようかと」
俺がそう言うと、メイリンも苦笑いで頷いた。
鳥顔は一拍おいて、ふっと納得したように目を細める。
「なるほど。確かに我々は食事の必要がないからな……」
鳥顔のぼそりとしたつぶやきを背に、俺たちもその場の空気に倣うように、近くの倒木へと腰を下ろす。
背を預けると、思っていた以上に木の感触が心地よく、軽く肩の力が抜けた。少しずつ、旅の疲れが沁みてくる。
「メイリン、そろそろ飯にするか。初日だし──中級、試してみようか?」
何気なく声をかけると、彼女はぱっと目を輝かせてこちらを振り向いた。
「いいわね! せっかくだし、景気づけってことで!」
嬉しそうに笑う彼女は、まるで子犬のようにわずかに身を揺らし、短くまとめたポニーテールがぴょこぴょこと跳ねる。
……なんだか本当に尻尾に見えてくるから困る。
「……よし。じゃあ今日はちょっと贅沢してみよう」
そう言って、俺は頭の中で交換パネルを開き、<携帯食料(中級)>を選択する。
使用するポイントは二つで100。今の残量からしても、許容範囲だ。
シュッ──と空間に光が瞬き、俺たちの目の前に弁当箱ほどの箱が二つ、音もなく現れる。
「お、最下級に比べるとサイズもなかなか……これは期待できそうだな」
片方をメイリンに手渡しつつ、自分の箱の蓋を開けると──ふわりと鼻をくすぐるのは、ハーブの香り。
「これは……」
中には仕切りが施され、複数の食材が整然と収まっていた。
燻製にされた魚は、何の種類かまではわからないが、脂が乗っていて見た目にも食欲をそそる。
黒く硬そうなパンは、香草の香りを含みつつもしっかりと締まっており、保存性を感じさせる。
小さな塊のチーズのようなものに、蜂蜜漬けになった何かの果実──食べる前から、最下級とは比較にならないレベルだと分かる。
「~~~っ! 甘味まで入ってるなんて……最高じゃない!」
隣でメイリンが小躍りしている。嬉しさが全身からあふれているようで、つい笑ってしまった。
「……やばいわねこれ。これが最初だと、後で下級食べたときのショックがでかそう……」
そう言いながら、身体をくねらせて悩ましげに唸る彼女。もはや嬉しすぎて困っている。
俺も小さく笑いながら、その様子を見守る。
確かに、下級食とのギャップは激しいかもしれないが……まあ、いいだろう。
実際、味や満足感で士気が上がるなら、多少ポイントが増えたとしても問題ない。
食事でストレスがたまるようじゃ、本末転倒ってやつだ。
予定とは少しズレるが、こういうのも、旅の流れに身を任せるのが一番いいのかもしれないな。
そう思いながら、いただきます、と口の中で呟いて口に運ぶ。
まずは魚から手をつけた。
手のひらより少し小さめな燻製の魚が二匹、弁当箱の中央に並んでいる。香ばしく燻された香りがふわりと立ちのぼり、思わず鼻をくすぐった。箸がないので、素直に尻尾をつまみ、頭からがぶりといく。
ザクッと骨ごと砕ける乾いた音。その瞬間、口いっぱいに広がる魚の脂の甘みと、燻煙の香ばしさ。程よく効いた塩味が味全体を引き締めて、そしてほんの少しだけ感じるワタの苦みが、絶妙なアクセントになっていた。
「……うまい」
思わず漏れたその言葉に、隣でメイリンがこちらをちらと見るが、すぐに同じく魚へと手を伸ばしていた。
この旨味が舌に残っているうちに、と黒パンに手を伸ばす。見た目通り固めで、ちぎるのにも少し力がいるが、その素朴な歯ごたえとほのかな酸味が、さっきの魚の脂と見事に調和する。
一口目を咀嚼し終えてから、今度はパンをそのまま一千切り口に運んだ。さっきよりもハーブの香りが強く感じられて、爽やかな風が口内に吹いたような感覚になる。
次はチーズらしき白い固形物。乾燥気味で、手でちぎろうとするとぽろぽろと崩れてしまいそうだったので、思い切って少し大きめに割って、その端を軽くかじる。
舌に広がったのは、やや強めの塩気と、独特の発酵臭。それが一瞬強烈に鼻腔を突くが、次の瞬間には濃厚な旨味が口内を支配して、喉の奥へとするりと落ちていく。
そのまま残りを黒パンの欠片に乗せ、二つを合わせて口へ運ぶ。チーズの塩気を、パンの酸味がふんわりと包み込み、歯の奥で噛みしめるたびに両者の味がじわじわと溶け合っていく。
そして最後は、蜂蜜漬けの果実。
黄金色の蜜に沈んだ果肉が、食後の口を甘く彩るのを待っていた。指先でつまみ上げようとしたが、蜜がとろりと滴りそうになったので、慌てて口を寄せる。つつっと垂れた蜜をそのまま迎え入れるように、口を開いてぱくりと包み込んだ。
「……っ!」
最初に感じたのは、蜂蜜特有の刺激のある甘味。舌の上にしっかりと残る甘さが、一瞬にして脳天を貫く。そしてその直後、果実を噛み潰すと、酸味とほろ苦さが同時に溢れ出し、甘味を巧みに引き締めていく。
もう一粒、そしてもう一粒と、指が止まらない。
気が付けば、俺は目の前の弁当箱に夢中になり、周囲のことなどどうでもよくなっていた。ただひたすら食べる。魚、パン、チーズ、果実。それぞれが主張しながらも互いを引き立て合い、気が付けば、すべてが綺麗になくなっていた。
──ああ、うまかった。
しばし放心したまま、空になった箱を見つめる。口の端にはまだ甘味の余韻が残っていて、それを舌でなぞると、もう一度食べたいという欲求がふつふつと湧き上がってくる。
ふと隣に視線を向けると、メイリンも同じようにぼうっと宙を見ていた。あまりに満足しきっていたのか、口元にうっすらと涎まで垂れているのが見える。
……見なかったことにしよう。
鳥顔の方に目を向けると、あいかわらず無表情ではあるが、どこか「やれやれ」と言いたげな雰囲気が漂っていた。だが、それだけ旨かったのだ。人間は、旨いものを前にすると本能が勝る。
しばらくして、メイリンがようやく夢心地から戻ってきた。
「……ねぇ、イトウさん。今後の食事、絶対中級にしない? ほんとお願い、検討だけでも!」
目を潤ませ、胸の前で手を合わせて頼み込んでくる。
「……そうだな」
そう答えるしか、俺にはなかった。